11
まだ寒さは厳しく、木々も寒々しく枝を揺らしている。それでも空は雲一つなく晴れていて、今日がなんでもない一日だと言うかのように穏やかな朝だった。
騒々しいのはいつだって地表だけだ。空の底にへばりついている人間の事情などお構いなしに、空は大らかな変化しか見せない。天気というのはきっと怠惰な生き物なのだ。
だから、彼女が手を引く。
青峰佐句良が春を呼ぶ日が訪れた。
僕は彼女の招待で扉に最も近い席を与えられた。ユウカも一緒だ。
ユウカは隣で白い息を吐いている。手が震えていたから、僕はその手をぎゅっと握りしめた。寒さで上手く指が動かなかったけれど、どうにかもたつかずにできた。
「ありがとう」
最近は元気を取り戻しつつあったユウカが、この日ばかりは夏に見た時と同じくらい沈んでいた。こんな状態で春呼びの儀を間近で見ていて大丈夫なのかと心配になるくらいだった。
外ではいつものように多くのマスコミが待機している。リサの時のような注目はないけれど、僕にとっては特別な意味を持っていた。
僕の中で、青峰佐句良は既にその特権の座を退いていた。今はそこにユウカがいるか、もしかすると空席かもしれなかった。では彼女はどこに行ったのかと言えば、きっともう僕の中に青峰佐句良という個人はいないのだ。
青峰佐句良は春呼びになった。
僕は自分が意外なほどに穏やかな気持ちでこの場にいることに驚いていた。一年前に高校の屋上で彼女を見かけた時から、僕は彼女に対して特別な感情を抱き続けていた。それが昨日の祓い手の役目を終えてからすっかり落ち着いてしまった。禊の中で僕自身も何か憑き物が落ちたように晴れやかだった。
無垢の白砂に一人が足を踏み入れた。
寒空で染めたような淡い青色の装束に身を包んだ彼女が、ゆっくりと正方形の中心に進む。ひんやりとした印象のコントラストが、凍り付いた湖に映る青空のようだった。
昨日の別れ際に彼女から聞いたことだが、春呼びの衣装の色は薄花桜と言うらしい。桜と言うからには暖色系と思っていたけれど、昔の日本人は僕よりずっと感性が豊かだったようだ。
リサやメイが纏っていたものと同様に、それは工芸品の域の美しさを備えていた。わずかに赤みがかった銀色の細やかな装飾が随所に施されていて、これから訪れる春の芽吹きを予感させる。
正方形の周囲で控えていた祭儀官たちが動き始めた。四季呼びの儀の中で最も華やかとされる春呼びだけあって、これまでよりも大勢がそれぞれに与えられた役目を果たそうとうごめいている。
その中心に彼女がいる。
そこに僕の憧れは投影されていない。僕の手が届くことのない、純粋な春だ。
祝詞が一斉に読み上げられる。響く低音に乗るように、様々な楽器から繊細な音が鳴り響く。祭儀官たちの衣装も秋冬よりも華やかかつ鮮やかで、厳かな雰囲気はありつつも、どこかお祭りのような浮かれた空気が漂っていた。
その中で、彼女と扉だけが異質だった。
両者はじっと対面していて、睨みあっているようにも、睦みあっているようにも見えた。
名前が読み上げられると、彼女は再び歩き始めた。白砂には裾を引きずった跡と、その中により深く穿たれた足跡が残っていた。一歩を踏みしめているのだ。
少しずつ、扉との距離が埋まっていく。
その距離が彼女に残された全てだ。それでも彼女の歩みは緩むことなく、着実に進んでいく。堂々とした歩みにはメイと重なるものが見える。彼女はきっと望んだ最期を迎えられるだろう。そのことに僕はとても安堵した。
扉の前に立った。彼女も背が高いけれど、やはり扉はもっと大きい。
扉を開けようと両手を挙げた。
きっと誰もがそう思っただろう。
彼女の両手は水平を超え、そのまままっすぐ頭上に向けられた。
頭上で開いた指で何かがきらりと輝いた。
「指輪だ」
隣でユウカがそう呟いた。
あたりが少しざわついた。この動作は予定されたものではなかったようで、メイの時と同じような戸惑いの空気が一挙に場を満たしていくのが肌で感じられる。
たぶん、彼女の動きの意味を理解しているのは僕だけだろう。
蕾が開いたのだ。
しばらくそうした後、彼女は扉を押し開け、暗闇の向こう側に消えていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます