チロル
気づかれちゃいけない。
まして告白なんてできない。
恋かどうかもわからないのだから、余計なことはするべきじゃない。
バレンタイン、女性が男性にチョコを贈って愛の告白をする日。
当たり前だけどこれは、男性と女性の両方が存在していて、なおかつその間に恋愛関係が生じる余地がある場合にしか成り立たない。
職場に女は私だけ。
現場を知らない友達なんかは「紅一点じゃん、モテるでしょ」なんていう。
けれど現実は厳しくて、ここまで男女比が偏るともはや女扱いしてもらえない。
学校やサークルならまた違うのかもしれないけれど、職場だし。
異性として魅力的かどうかより、まず部下として使えるか、上司として信頼できるか、同僚として気を許せるか、そんなことを考える。
そもそも30人近くいる社員の半数は既婚者だし、独身の半分にも恋人がいる。
10人に満たないフリーの男性は、正直なところ「私にも選ぶ権利というものがある」わけで。
平たく言えば、ほとほと恋愛に適していない環境なのだ。
だからバレンタインなんて何の楽しみもない。
外に恋人がいるわけでもないし。
これでも入社3年目までは、社員のみんなに義理チョコを配っていた。
義理というか、いつもお世話になっていますチョコ、かな。
こういうイベントが好きな先輩がいて、1年目に一緒に配ろうと持ちかけられてから、翌年も、その翌年も一緒に義理チョコを配った。
でもその先輩は、私が4年目のときにやめてしまった。
理由は部長との不倫だった。
そこから、元々恋愛要素の薄かった社内の人間関係は、そういう男女の雰囲気をタブー視するまでになってしまった。
別にいいんだ、義理チョコなんて面倒くさいし。
30人しか社員がいないから、逆にあげる人とあげない人を区別しにくい。
全員に配れば安い義理チョコでもそこそこ懐は痛む。
そう思っていたのだけれど。
ちょっと気になる人がいる。
今年転職してきた人。
無気力で、目に光が無くて、仕事は投げやり。
仕事を与えられると返事はするけれど、出来上がったものはかなりイマイチ。
それを突っ込まれると「他の作業があって」「時間が無くて」「もっと早く言ってもらえれば」と言い訳を重ねる。
まるで、私の思いを代弁しているかのように。
なあなあで話を進める上司やいい加減な先輩たち。
毎日暗い気持ちで出社して、うんざりしながら仕事をし、死んだような心を抱えて日付の変わるころに帰宅する。
そんな生活から抜け出したいとは思っていたが、転職活動をする気にはなれなかった。
私が就職活動をしていたころ世間は不景気で、就職氷河期なんて呼ばれていた。
面接どころかエントリーシートではねられて、たまにこぎ付けた面接では人格を否定されるような言葉を投げつけられる。
秋、志望業界とはまったく関係のないこの小さな会社になんとか引っかかったころ、私は私自身の価値なんて耳垢ほども存在していないと思っていた。
転職するには当たり前だが転職活動をしなければならない。
特に優れたスキルや経験があるわけでもない私は、再びあんな思いはしたくなかった。
それならこの腐った会社で、毎日ルーティンワークをこなしているほうが幾分かマシだと思った。
もはや生活費を稼ぐためと割り切っている。
だからどんな理不尽なことを言われてもあいまいな笑顔で乗り切ったし、どんな無茶な仕事を振られても口からでまかせでごまかした。
心の中で毒づきながら。あふれそうな涙を閉じ込めながら。
夏くらいから、彼の目の光が消えていった。
「もっとこうしたら良いんじゃないですか」「こうしたほうがいいと思います」「こうしていただけたらやりやすいです」
それまで彼の口から出ていた言葉が変わっていった。
秋になると、それすらも出てこなくなった。
彼が文章をしゃべるのは珍しく、殆どの会話が単語で成り立っていた。
「はい」「わかりました」「すみません」「できませんでした」「おわってません」「まだです」
口を動かすのも億劫なようで、他の社員と目を合わせることも無くなった。
「お忙しいところすみません、お願いしていたあの資料の進捗状況はどうなっていますか?」
横から尋ねると、彼はパソコンの画面から顔を上げた。
「今八割がた終わったところです。先日の会議でもめたところをどうまとめるか悩んでますけど、今日の定時までには確実に仕上げます」
私には普通に、顔を向けて、ちゃんと言葉で返してくれる。
主任はそれが気に入らないらしくて
「あいつは俺が何か聞いても顔も上げないくせに、お前相手だとへらへらしてるな。よし、お前、あいつ担当だ」
なんて言ってくる。馬鹿じゃないの。心の中で顔をしかめる。
「申し訳ないですけど、細部は未完成で良いので今日の午前中になんとか完成してもらえませんか。主任が午後イチの会議で使いたいって」
「午前中ですか? それは正直もっと早く……せめて朝イチに言ってくれれば」
