12
春呼びの儀が終わり、僕とユウカは二人で夏棟の部屋に戻って休んでいた。
すっかり夜になった窓の外には丸い月が浮かび、その下で風に揺れるアングレカムの花を照らしている。にわかに浅ましい好奇心が湧き上がってくるのを感じて、僕は咄嗟に窓から離れた。自分の卑しさに吐き気を憶えるくらいだった。
「大丈夫?」
そんな僕の様子を見てユウカが心配そうに言った。何でもないよと振る手は少し震えていた。
青峰佐句良が死んだ。
あの日、高校の屋上から飛び降りようとしていたかもしれない彼女は、一年という時間をかけて人生の意味を問い直した。その結果は一億人の生活に捧げられたのではなく、彼女自身の救いとなったのだろう。
ユウカには、そうした救いは訪れただろうか。
反対側の席に座ると、僕に紅茶を淹れてくれた。
「ありがとう」
「暖かいものを飲むと落ち着くよ」
まだ湯気の昇るそれを口につける。唇にじんわりと熱が伝わり、緊張がほぐれていくような気がした。
「青峰さん、いなくなっちゃったね」
ユウカが寂しそうに言った。
「そうだね」
「扉の前で手を伸ばしてたけど、あれって何だったんだろう?」
「きっと桜を愛でていたんだよ」
「え?ああ、あの指輪のことね」
呼子にはそれぞれ先代から装具を継承していて、春呼びは淡いピンクゴールドの指輪を代々引き継いでいるという。あの時一瞬輝いて見えたのはそれだろう。ユウカはそのピンク色を桜に例えたのだと思うけれど、もちろんそうではない。
「ユウカもそういうの持ってるの?」
「うん。夏呼びは水晶のネックレスを受け継ぐんだけど、その水晶が不思議で、透かして見ると向こう側が揺らめいて見えるの」
「揺らめいて?」
「そう。だから陽炎って言われてる。そこの戸棚に飾ってあるよ。見てみる?」
頷くと、ユウカは立ち上がって透明なケースの前に移動した。
中には銀のネックレスが飾ってある。一番下には水晶が嵌め込まれていた。
よく見ると内部に不規則な歪みがあり、陽炎という表現がぴったりだった。
「見てると変な気持ちになるんだよね」
ユウカが隣に座り込んで言った。
その表情は夏と同じものに見えた。
「この揺らめきを眺めている間は、なんとなく穏やかな気持ちでいられるの。何も考えないで済むような……」
そう語るユウカの眼差しは虚ろで、陽炎が瞳に映り込んだように奥底が見えなかった。見るものを拒む屈折がそこにはあった。
きっとそれがユウカなりの折り合いのつけ方なのだろう。現実を直視できないから、虚像を噛ませることでどうにか目を開けていられる。
それがユウカにとって幸せなことだとは、僕には思えなかった。
たぶん、昨日までの僕と同じように迷っているのだ。クリスマスの夜に何かを言おうとしていたように、今もユウカは何らかの問題に答えを出せずにいる。
それはかつての青峰佐句良も同じだったけれど、彼女はリサの後ろ姿に彼女自身の答えを見つけた。僕はそうして人生の意味を見つけた彼女に僕自身の答えを見出したのだ。
悔いのないように今を過ごすこと。
「ねえユウカ」
それが僕自身の答えであり、ユウカに伝えるべきことだった。
「海に行こう」
「え?」
ユウカの視線がようやく陽炎から外れた。
「海だよ、海」
「どういうこと?」
「夏祭りは無理だけど、海ならいつでも行けるから」
ユウカの瞳に一瞬だけ光が差した。
「でも、まだ寒いよ」
「入らなくたっていいよ。眺めるだけでいい」
「どうして」
「去年の夏は一人にして悪かったと思ってる。だから、その分の時間を取り戻したいんだ」
俯いたままユウカは何も言わない。小さな肩が少し震えているように見えた。
「もうあまり時間はないかもしれないけど、それでもまだ三ヶ月はある。三ヶ月もあれば思い出だって作れるよ」
「私には思い出が残らない……」
しぼりだすような声でユウカが言うと、一緒に涙もこぼれ落ちてきた。
「それでもユウカが僕と一緒にいてくれる最後の日まで、なるべくたくさんの幸せな気持ちで満たされていてほしいんだ」
これが純粋にユウカのための言葉ではないことを自覚しつつ、僕は続けた。
「一緒に行ったあのレストランのデザート、美味しかったよね」
「うん」
「僕はあの日一緒に過ごした時間をよく思い返して満たされた気持ちになるんだけど、ユウカにはそういうのない?」
「メモを持ってきてくれたのがすごく嬉しかった」
僕の質問に、ユウカは迷わず答えた。そこには一瞬の淀みもなかった。
「夏は結局私の方から手放しちゃったけど、それでもまた諦めないでいてくれたことが本当に嬉しかったの」
揺らぎのない真っ直ぐな目でそう言った。
「小学校で初めて会ってから、ずっと仲の良い友達だと思ってた。その居心地の良さが他の友達と一緒にいるときとは違うことに気づいたときにはもう、私達は友達にしかなれないんだろうなって、諦めてた。私はね」
目尻に涙を浮かべながらユウカは微笑んだ。
「僕は別に、諦めるとかどうとか考えてなかったよ」
「そのおかげで私は今一人じゃない。いつも諦めないでいてくれたから……」
僕は咄嗟に目を閉じた。
「今度は私が諦めない番だね」
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