洗い場
ざあああ、ざああ、ざあああ。
昼間降り出した雨はますます強くなって、窓を激しく叩きつける。
テレビの音が良く聞こえなくて、音量を上げた。
「――、―――――」
廊下の方から真紀子の声が聞こえる。
裕美に何か言っているようだ、というのは雰囲気でわかったが、肝心の内容は雨とテレビにかき消されて全く聞こえなかった。
「なぁにぃ?」
大声で怒鳴り返したが
「――、―――――」
やはり何を言っているのかは聞き取れない。
諦めて廊下に出ると、真紀子も台所から顔を出していた。
「何?」
「さっきお母さんから電話あって、雨で電車が止まったから帰り何時になるかわかんないって」
「えぇ? 聞いてないよ」
「先ご飯食べていいって言ってたけど、どうする? 待つ?」
「何時かわかんないんでしょ? 食べたい! けど……」
勢いよく答えたが、すぐに尻すぼみになる。
小学2年生の裕美は、母親がいなければ包丁を握ることも許されていない。
その点真紀子はもう中学生だが、練習不足か才能がないのか、料理の腕はお世辞にも褒められたものではなかった。
「お姉ちゃんの黒焦げトーストしかないなら、お母さんが帰ってくるの待つ」
正直な気持ちを素直に口にしたら、丸めた広告で頭をはたかれた。
「レトルトのカレーがあるよ」
「じゃ、それ」
ざあああ、ざああ、ざあああ。
雨はますます強くなってくる。
お母さん、今夜は帰れないかもしれない。
先ほどまでやっていたドラマは終わり、今はお笑い芸人がクラスの男子のようなトークを繰り広げている。
「あははは、こいつ、バカだね」
真紀子が福神漬けをかじりながら笑う。
「ごちそうさま」
全然ご馳走ではなかったけれど、決められた挨拶なのでそう言った。
「あ、お皿、浸けといて」
テレビから目を離さないで真紀子が言う。
「わかってる」
食器をすぐに洗えない時は、台所の盥に水を張って、そこにお皿を浸けておくのが習慣だった。
そうすると時間がたっても汚れが落ちやすい。
ただし油ものは浸けてはいけない。汚れが広がって、却って手間のかかることになる。
少しだけ水の貼られた盥に、マグカップが一つ転がっていた。
その上に底の浅いお皿を置くと、お皿は水面に浮いた。
蛇口をひねると水が出た。
古い水道は結構大きな音がするのに、今日はその音も雨にかき消されている。
『船はどうして浮くの』
学校の宿題をやっていた時に、ふとわいた疑問だ。
水に浮くものにはマルを、沈むものにはバツをつけましょうという問題。
軽いものはマルで、重いものはバツ。
鉄アレイは勿論バツ。
だけど、鉄アレイよりずっとずっと重いはずの船は、水に浮いている。
『うーん、物が浮くのは、浮力っていう力があってね』
『全然わかんない』
『難しいな、どうやって説明したらいいんだろう』
そう言ってその人は頭をかいた。
『そうだな、中学生くらいになったら学校で教えてもらえるよ。もし中学生になる前に知りたかったら、自分で調べてごらん』
調べるのは面倒くさかった。だから
『じゃ、中学生になってからでいい』
そう答えて、鉄アレイの横に大きくバツ印を書きこんだ。
「お姉ちゃん、もう学校で船がどうして浮くか習った?」
リビングの真紀子に大声で尋ねてみる。
「何か言ったー?」
さっきと逆で、今度は裕美の声が真紀子に聞こえない。
ごとん。
いつのまにか蛇口からの水がお皿を満たしていた。
水でいっぱいになったお皿は盥の底に沈んで、先ほどの音を立てたらしい。
「ねぇ、沈むよ、船も」
だから、浮力なんて理解できても出来なくても同じじゃないかなあ。
裕美は小さくつぶやくと、蛇口をきゅっと締めた。
ざあああ、ざああ、ざあああ。
つぶやきを聞いたものは、誰もいない。
(2014年09月01日 23:04
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