10
青峰佐句良から受け取ったアングレカムの花を中庭のベンチに供えると、中庭全体が巨大な墓場のように感じられた。その事実を知らないはずの彼女も、後ろで手を合わせている。
「あんまり何を考えてるのか分からない不思議な子だったけど、いなくなると寂しいものね。ほとんど会話したことないのに。身勝手かな」
「そんなことないよ。一晩しか一緒にいなかったけど、僕だって寂しいし」
「あら、赤羽さんというものがありながら、そんなこと言っていいの?」
「そういうんじゃないの、知ってるでしょ」
僕をからかう彼女は開きかけの桜の蕾のように笑った。
「メイは幸せ者ね。こうやって祈ってくれる人がいるんだから」
「呼子はみんな、もっと多くの人から祈られるよ」
「それは呼子としてでしょ。メイはメイ個人として君に祈ってもらえた。きっと赤羽さんもそうなるでしょう。正直、羨ましいわ」
「僕が祈るよ。桜の花をベンチに供えてね」
「ふふ、ありがとう」
でも、と彼女は続ける。
「今日は別の頼み事があるの」
四季呼びの儀の前日には、呼子は次の季節への捧げ物として相応しくなるよう、穢れを祓ういくつかの予備儀式が行われる。いわゆる禊というもので、僕はその相手、祓い手として呼ばれていた。
祓い手は通常祭儀官から選ばれるが、呼子の希望で指名することもでき、青峰佐句良は僕を指名したらしい。これにはユウカから大いにやきもちを焼かれ、「私も絶対に指名する!」と宣言していた。ユウカのそういう子供っぽい姿を見るのは久しぶりだったから、とても懐かしい気持ちになった。
汚れた布巾で食器を拭いても汚れを塗り広げるだけなのと同じで、祓い手もある程度は清浄であることが要求される。そのため、僕は青峰佐句良より一日早く準備をしていた。小さな木造の小屋でお祓いを受けたり、柄杓の水で全身を濡らしたり、いかにもな恰好の祭儀官がもごもごと口の中で何かを唱えるのを聞いたり……その意味は分からなかったけれど、何か厳かなことをしているのだという感覚はあった。そうした感覚を持たせることが狙いなのかもしれないと思った。
そうした準備をすべて終えると、儀式場の隣にある小さな区画に案内された。そこには真っ白な天幕で囲まれた空間があり、中に入るよう促された。ここから先は呼子と祓い手しか入ることが許されないらしい。優越感のような感情が湧き上がるのを抑えつつ、天幕をくぐった。
そこは外界とは隔絶された領域だった。
布一枚に隔てられただけのその空間の中は、白い蒸気に満たされていた。事前に眼鏡を外すよう言われたのはこのためだろう。
視覚情報が制限され、普段より音に敏感になっているはずなのに、まったく音がしない。非現実的な空間だった。
限られた視界の中をゆっくりと進むと、次第に自分がどこを歩いているのかが曖昧になっていった。そんなに広い空間ではないはずだから、ともかく真っすぐ歩いてみた。するとぼんやりと影が見えてきて、ひとまず安心した。
近づくと、それは木でできた長方形の箱だった。蓋はなく、中には液体が満たされている。触れると暖かかった。どうやら浴槽のようだ。
水面の向こう側に影が映り込んだ。顔を上げると、誰かが立っている。声を聞いて、それが青峰佐句良だとわかった。
「ちょっと恥ずかしいな……って君、もしかして、見えてない?」
彼女はそう言って両手を顔に添えた、ように見えた。白く霞んでいる上にぼやけているせいで、ほとんど見えていないも同然だった。
「そっか、それはありがたいかな。いや、うーん。まあ、その。君、コンタクトにした方がいいよ。勿体ないと思う」
「勿体ない?」
自分の声がやけに反響した気がした。静かすぎるせいだろうか。
「何でもない。さあ、始めよう」
その一言で雰囲気が変わった。何か覚悟を決めたようなはっきりとした口調で、それが彼女なりの宣言だということはすぐに理解できた。こうした切り替えはとても僕にはできそうにない。彼女が特別な存在だということが生々しく感じられる。
一年の積み重ねなのかな、と漠然と思った。
この一年間、彼女はずっと明日のことを思いながら過ごしてきたはずだ。毎日いろいろなことを考えているうちに、すべてのことに折り合いをつけてしまったのかもしれない。
彼女はまとっていた白い装束を解いた。ぼんやりと輪郭が認識できる程度しか見えないことに僕は大いに安堵した。
細長い脚が浴槽に沈んでいく。ほとんど音もなく彼女は膝まで浸かり、僕の真正面にまっすぐ立った。咄嗟に顔を上げると、彼女と目が合った。
「やり方はわかる?」
「うん」
「じゃ、よろしく」
そのまま彼女は目を閉じ、まっすぐ立ったまま動かなくなった。僕は教わった通りにそれを始めた。
浴槽の隣に置かれた道具類の中から、昨日僕が水を浴びたのと同じ柄杓を取り上げ、彼女の髪を濡らした。
まっすぐ伸びた長い髪が、濡れていくにつれてその色を深めていく。吸い付くように肌にぴったりと張り付く頃には、彼女は全身から湯気を立ち昇らせていた。
「寒くない?」
「大丈夫。そのために蒸気で満たしてあるのよ」
「そうか、なるほどね」
艶やかな輝きを増した彼女の唇から意識を逸らすように、わざと大きくリアクションした。
僕はとにかく与えられた役割をこなすことに集中した。少しでも余計なことを考えるのは良くないことだと思ったからだ。
けれど、どうしても考えてしまう。
「あのさ、青峰さん」
僕は手を止めた。彼女は目を閉じたまま、微動だにしない。
「青峰さんは、自分に与えられた役割について、どう思ってる?」
柄杓を握る手に自然と力が入る。全身の筋肉がこわばっているみたいだった。
彼女はしばらくの間をおいて、ゆっくりと唇を動かした。
「呼子という役割について、思うことはもうないかな」
ぴちょん、と髪から水滴が落ちる音が響いた。そこで僕は自然と息を止めていたことに気付いた。
「もう散々考え尽くしたよ。秋くらいまではね、起きている間中ずっとそのことばかり考えてた。当然でしょう?急に一年後に殺されますなんて言われて何とも思わないわけがないもの」
これ見て、と彼女は左腕を差し出した。
顔を近づけて見ると、手首に短い傷跡が残っていた。
「結局度胸がなくて失敗したんだけど、傷だけ残っちゃった。本当恰好悪い……私って昔から何をしても中途半端でね。何につけてもはっきりしていたメイが羨ましかった。あんな風になりたいなって思ってた。あれで私より四つも年下なんだからすごいよね。君も見たでしょ、メイの最期」
彼女が目を開いているかどうかはわからなかったけれど、僕は黙って頷いた。とても彼女の目を見れる状態ではなかった。
「あんなに晴れやかに扉をくぐる姿は初めて見た。過去の映像も残っている分は全部見たけど、あんなのは他にいなかったよ。私はあの子に救われたんだ。扉を大きく開け放ったあの背中が、神様みたいに見えた」
彼女の声がわずかに震えているのが分かる。僕はじっと次の言葉を待った。
「だから私は呼子とは何なのかを考えるのを辞めた。代わりに、毎日のことを考えるようにした。今日は何を着よう、今朝はパンに何を塗ろう、昼から雨が降るかもしれない。そういう日常に目を向けるようになったの。未来から目を背けただけかもしれないけどね、そうやって過ごしているうちに、少しずつ楽しいことを考えられるようになった。淀んでいた水に新しい流れができたみたいだった」
「それで桜が見たいって?」
「うん」
彼女はこれまでで最も優しく微笑んだ。
「メイの最期は、まるで思い残したことなんてないみたいだった」
「たぶん、本当にそうだったんじゃないかな」
「どうしてそう思うの?」
僕はその質問に窮してしまった。答えは知っているけれど、今の彼女にそのことを伝えた方が良いとは思えなかった。
僕の沈黙をどう捉えたかはわからないが、彼女は続けた。
「私も、何も思い残すことがないっていう状態で最期を迎えたかったんだ。だから君に頼んだ」
「メイも、同じだよ」
「え?」
「メイもあの夜、僕に頼み事をした。きっと心残りのないようにそうしたんだと思う。扉を開け放つ瞬間と同じくらい、メイは清々しい表情だったんだ」
「君ってモテるのね」
「そんなんじゃないよ」
「分かってる。でも、そっか。メイもそうだったんだ」
彼女はゆっくりと浴槽に身を沈めた。溢れたお湯が僕の足元を通り抜けていく。
「良かった」
僕も隣に座り込んだ。そうしなければ囁くような彼女の声を聞き逃してしまっただろう。
「私にも桜の花をよろしくね」
「もちろん」
「ありがとう。これで私もメイと同じ、思い残すことは何もないよ」
浴槽の中で膝を抱えながら言った。
「一年、もう終わっちゃうんだなぁ……」
横を見ると、彼女の目から涙が流れていた。水滴かもしれなかったけれど、何となくそうではないという直観があった。
「花は咲いてなかったけど、木だけでも、桜が見れて良かったよ」
「うん」
「温室でいっぱい花も見れたし」
「うん」
「メイも喜んでくれてるかな」
「きっと喜んでるよ」
「そうよね」
最初より顔が赤くなっているのは、きっとお湯のせいだけではないだろう。
呼子という立場が僕の目を眩ませていたのかもしれないし、今になってはっきりと自覚されたことだけれど、やはり僕は青峰佐句良に憧れを抱いていたのだ。ユウカに対する気持ちとは違うけれど、何か特別な感情を彼女に向けていた。
それが氷が溶けて音を立てるようにはっきりと変質したのを自覚した。
あの甘い香りは洗い流されてすっかり消えていた。
「明日、見てるよ」
「ありがとう」
彼女は笑って答えた。
その笑顔は蕾が開くときのような、もうすぐ訪れる春のうららかな日差しを思わせる優しさを秘めていた。
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