9
年が明け、青峰佐句良の時間はわずかになった。
春呼びの儀は例年二月中旬に行われる。つまり、あと一か月ほどで青峰佐句良は春に捧げられるのだ。その事実を以前よりも実感を持って理解できるようになったのは、メイの堂々とした姿を見たからだ。
市内にある大きな神宮へ初詣に出かけると、黒っぽい着物の姿が目についた。言うまでもなくメイの影響だろう。今までにない大胆な振る舞いで、今年の冬呼びの儀は大いに話題を呼んだ。
巨大な人の波に流されるまま歩いた。ユウカとのデートのときと同じで、果てしない人だかりが僕の視界を埋め尽くしている。
この国には一億人以上の人間が暮らしていて、それに比べれば目の前の群衆なんてちっぽけなごく一部だ。メイは途方もない数の人々の暮らしを足元で支えているのだと思うとめまいがした。
同じ運命の先にユウカがいる。
考えるのを辞めた。
家に帰ると、ポストに一通の手紙が入っていた。
それは青峰佐句良からだった。
待ち合わせは高校のすぐ近くの植物園の入口だった。
マフラーに顔をうずめて待っていると、いかにも高そうな黒い車が目の前で停車した。
中から制服姿の青峰佐句良が現れた。
「懐かしいね、この感じ」
車から降りた彼女は大きく背伸びをした。背の高い彼女がそうすると、いよいよ僕の身長を超える。
「どうして制服なの?」
「一度やってみたかったんだよね、制服デート」
「え、デート?」
「いやいや、言葉のあやだよ。赤羽さんがいるもんね」
彼女はニヤリと笑った。不思議と嫌らしくはなかった。
僕は指示通り制服を着てきた。冬休み中に制服で高校の近くにいるのが何となくむずがゆかった。
手紙には特に理由がなく、「桜が見たい」という一言と、日時と場所の指定だけが書いてあった。身勝手な手紙だと思ったけれど、悪い気はしなかった。
車が走り去ると、僕たちはさっそく中に入った。
しばらく歩くと梅の林があり、さらに進むと『桜の回廊』という場所に出た。
もちろん、花をつけている木は一本もない。
それでも彼女は満足げだった。
「咲くのはまだまだ先だね」
「そうね、これから私が咲かせるんだから」
僕はもう何も言えなかった。彼女はこの先のことを十分に理解した上で言っている。慰めや気休めの言葉はかえって失礼ですらあるように思えた。
僕たちは二人で裸の桜の木の下を歩いた。ここには様々な種類の桜の木が植えてあるらしいことがプレートの表示でわかった。
彼女は一本一本を愛でるように眺めた。幹に触れようと手を伸ばす様子が、去年の春に屋上で見た姿と重なる。芽吹きを呼び寄せる手だ。
彼女が春を呼ばなければ桜が咲くことはないし、この国のありとあらゆる植物が目を覚ますこともない。すべては彼女にかかっているのだ。
そんな風だったから、一周するのにたっぷり三時間はかかった。既に時計の針はてっぺんを越えていた。
僕たちは坂を下りたところにあるレストランに入った。
「クリスマスに赤羽さんとデートしたんだってね」
僕は飲んでいた水でむせた。
「それっ……誰から、聞いたの」
「赤羽さんとはクラスメイトだったのよ」
そう言えばユウカもそんなことを言っていたっけ。
「仲が良いんだね」
「悪くはなかったけど、今くらい話すようになったのは彼女がこっちに来てからかな」
「会うことがあるの?」
「むしろ同じ施設で同じようなことをしているんだから、会わない方が珍しいくらいね」
そうだったのか。いつもユウカは少し寂しそうだったから、あの場所にも友達がいることに僕は安心した。
ランチを終えると、今度は温室に入った。パリ万博の水晶宮に似た外観の大きな温室で、いくつかのエリアに分かれている。パンフレットによると、エリア毎に植生が異なっているらしい。
僕たちは来ていた上着を腕に抱えて進んだ。温室内は湿度も高く保たれていて、雨上がりのような土のにおいが立ち込めていた。
外の気候には興味がないとでも言うかのように、色とりどりの花々が季節外れに咲き誇っている。
やはり彼女はその一つ一つを、とても愛おしそうに愛でるのだった。
「春呼びに選ばれてからね、それまで通り過ぎていたいろんなことに意識が向くようになったの」
真っ赤な花の前で屈んだまま、彼女は僕の方を向いた。
「花も草も、暖かな日差しがなければ芽吹くことがないって、小学校の理科でも習ったくらいだから当たり前かもしれないけど。それって結構残酷じゃない?」
「残酷?」
「だって、他の条件がいくら整っていても、暖かな日差しがなければどうしようもないの。たった一つの不足も許されなくて、それで生きていけるかどうかが決まるんだから、世界ってすごく厳しいよね。すべてがとても厳密」
彼女の細長い指がそっと花びらに触れる。その動きを繊細に写し取って、花びらがわずかに揺れる。
「この世界は厳密だから、適当なことは許されない」
「それは物理法則の話?」
「どうして四季の巡りに私の命が必要なのか、それを物理が説明してくれるのならね」
彼女の瞳に初めて憂いの色が見えた。伏し目がちな表情が急に大人びて見えて、僕は場違いに胸を高鳴らせた。彼女に聞こえやしないかと心配になるくらいだった。
「桜の木は大きすぎて温室には入らないんだね。そこだけは残念だったかな」
「そうだね」
僕はかろうじて相槌を打つことができた。
「そういえば、メイから頼まれごとをしているんだって?」
「え……あ、そうだった。って、何で知ってるの?」
「そりゃ本人から聞いたからだけど」
「そうなんだ」
僕はてっきり自分だけに言ったものと勘違いしていた。それが勝手な思い上がりだとわかると途端に恥ずかしくなった。
「まあ、どんな頼みごとかは聞いてないんだけど、君に伝えたってことだけは聞いたよ。まるで遺言だよね」
「たぶん、本当に遺言なんだと思う」
「あの子、どんなことを頼んだの?」
「冬になったら中庭のベンチに花を飾ってほしいって」
「ふうん……」
それから彼女は何かブツブツ言いながら考え事を始めたようだった。
その間、僕はメイの墓前に供える花をどうするかではなく、中庭の秘密を彼女やユウカに伝えるべきかを考えていた。
夏に彼女と話したときには扉の向こう側のことは知らない様子だった。もちろん僕には言えない秘密だった可能性もあるけれど、メイがわざわざ僕が来るのを待ってまで伝えたということは、そうしなければならない必要性があったはずだ。僕でなければならない必要性と考えれば、思い当たる理由は一つしかない。
他の呼子に伝えてほしかったのだ。
「ねえ」
僕がそう言おうとした瞬間、彼女が先に口を開いた。
「この花なんていいんじゃない?鋭い花びらがあの子にぴったり」
彼女は立ち上がり、誰かに電話をかけた。短いやりとりだったけれど、それが目の前の花を分けてもらう手続きを依頼する内容だということはわかった。
電話を切ると、彼女は両手をポケットに突っ込んだ。
「それじゃ、帰ろっか」
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