浮気の証拠
不動産広告の煽り文句は『閑静な住宅街』に違いない、そう思わせる家々の間をすり抜け、泰之は鍵をドアノブに差し込んだ。
慎重に回した鍵はかちゃりと無機質な音を立てて静寂を破る。
何故かしら後ろめたい気持ちになって後ろを振り返るものの、鍵の音を咎める者は勿論誰もいない。
ほっと一息をついてドアを開け、足音を忍ばせて向かった先は妻の待つ寝室、ではなく隣の洋室だ。
「ただいまー。今日も遅くなってごめんよー」
息だけで語りかけるその先にはもうじき三歳になる愛娘の由利子がお気に入りの毛布を抱きかかえてすやすやと寝息を立てていた。
このところ帰りの遅い日が続いている。今日のように十二時を回ることも少なくない泰之の日課は、帰宅したら子供部屋に直行し、愛娘の顔を見ることだった。
まだ幼児ながら、その顔立ちには愛する妻の面影がある。妻にするように由利子の髪を優しくなでると、不意に目に衝撃が走った。
「由利子から離れて、このけだもの!」
真夜中に相応しくないヒステリックな声。目の衝撃は、急につけられた部屋の明かりだ。
「起きていたのか」
妻の早苗が、肩で息をしながら泰之を睨みつけている。髪は乱れ、目は血走り、とても見られたものじゃない。これじゃ由利子のお気に入りの絵本に出てくる山姥だ。
「どうしたんだ、そんなに興奮して。体に障るぞ」
腹部のふくらみに視線を向けながら、落ち着かせようと声をかけるが、早苗は聞く耳を持たないようだ。
「体に障る? あなたなんかに心配してもらわなくて結構よ! そうね、夜更かしするよりあなたの姿を見ているほうがよっぽど私の体に障るわ。今すぐ由利子からその汚らわしい手をどけて、そのまま出ていって、二度と帰ってこないで!」
早苗は良く言えば素直、悪く言えば思ったことをすぐ口に出す性格で、気に入らないことがあると泰之につっかかってくることは珍しくない。
それでも、汚らわしいだの二度と帰ってくるなだのと迄いわれるような覚えはない。
「穏やかじゃないな、何なんだいったい」
半ば呆れて言う泰之の態度が火に油を注いだらしい。
「しらばっくれる気!?」
そう叫ぶと、早苗は手に持っていた何かを思い切り泰之に向けて叩きつけた。
しかしそれらは泰之まで届かず、二人の間にばらばらと落ちる。
何枚かの紙……写真に、レシート、あれは名刺だろうか。
「とぼけたって無駄よ、浮気の証拠はそろってるんだから! 例えばこれよ!」
早苗は自分の足元に落ちた一枚の写真を拾って突きつける。身重の体では屈むのも一苦労だろうにスムーズにやってのけた早苗の気迫に、泰之は今更ながらに危機感を覚えた。
「このひと誰よ! キスなんかしちゃって!」
それは、泰之と、セミロングの茶髪の女性が、一本のポッキーを両端から二人で食べている姿だった。
キス、しているように見えなくもない。いや、例えここで唇が触れ合っていなかったとしても、そのわずか数秒後に二人の唇が触れ合ったことは間違いないであろうと思える写真であった。
「こっちは高級ブランドバックのレシート、こっちは若い女の子に人気の靴のレシート、これはホ、ホテルの明細だし……どうせこの名刺の女なんでしょ!? 私がこんな体なのにあなた毎日残業だなんて言って、キャバクラに通いづめているんだわ!」
ひとしきり怒鳴ると早苗は床に座り込んで、子供の様に「うわぁぁぁぁん」と泣き出した。
妊娠中は情緒不安定になると聞いているが、これはひどい。
「早苗……誤解だ、聞いてくれ」
「聞く耳なんて持たないわ、これだけの証拠があるんだから!」
「いいから聞いてくれ、ちゃんと説明するから」
「何を説明するっていうのよ!」
「例えばほら、君の持ってるその写真」
「もうすぐ二児の父親になろうって男がキャバ嬢とポッキーゲームしてる写真をどう説明してくれるっていうの!!」
「だから、これキャバ嬢じゃないって。ほら、よく見て……ほっぺたや顎のあたり、うっすら青くなっているように見えないか?」
「それがなによ!」
「これ、ヒゲの剃り跡だよ」
「え、ヒゲ……ヒゲ? キャバ嬢じゃなくてオカ、あなた、まさかそういう趣味が」
「違うって。良く見て。唇の上に大き目のホクロがあるだろ。これ、見たことないか?」
「ホクロ? そういわれれば見たことあるような、ないような」
「思い出さないか? 2年後輩の森田君。うちにも何回か来たことあるだろう」
「え、森田さん? 森田さん……そういえばホクロがあったけど」
「これはあれだよ、今年の会社の新入社員歓迎会の、うちの部の余興だよ。後ろの禿げ頭は僕たちの仲人をしてくれた専務だ」
「じゃ、じゃあこっちのレシートは? 女性もののブランドバッグなんて買ってどうしたの」
「僕が入社した時からずっと目をかけてくださっている山下部長のお嬢さんが今年成人なさったから、そのお祝いだよ。君にも相談しただろう? ちょっと奮発したものを差し上げたいけどボーナスを使って構わないかって」
「確かにそんなこと言っていたけど、でもバッグだなんて」
「僕も最初は図書券や商品券にしようかと思ったんだけどね、そういう時代じゃないらしいよ」
「じゃ、こっちの靴は」
「部長の下のお嬢さんにだよ。二人姉妹なのにお姉さんのほうにだけあげるわけにはいかないだろう」
「で、でもついでにしては値段が」
「何を言っているんだ。僕たちがまだ新人で貧乏していた頃、何かと口実を作っては食事や旅行に連れ出してくれた部長じゃないか。君だってさんざんお世話になっただろう」
「それもそうだけど……でもこれは? ホテルのツイン、これは言い訳できないでしょ!」
「ダブルなら言い訳できないかもしれないけどね。この間仙台支社に出張に行ったときのだよ。お土産に萩の月買って来ただろ? 当然一緒に泊まった同僚は男だ」
「……もう臨月なのに相変わらず毎日帰りは遅いし」
「それは本当にすまないと思っている。だけど早苗、君も由利子を産むまでは同じ部署で働いていたんだから、うちの残業の多さも、奥さんの妊娠くらいじゃ帰らせてくれない社風も知っているだろう?」
「……」
一つ一つ『証拠』とやらをつぶしていくと、早苗は自分の誤解に気づいたのか押し黙ってしまった。
この機を逃すかとばかりに泰之は、早苗の手を握り、目をまっすぐ見つめて真摯な思いを口にした。
「早苗、こんな状態なのに毎日帰りが遅くてさみしい思いをさせているのは本当に悪いと思っているんだ。君が心細いのも、そんな状態で手のかかる由利子の世話や家事なんかをよくやってくれているのもわかっている。これについてはどれだけ責められても言い訳できない。だけど、浮気を疑うなんて言うのはやめてくれ。僕は君や子供たちのために頑張っているんだし、それに……こんな時に一緒にいられないのを辛いと思うのは、君だけじゃないんだ」
早苗の目から、先ほどとは違う涙があふれる。
「そうね……あなた、ごめんなさい……私、不安で仕方がなくて……」
それはそうだろう。育児疲れに臨月の心細さ、夫不在の寂しさが重なったところに、見ようによってはクロとなりうる材料がいくつも出てきたのだ。それらを結びつけて勘違いし、爆発してしまうのも無理はない。
それでも早苗はバカではない。素直で物わかりのいい女だから、一時の爆発が収まれば理解もするし反省もする。
「さあ、わかったならベッドへ行こう。こんなところに座り込んでいたら体も冷えるし赤ちゃんに良くない」
早苗の体を抱きかかえるようにして立たせると、彼女は顔を赤くしながら「ゴメンナサイ」とまた泣いた。
泰之はそれを優しく、隣の寝室までエスコートし、涙を指の腹で拭って軽くキスし、再び寝室の外へと向かう。
「どこへ行くの?」
「どこって……君がさっき散らかしたものを片付けに行くんだよ」
苦笑しながら言うと、早苗は恥ずかしそうに掛布団で顔を隠した。
もう三十になろうというのに、こういうしぐさは相変わらず可愛らしい。
「ごめんなさい、私もいくわ」
「いいから君は早く寝なさい。明日からも頑張ってもらわなきゃいけないんだから」
「うん、ごめんね」
「いいから」
「すぐ戻ってきてね」
「すぐ戻るよ」
たかだか数歩の、隣の部屋に行くだけなのに。
片時も離れたくないという妻の愛情を感じながら、泰之は娘の部屋に戻る。
あれほど騒ぎ立てたのに、娘は相変わらずすやすやと寝息を立てている。
素直で愛情たっぷりの妻、可愛らしさ溢れる娘、間もなく生まれてくる待望の息子……これらかけがえのないたからものを失うかもしれないというのに、どこの馬鹿が浮気なんてする?
床に散らばった『浮気の証拠』を手早く片付けると、泰之はポケットから携帯を出して、ただ一言『別れよう』というメールを送った。
そして妻の待つ寝室へ向かいながら、携帯の電源をそっと落とした。
(了)
2014年03月31日 22:40
2014年3月お題「不倫」
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