散った花弁の美しさ
暦の上ではとうに春というものの、四月の初めはまだ寒く、夜の風は体に障る。
だというのにその男は、縁側に着物一枚をひっかけた姿で、ただ庭を眺めていた。
年のころなら三十路前、どっしりと構えるその姿がようやく様になってきたところだ。
暇さえあれば縁側に出て、庭やら空やらを眺めている。
今日も昼過ぎに起きだしてきたかと思えば、何やらふらふらした挙句、いつもの場所に座り込んで今に至る。
彼がそこに陣取ったのは陽が落ちる前であったから、かれこれ三時間はこうしていることになる。
外は雨。
屋根をたたく音はますます激しくなり、庭はまるで点から銀糸を張り巡らせたようだ。
無論銀糸を浮き立たせているのは月ではない。
道沿いに煌々と光る、無粋な街灯だ。
「いつまでそうしているおつもりですか」
冷えた肩に柔らかいものが触れる。
首だけ傾いで確認すると、それは羽毛布団であった。
その後ろには、一人の少年。
「外は冷える。風邪を引くぞ」
寝間着の上にこちらもまた布団を羽織った少年は苦笑する。
「貴方に言われたくありません」
季節感も何もあったものではない半裸の男に言われれば、そう返したくもなるものだ。
「俺は丈夫だからな」
お前とは違って、とは口に出さない。
気の利いた男ではないが、言ってはならないことくらいは弁えているつもりだ。
「飽きもせず、何を眺めていらっしゃったのです」
「花を――桜をな」
「桜を」
少年は青年の隣に腰かける。
話し言葉は頑なに敬語を守り続けておきながら、こういうところではなぜか気安い。
「ああ、今日の雨で皆散ってしまいました」
心の底から残念そうに言う。
桜の花がこれほど日本人に好まれるのは、美しさ以上にその儚さが和の心に染み入るのだと、偉い方々がもっともらしく説明していた。
「だから、見ていたのだ」
「散った桜をですか」
「そうだ」
確かに、青年の視線は庭の下方へ、そして柵を越えた道のほうへ向けられていた。
「ご覧。剥き出しの土、散った桜の花びら、降り注ぐ雨。三者が混ざり合って、何とも汚いことではないか」
舗装されていない道路は雨が降ると、土と水が混ざった泥になる。
そこに桜の花びらが散り、踏み荒らされて、茶色と桃色が混ざり合う。
「まるでお前のようではないか」
「私ですか」
「そうだ。よく似ている」
「それは……ありがとうございます」
少年は静かに微笑む。その肌の色は、散った桜の花より白い。
「なぜ礼を言う」
虚を突かれ、目を見開く青年。
「春になれば桜は咲き、やがて雨風に打たれて花を散らし、夏に向けて葉を茂らせ、やがて実を残します。なれば散った花弁もまた、美しい生命の営みの一つ。……あなたは、それを私に似ていると仰いました。私もまた美しい生命の営みの一つであると……褒めてくださったのでしょう?」
悪戯っぽく目を細める少年の顔を直視できずに、青年は庭へ視線を戻した。
「まいったな。お前を怒らせようと思って言ったのに」
「私を怒らせる、ですか」
「そうだ。お前はいつもそうやって微笑んでばかりで、ちっとも本心を見せてくれやしない。たまには本気で怒った顔の一つも見せてくれないか」
「ならばこちらをご覧くださいませ」
有無を言わせぬ口調に視線を向けると、そこには先ほどとは打って変わった悲しそうな少年の顔があった。
「私は今、怒っております。そのように思われていたことに」
「怒っているのか」
「はい」
「俺には、悲しそうに見えるがな」
「いいえ、怒っているのです」
「俺が悪かった」
今にも泣きだしそうな表情で言う少年を、思わず抱き寄せた。
普段しっかりしているからつい忘れがちであるが、彼は青年より十も幼いのだ。
「お前、随分と冷たいじゃないか。本当にまた具合を悪くするぞ」
熱を失ってしまった少年の肌は白磁さながら、ずっと外気に触れていた青年よりも猶冷たかった。
「それなら、一緒にお部屋に戻ってくださいませ」
「解った解った」
拗ねたように言う少年に苦笑しながら青年は立ち上がった。
何度繰り返したのだろう。
桜の花びらが散るたびに、今は亡き少年の幻が青年に纏わりつく。
どんなに体が冷えようとも、一年にただ一度、彼に会うためだけに、青年は縁側に座り続ける。
2013年04月03日00:12
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