時刻はもう十時を回っている。お昼までにはもう二時間ない。
「そうですよね。でも、先ほどお客様から電話があって、急遽資料を見たいと仰ったそうなんです。他の作業の優先度を下げていただいて構わないので何とかお願いできませんか。私もお手伝いできるところがあれば分担します」
ちょっとだけ嘘をつく。お客様から電話があったのは昨日の夕方だ。
それに、確かに資料を見たいと仰ったけれど、元々来週お見せする予定だったことをご存知で、無理なら予定通り来週で良いと仰って下さったのだ。
それを「大丈夫です、もうできています、明日お見せできます」と安請け合いし、しかもそのことを彼に伝え忘れたのは主任だ。
でもその事実を彼に伝えたところで何にもならない。アホ主任にいらだっている暇があったら、その時間を資料作りにまわしたい。
「ま、どうせまた主任さんが俺に伝え忘れたんでしょう」
あっさりバレる。それほどまでにイツモノコトだ。
「すみません」
別に私の責任じゃないのだけれど、申し訳なくて頭を下げる。
「はっきり言って資料のクオリティは保証できないですけどね、間に合わせるだけなら間に合います」
軽いため息とともにそう言って、彼はまたパソコンに向き直る。
「よろしくお願いします」
自席に戻ってから私も小さくため息をついた。
お昼休み。
時間通りに彼が持ってきた、お世辞にも出来がいいとは言えない資料を提出すると、主任はそれをぱらぱらと流し読みして鼻で笑った。
「PM経験があるといっても、所詮倒産するような会社に勤めていた人材じゃこの程度かね」
さすがに表面的にさえ同意したくなくて黙っていたが、主任はお構いなしに続ける。
「こんな資料をお客様に見せて恥をかくのは自分だっていうのに、ヒラは気楽でうらやましいよ、まったく」
そして私に資料を渡す。
「じゃ、十部印刷しておいて」
資料を印刷し、会議室のセッティングをする。
準備が終わったころには、お昼休みは残り十分を切っていた。
これじゃ食事をとるのは無理だ。
それでも疲労感、いや徒労感が強かったので、私はコンビニへ向かった。
ちょっとしたお菓子でもいいから口にしたい。
コンビニに入るとバレンタインコーナーがあった。
可愛らしい、おいしそうなチョコが美しくラッピングされている。
お値段は……ゲッ、一番安くても500円もする。
無理無理、こういうのは若い人たちにお任せしましょ。
バレンタインコーナーの横を通り過ぎる。
そこは心のオアシス、スナックのスペースだ。
簡素なパッケージに包まれたおなじみのチョコが「バレンタインと言われても」といった顔で並んでいる。
好物のたけのこの里に手を伸ばしかけて、ふと思う。
あのアホ主任をはじめとする上司たちに振り回されて疲れているのは皆同じ。
バレンタインなんだし、義理チョコの一つでも配ってみようか。
もちろん、高級チョコなんて渡す気はない。
本の気分転換に、ちょっとした甘いものを一口、そんなものでいいのだ。
だから、チロルチョコを手に取った。
クッキーとミルクとビター。コンビニだと21円する。人数分買えばそれでも500円以上する。
気持ちだからね、気持ち。
ふと彼の顔がよぎる。
アホ主任曰く「プライドばっかり一人前の、使えない中途クン」だけど。
もし彼と個人的な話をするような仲になったなら。
「あの主任、どうにかならないかな」「ほんとにね」なんて愚痴をこぼし合い、「ま、いっか」って笑いあう。
この味気ない世界がほんのちょっと柔らかくなるんじゃないかなんて思う。
少しだけ迷って、一つだけきなこもちを手に取る。
人気の高い、冬季限定の味は、ちょっとだけお高くて32円。
フロアに戻ってチロルを配る。
「えっ、なにこれ」
「バレンタインなんでチョコあげます」
「義理感半端ないぞこれ」
「いらないなら返してくれてもいいんですが」
「いやいるけど」
「感謝して食べてくださいね」
「チロル程度で恩着せがましいなお前」
そんな軽口を叩き叩かれながら机の間を歩いて回る。
暗かった空気が少しだけ和やかなものに変わった。
うん、買ってきてよかった。
「……さんもどうぞ」
さりげなく、さりげなく、きなこもちを渡す。
「ありがとうございます」
何も気づかずに彼は受け取った。
気づかれちゃいけない。
……気づかれるわけがない。
そりゃそうだ。チロルチョコだもの。
まさか本命チョコだとは思うまい。
たった11円の差しかない、それに気づけという方が酷だ。
今年のバレンタインも単なる平日。
明日からもきっといつもと同じことを繰り返す日々。
それでも、私の心臓は、初めて義理じゃないチョコを渡した子供のころのように激しく脈打っていた。
2014年02月18日 19:57
2014年2月お題「バレンタインデー」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます