サクラシブキ

暖かく温暖な気候帯に、モニカの住む島はあった。横から見たトマトを少し斜めに配置したような形で、住民のほとんどはトマトの下半分に住んでいた。

上から見るとヘタに見えるその場所は、波によって削り取られた岩肌が寒々とした崖で、対岸には千年近く前に火山の噴火によって大陸と陸続きになったという島がある。モニカたちが花島と呼ぶその島はクルマエビのような形をしていて、ここから一番近い部分がエビの尻尾にあたる。その尻尾部分にはたくさんの桜の木が植えられており、春も終わりのこの季節になると一斉に花吹雪が舞う美しい様子をこちらからでも見ることが出来る。

一番近いと言っても二つの島の間は3キロほどの距離がある。水に触れると溶けてしまうモニカたちは、花島まで泳いでいくことはできない。

何年かに一度、大潮と呼ばれる日があって、その日には潮の満ち引きの差が10メートル近くにもなる。その日潮が引くと、二つの島の間にボロボロの陸路が姿を現した。そこを歩いていけば、花島へ行くことが出来る。ただしその道は水に侵食されて脆く、歩いているだけで崩れてしまう恐れがある。水中に落ちてしまったら絶対に助からない。だから普段は、大潮の日であってもその道を渡って花島へ行くことは長老たちによって禁止されていた。もっともちょっとした油断で命を落とすのであるから、いたずら盛りの子供でさえ敢えて禁を破り花島へ行こうとするものはなかった。

島のものにとって花島は自由に生きることの象徴であった。というのも、モニカたちの住む島は外周が10キロにも満たないほど小さいうえに、動物もほとんどおらず植物も育たない、言うなれば不毛の土地であり、住民は日々生きていくことさえままならないからだ。

住民が増え、それに見合うだけの衣食住がどう頑張っても供給できなくなり、病や飢えに倒れるものが増えてくると、長老たちは慎重に会議を重ねた上で「大移動令」を出す。だいたい住民が250人を超えるころに出されるもので、可能なものは岩道を通って花島へ渡れという命令である。大移動令が出されると、次の大潮の日には民のほとんどが互いの手を取りながら花島へ向かう。その際10人以上が海に落ちたり、水に体を侵食されたりして命を落とす。一方で小さい子供や病人、身重の女性など、3キロの岩道に耐えられないと思われる人及びその家族は島に残ることを許されており、1~2割近くのものはそのまま残ることを選ぶ。数百人を養うだけの許容量がない島でも、数十人だけなら十分に食べていくことが出来る。やがて、島に残った者たちが十分に栄養をつけ、子を産み、健康に増えていくと、再び数が島の許容量を超え、また次の大移動令が発布され、それを繰り返して彼らはこの島と生きてきたのであった。

言い伝えによると花島の尻尾部分に植えられた桜並木は、島に最愛の妻と子を残して花島にわたらざるを得なかったとある男が、残された者たちの慰めになるように植えたものであるという。


比較的海が穏やかな島の下半分に比べ、上半分、特にヘタ付近では波も激しく、水が苦手な住民はヘタ側を避けるのがふつうであった。

しかしこの一週間というものの、皆わざわざトマトのヘタまでやってきては、海を眺め、口々に何かを言い合って、また戻って行く、そんな状態がひっきりなしに続いていた。

二か月前の集まりで、長老たちが1年ぶりの大移動令を発布したのだ。今回、住民はまだ100人を超えたあたりで、長い歴史を考えればわずか1年で大移動令が出されるのはとても珍しいことである。さらに今回の命令はいつもと違っていた。『全員移動せよ』というのである。

これには、体の弱いものや病人怪我人、妊婦や乳児を抱える母を中心に大きな反対の声が寄せられた。だが長老アイアスは命令の撤回を行わなかった。

「この数年というものの、大移動によって島の人数が減っても残されたものの生活は一時的に裕福になることさえなく、島はいよいよ死に向かっている。このままでは我々は島とともに100%死ぬ運命だ。花島へ渡ることは簡単なことではない。もしかしたら命を落とす確率も90%くらいはあるのかもしれない。それでも10%の生に賭けたい。仲間の最後の1人にも、生きる可能性に賭けてもらいたい」

アイアスのいうことは事実であった。島で採れる野菜や果物は目に見えて減って行き、大移動後に残された数十人の腹を満たすことのできない年もあった。通常ならば、百人以上で分け合っていたわずかな食料を数十人に集中させることで弱っているものの回復を図ることが出来るのだが、それすらままならずに死んでいくものも増えた。今や島の住人は、若い男でさえガリガリに痩せ、木の一本も満足に切り倒すことのできないありさまだ。

「このまま緩やかな死を待つよりは、先に島を出た仲間の待つ大陸へ行こう。仲間の想いの詰まった花島の桜を見に行こう」

アイアスは長老たちから若者へさまざまな知識を伝えさせた。そして、弱っている人を手助けして運ぶ方法や、水に触れてしまった時の応急処置のやり方、一時的に痛みを緩和する薬の作り方など、弱いものを連れて岩道を渡るための準備を徹底させた。

その甲斐あってか反対意見を述べたものも含んだ大半の住民が民族皆大移動への理解を示し、皆そろって花島の地を踏もうと前向きな明るい気持ちで訓練や準備に励んでいた。そしていよいよ今夜が、記録に残るであろう大潮の日なのだ。


モニカはそっと窓を開けた。

先ほどまでは大移動のために大勢がヘタでわいわい騒いでいたが、それももう聞こえない。ここしばらくは夜通しうるさかったものだが、さすがに岩道を渡る最中に大騒ぎをしている余裕はないのだろう。

窓の向こうは静かで、サァーッ、サァーッと波の音だけが響いている。風も止んでいるようだ。ベッドから起きだし家の外に出ると、傾いた月がほのかな明かりで木々を照らしていた。この辺は緑も豊かだが、それらの木々は残念ながらモニカたちが食べても栄養にはならない。

慣れ親しんだ道を抜け海へ出ると、あちこちに目印として残された縄や木の枝などが目に付いた。足元の草(これも食べられない)は刈られ、脇のほうに捨てられている。剥き出しになった岩肌には石で刻み込んだらしい「ココカラ岩道ヘ下ル」という文字が見て取れる。杭が打ってあり、縄梯子が結び付けられている。梯子の先っぽは海の先に延びている。梯子がほとんど揺らがないところを見ると、おそらく先っぽには重石が沈められているのだろう。

(勝手なことばっかり)

いら立ちを隠さずにモニカは積み上げられた刈り草を蹴り飛ばした。全く抵抗を感じないその感覚が、よりいら立ちを増幅させる。

(私のお庭をこんなにしちゃって)

ヘタの近くに住むのはモニカだけだ。勿論モニカの持ち物というわけではないが、このあたりをきれいにし、見回っているのはモニカだった。

(あの草は食べられないけれど、もう少し育てばいい断熱材になるし、あっちの倒された木だって海からくる潮風をよけるのに重要だったのに)

ボロボロに荒らされた“庭”を見ていると、鼻の奥がつんとしてきた。それをごまかすようにかぶりを振って、モニカは歩き出した。変えられてしまったのは湾だけではなく、その近くの開けた場所は「待機場所」として均されてしまっていたし、ゴツゴツした岩場は「物置場」にされて、使わなかったロープや杭やマット、それに訓練の時に壊れた小舟やら穴の開いた板やらが放置されていた。

命がけで

島を出ていった者たちが後始末のために戻ってくるなんてあるはずもないから、これらのゴミをきれいにするのもモニカの仕事だ。一体何日かかるのだろう。

大きくため息をついたその耳に、ナオ、ナオと弱弱しい声が聞こえた気がした。

(何かいるの?)

耳を澄ませると、岩場の左手のほうからそれは聞こえてくるようだ。

恐る恐る近づいてみると、一羽の海鳥が苦悶の表情を浮かべて声を漏らしていた。

「どうしたの。あんた大丈夫?」

後ろから声をかけたのがまずかったのか、海鳥は驚いたように首をすくめた。そして声をかけてきたのが丸腰の少女だと分かると、安心したように息を吐いた。

「ああ、びっくりした。まさかこんな時間に誰かがいるとはね」

「ごめん、脅かすつもりはなかったのよ」

「脅かすつもりだったのなら僕は全力で遺憾の意を表明するよ」

海鳥は不服げに翼をばさばささせた。だが勢いよく羽根を散らせる右の翼に対して、左の翼はどっか動きもぎこちなく、なんだか形もおかしいようだ。

「怪我してるの」

「そんな気はしていた。なんだか熱があるし、思うように動かないから。君から見てもやっぱりそう見えるかい」

さっきの『遺憾の意』といい、ずいぶん面倒くさい言い方をする鳥だな、と厄介に思いながらモニカは答えた。

「そうね。私にもそう見えるわ。何かあったの?」

「茂みで羽根を休めていたら大勢ひとがやってきてね。大きな荷物を抱えていったり来たりしていたのだけど、その時にどうやら踏まれてしまった」

大移動の際の誰かに踏まれたらしい。それにしても、大荷物を抱えているということはそれほど俊敏に動いてはいないはずなのに、それなのに踏まれてしまうとはずいぶん間抜けな鳥もいたものだ。

「その顔は、僕を間抜けだと思っているね」

内心を見抜かれてばつの悪そうな顔をするモニカに、海鳥はフン、と鼻を鳴らした。

「思索の海へ旅立つときに俗世のことを意識するようではまだまだだ。僕にはいろいろと考えるべきことがあるのだよ」

「それなら」

あまりにも気取った様子がおかしかったので、モニカはつい言わずにはいられなかった。

「いろいろなことを考える前に、これから考え始める場所が安全かどうかをまず考えたらいいんじゃないかしら」

「安全だって!」

海鳥は大きな声を上げた。

「安全だったさ、僕が思索を始めたときはね! 後からやってきたのはあいつらのほうさ、ガヤガヤとやかましくして、落ち着きなくうろついて、挙句の果てにこの僕の翼を踏むんだ!」

随分と激しく憤っているようだ。

「それはお気の毒。でも安心して、あのひとたちはもう二度とここへは戻ってこないはずだから、これからは遠慮なく、いつでもどこでも思索のナントカに旅立っていいわ」

モニカがそういうと、海鳥は虚を突かれたような顔をした。

「戻ってこないって? それはどういう意味だい」

「言葉通りの意味よ」

モニカは面白くなさそうに海のほうを眺める。彼らが木を切り倒していったせいで、ここからも花島が見える。

「彼らは島を出ていったの。この島には私たちが十分に食べていけるだけのものがもうないのよ。今この島に残っている住民は、多分私だけじゃないかしら」

「皆出ていったなら、どうして君はここにいるんだい」

海鳥は首をかしげた。

「私は行かない。そう決めたの。だって私たち、水に長く浸かったら、そのまま溶けてなくなってしまうのだもの」

「でも皆は行ったのだろう?」

「皆はね。皆は生きていたいから行ったのよ。友達や恋人や、親や子供と……私にはそういうひとはいないから、ここにいるのも花島へ行くのも同じなのよ。同じなら、わざわざ危険な岩道を渡る必要はないと思わない?」

「確かにそうだ」

海鳥はわかったような顔をしてふんふんと頷き、付け加えた。

「同じならね」

「同じよ」

少し苛立った声でモニカは答えた。いくら決めたこととはいえ、この話題は面白くもない。

「そんなことより羽根見せなさいよ、手当してあげるわ」

海鳥の傷ついた左の羽根を手に取る。幸い骨が折れたりはしていないようだ。近くに転がっていた木の板と弦で羽根を固定する。

「一週間くらいは動かしたらだめ、安静にするのよ。一週間たったらこの紐を引っ張って。そうしたら板が外れるようにしたから」

「ありがとう。でも一週間も飛べないなんて不便だな。さっきの君の話だとこの島には食べ物もないみたいだし」

「人一人に鳥一羽分くらいならあるわよ」

「僕は花島へ行こうと思うのだけれど」

「一人で行ったら?」

「君を一人にしておくのは申し訳ない」

「それならご心配なく。私、ずっと一人だったもの。これからも上手くやっていけるわ」

「君みたいな若い女の子が一人だなんて、どうしてそんな寂しいことを言うんだい。君くらいの年なら、家族や友達、恋人と楽しく過ごしているのが普通なんじゃないか」

「鳥風情がわかったような口を利かないで」

モニカはぴしゃりと言った。海鳥は驚いて口をつぐんでしまい、二人の間には波音しか聞こえなくなった。

「……ごめん、でもそれは私の言われたくないことなの」

うなだれてしまった海鳥の背中を撫でながらモニカは謝った。

「もしよかったら聞かせてくれるかい」

「ええ、いいわ」

普段なら絶対に首を縦に振らないところだが、この時は自然にそう答えていた。やはり寂しかったのだろうか、なんとなく誰かに聞いてほしかったのかもしれない。

「これ、みて」

モニカは顔の半分を覆っていた前髪を掻き揚げた。

「模様があるね」

「模様じゃないわ、火傷の跡よ。私が小さい時、火傷で顔の半分が溶けてしまったの」

掻き揚げた髪をおろす。あの日からずっと顔を隠して、自分自身も隠れて生きてきた。

「私の家はね、皆が収穫した食べ物を管理する倉庫番の仕事をしていたの。だけどある日倉で火事が起こって……両親も叔父さんも兄さん姉さんも死んでしまったし、残された私は皆の貴重な食べ物をダメにしたって皆に責められ続けて……そのまま逃げるように、誰もいない島の北側に逃げてきたの。月一回の集まりには出なきゃいけないけど、それ以外では誰にも会わないし誰とも口を利かないわ。でも何も困ることはなかった。それでちゃんと生きてこれたもの」

「だから花島へは行かないのか」

「そうよ。あの火事からもう十二年もたつのに、集まりに出ると皆私を遠巻きにしてひそひそするのよ。そして冷たい目で見て、ちょっとでもそばによると引き潮みたいに離れていくの。その人たちと一緒に花島へ行ってどうするの? 私はここで一人で暮らすわ、最期まで」

一気にしゃべってしまうと、モニカの目から一筋の涙がこぼれた。

「さ、もう帰らなきゃ。あんたも花島へ行くなら早くしなさいよ、あと2時間くらいで潮が満ちてくるから」

スカートのすそを払って立ち上がるモニカの背を、海鳥の声がとらえた。

「今の僕と君は同じだね」

「どういうこと?」

「僕たちは飛ぶことが出来ないからさ。僕は傷ついた翼を抱えて、君は傷ついた心を抱えて。でも、僕はすぐに飛べるようになる。君が僕の翼を癒してくれたから」

海鳥の声はまっすぐにモニカの心に届いた。

「僕は君にお返しがしたい。一緒に岩道を渡らないか? 君も知っているだろう、今頃あちらでは桜の花がとても綺麗だ。僕はあれを見るのがすごく好きでね。良いものだよ、毎年毎年、薄いピンクの花びらが天に向かって広がっているんだ。それを、君と見たい」

いつもこちらから見ていた花島は、確かに白に近いピンクの帯が海と空の間に浮かび上がっているようでとても美しかった。それを間近に見られるのだろうか。

「他の誰のこともどうでもいい、僕と行かないか」

海鳥は二つの目でモニカを見つめて強く鳴いた。

「いいわ、あんたがそういうなら、行ってあげる」


既に海面は上がりつつある。縄梯子を降りるだけで手にいくつもの擦り傷を作ってしまったモニカは、先を行く海鳥の白い体を目印に、不安定な岩道を一歩ずつ進んでいた。

幅が10センチもないくらいの足場は、道というよりまるで綱渡りで、モニカは両手を広げてバランスを取りながら慎重に進んでいった。

「モニカ、大丈夫かい」

器用にぴょんぴょん飛び跳ねながら、時々後ろを振り返って海鳥が言う。

ところどころに誰かが足を踏み外したのか、真新しい崩れた跡がある。岩に服の切れ端が引っ掛かっているのもいくつか見た。

「そこ、崩れているから気を付けて」

先導してくれる海鳥がいるおかげでかなりスムーズに進むことが出来るが、それでも陸地を歩くのとは比べ物にならないくらい気を使う。

おまけに高くなってきた潮が岩道に横からあたり、ザバーンと音を立てながら飛沫を吹きかけてくる。水に触れた腕が、嫌な斑点模様になる。ポケットから水分を吸い取る薬草を取り出して腕にもみこむと、痛みが薄れた。

(どうせ渡ることになるなら、もっと薬を作っておけばよかったわ)

モニカは後悔した。二か月前の大移動の命令があってから、女たちはこぞって薬草作りに精を出した。それを見るとなんだか腹が立って、モニカはわざと薬草を作り足さなかったのだ。

(皆がいなくなったら、薬草だって独り占めだもの)

棚のストックは少なくなっていたが、そんな風に考えて出かけなかった。誰とも顔を合わせたくなかったのだ。

「ここ、誰かが落ちたみたいだね。大きくえぐれているから気をつけて」

海鳥が言うとおり、20センチほど道が途切れている部分があった。少し離れた岩のそばに、なめし皮で作った粗末な靴がプカプカ浮いている。

子供だ。

モニカの手ほどの大きさの靴が水面を漂っているのを見ると、背筋が冷たくなった。その辺に靴の持ち主もプカプカしているかもしれない。いや、もう溶けてしまったか。

「早く行こう」

小さく手を合わせてから、モニカは再び進みだした。島に残れば海に溶けずに済んだのに、それでもその靴の持ち主は、靴の持ち主の家族は、皆で花島へ行くことを願ったのだ。

「私、花島に行ってどうするんだろう」

つい独り言が口をついて出る。

「桜を見るんだ、僕と」

海鳥が振り向かずに言う。

「モニカ、島では皆ぎりぎりの暮らしをしていたから、きっと誰かに優しくする余裕を失ってしまったんだと思う。でも、花島へ行けば、波に怯えなくてもいいし、食べ物や服もたくさん手に入る。だから、皆心に余裕が出来て、優しさも取り戻してくれるさ」

「皆のことなんかどうでもいいわ。私は、あんたが私と行きたいっていうから来たのよ」

大きく息をついて先を見つめる。桜色はもうすぎ手の届きそうな位置に見えている。

だが、出発したのが遅すぎたのか、それとも岩道を渡るのに時間がかかりすぎたのか、水面はもうすぐそこまで迫っていた。

岩道のくぼみに水がたまり始め、足元が滑るようになってくる。靴の底はもう水に浸かり、じわじわとしみこんでくる。

「歩くんだモニカ、止まっちゃだめだ!」

海鳥が、これも体を半分水に呑みこまれながら必死に羽ばたいてモニカを鼓舞する。言われるまでもなく足を動かしているつもりなのだ。けれど、足先はじわじわと溶けていき、既に感覚もなくなっている。全然前に進めない。

3キロほどあった道筋は、もうあと100メートルもないというのに。ほんの少しなのに。島を出るときに降りた縄梯子と同じような梯子が、もう目の前に見えているのに。

膝が折れる。体が水に呑みこまれる。

「モニカ!」

誰かが自分を呼ぶ声がする。ばしゃばしゃという音をたてて何かが近寄ってくる。何かがモニカの崩れそうな体を支える。海鳥? いや、鳥にそんなことできるわけが――。


気が付くと、モニカの体は桜の木の下に横たえられていた。その体を取り囲むようにして、何人もの顔が彼女を覗き込んでいる。

「気が付いたか。どこかひどく痛むところはないか」

「全身が燃えるように痛いわ」

モニカがそう答えると、アイアスは豪快に笑った。

「それもそうだ、全身水にどっぷりと浸かったのだからな。だが安心していい、手当が早かったから失われた部分はないし、完全に乾けば痛みも治まる。君を引き上げてくれたヴィットリオとロニーには、あとでちゃんとお礼を言っておけよ」

それだけ言うとアイアスはモニカのそばを離れていった。

「どうだロニー、足の調子は」

「大丈夫です、もうずいぶん乾きました」

少し離れたところで、アイアスとロニーの会話が聞こえる。海に沈んだモニカを助けるために飛び込んだロニーもまた、溶けかけてしまったようだ。

そこでふと、自分を覗き込んでいる顔の一つがロニーの妻のビアンカであることに気づいた。

「ビアンカ、ごめんなさい。私を助けるためにロニーが」

ビアンカは少し驚いたような顔をしたが、すぐににっこりと笑った。

「大丈夫よ、あいつも随分乾いてきたみたいだし、それにあなたが命を落とさなくてよかったわ」

ビアンカが言うのを皮切りに、モニカを取り囲んでいた女たちが口々に思いを口にし始めた。

「海のほうでバチャバチャ音がするんだもの、みんなびっくりしちゃったわ」

「男たちが皆飛び込もうとするのを慌てて止めてね、体力に余裕のある二人だけ行かせたのよ」

「残りは皆上に残ってロープを引っ張ってね、三人分引き上げたときにはさすがにボロボロになったわ」

「ホント、三人とも助かってよかったわ」

にこにこ笑いながらそういう彼女たちは、二か月前の集会でモニカを無視したのと同じ人たちであったはずなのだが、もうモニカはそんなことは気にしなかった。自分の命を失うかもしれないというのに海に飛び込んで助けてくれた、そんな単純なことですべてを水に流せるわけではなかったが、少なくとも小さなわだかまりの一つくらいは確実に瓦解した。

「ありがとう」

モニカがそういうと、女たちも笑って返した。

強く風が吹き、桜の花びらがモニカに降る。それらは再び風に吹かれて舞い上がり、まるで天に向けて桜色の絨毯を敷いているようであった。

『ほら、美しいだろう? 君と見れて良かった』

ふと、誰かの声が聞こえた。

モニカはあわてて辺りを見回した。

だが、どうしてもあの白い背中を見つけることは出来なかった。


(了)



2014年04月05日 23:24

条件:三題噺(「綱渡り」「海」「桜」)

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