8
中庭での会話から二か月後、玄岩メイが冬を呼んだ。
リサの時と違って、今回は自宅のテレビで中継を見るだけだった。
彼女の顔がアップになったとき、その耳元に揺れる銀色の輝きが映った。
メイが身に着けている衣装は秋のリサとは違うものだ。黒を基調とした生地が幾重にも重なった十二単のようなもので、その上に白銀の装飾が上品に散りばめられている。しんしんと積もる雪のように抑制の効いた、非常に洗練されたデザインだった。
全身を黒に包まれたメイの様子からは、死の空気が一切感じられなかった。彼女の立つ姿はあの夜と同じで、杖をつきながらも力強く大地を踏みしめている。夏に見たユウカよりもずっと生気に満ちていた。
それでも彼女は今日亡くなる。こんなにも堂々と生きている彼女が、呆気なくその命を終わらせる。目の前の映像と頭の中の認識の間にある違いがあまりにも大きくて、乗り物酔いのときのような気分の悪さを感じていた。
白砂の上を滑るように進み、あの扉の前に立った。小柄なメイが前に立つと、その大きさが強調される。
そんなことを思っていると、メイは勢いよくその扉を開け放った。およそ呼子としては相応しくない乱暴な動きだ。
それを見たキャスターが慌てた様子で何かを早口で捲し立て始めた。画面の端で祭儀官たちも少しざわついているのが見て取れる。
僕はその映像を見て、不思議と満たされる感じがした。勇気をもらったと言ってもいいかもしれない。ともかくメイの最期の姿に僕は感動したのだ。
それから一週間後には雪が降った。例年よりもかなり早い初雪だ。メイが力強く冬を呼んだ結果かもしれない。
その頃には教室もすっかり落ち着いていて、みんな黙々と受験勉強に勤しんでいた。どちらかと言えば、そうした切迫感がこの静かな空気を作り出しているのだろう。
その静かな空気の上を、僕の意識が上滑りしている。
つまり、何をするにしても上の空だった。
ユウカに宛てたメモに返事が来たのだ。
「お待たせ」
雑踏の向こうから、待ち焦がれたその声が聞こえてきた。
「夏以来だね、ユウカ」
「本当に長いこと待たせちゃったよね」
「着いてからまだ十五分も経ってないよ」
「そうじゃなくて」
そう言うとユウカは少しうつむいて顔を横にそむけた。すると、変わらず肩で切り揃えられていると思っていた茶色の髪が、実は複雑に編み込まれていることに気付いた。
「四か月も待たせちゃったから……」
「あぁ、そうだね。随分髪も伸びたみたいだ」
「やっぱり似合わない?」
「びっくりするくらい可愛い」
「もう」
照れた様子でユウカは僕の手を取った。
彼女の瞳にイルミネーションが映り込んでいるのがとても綺麗だった。
駅前はクリスマスのイルミネーションで明るく包まれている。僕たちと同じように手を取り合う男女が無数にいて、この街のどこにこんな大勢の人間がいたのだろうと不思議なくらいだ。
僕たちは駅から少し歩いたところにあるイタリアンの店に入った。飲食店の予約をしたのはこれが生まれて初めてだった。
自分の名前を名乗ると、店員が奥の席に連れて行ってくれた。席に着くまでの間、僕たちは並んだテーブルで楽しそうに食事しているいくつかのグループの横を通り過ぎた。多くは白髪の混じった夫婦で、中には大学生くらいの若いグループもいるけれど、高校生はいなかった。場違いだったかもしれないという気恥ずかしさと、少し大人に近づいたような高揚感とがあった。
そんな風にそわそわしながら振り向くと、ユウカは落ち着き払った様子で上品に後ろをついてきていた。修練の成果がこんなところで発揮されるとは思わなかった。僕はそんな彼女の姿に誇らしさを感じていた。
通されたのは店の一番奥まったところにある個室だった。アーチ状の出入り口が開いた壁で囲まれた空間で、内側はそれまでより一段豪華な装飾で彩られていた。テーブルには本物の火が灯されたランプが置いてあって、外側に向かって伸びる影がゆったりと揺らめいている。
着ていたコートをハンガーにかけ、僕たちは向かい合って座った。
ユウカが持っていた小さなハンドバッグを隣の椅子に置くとき、編み込まれた後ろの髪が再び見えた。改めて観察すると、ただピンで止められているだけでなく、細かく分けて束ねられた髪がバロック彫刻のようにダイナミックかつ繊細に形を作っている。ヘアセットだけでどれだけの時間がかかったかわからない。
それはメイクも同じだった。妹がやっているのしか見たことはないけれど、適当にやっても五分くらいはかかっているのだから、その労力は想像がつかない。
不規則にゆらめく炎に照らされて、ユウカの顔の輪郭が細かく表情を変える。教室で見ていた彼女とは全く違う、艶やかさのある姿に僕はすっかり見惚れてしまった。
「すごいね、ここ。高いんじゃないの?」
「気にしないで。僕がユウカと一緒に来たかったんだから」
「へえ、かっこいいこと言うじゃん。彼氏っぽいよ」
「ぽいじゃないよ」
久しぶりに話すユウカは、夏に会ったときよりも教室での様子に近かった。ここが四季棟ではないからか、それとも努めてそうしているのか。
ウェイターがグラスとボトルを持ってきた。高級な店だと水すらボトルに入っているのかと変なところに関心してしまった。一口飲んでみると、何となくいつもより口当たりが滑らかな気がした。これは本当にそんな気がしたというだけで、雰囲気に誤魔化されているだけかもしれないけれど。
「勉強は順調?」
ユウカがいたずらっぽい口調で言った。
「どうにかね。近くの大学には受かりそうだよ」
「近くって高校の?」
「そう」
「え、あそこって国立大でしょ? 本当に?」
ユウカは少し身を乗り出して言った。
「ちゃんとしなきゃって言ったのはユウカだよ」
「そっか、そうなんだ。すごいね、頑張ったんだね」
座り直しながら、彼女は嬉しそうに笑った。それを見て僕も笑った。まだ受かってもないのに、頑張ってよかったなんて思った。
前菜が運ばれてきた。ステンドグラスのような色の平たい器にサラダとソースのかかった魚が載っている。どれも器の中心と端の間に置かれていて、どうして中心を避けているのか不思議だった。きっとこういうのがおしゃれなのだろう。僕にはまだわからない感覚だった。
見慣れない料理ばかりで食べ方がいまいちわからなかったけれど、どれもとてもおいしかった。どんな味か言葉にすることはできなくても、ともかくおいしいことだけはわかった。
ユウカも満足そうだった。僕と違って綺麗に食べている。何となく、それが正しい食べ方なんだと思った。そういった所作も学んでいるのだろう。
それから僕たちは、これまでの時間を埋め合わせるように、他愛のない会話を続けた。運ばれてくる料理はどれもおいしくて、ころころと表情を変えるユウカが可愛かった。コース料理というのは次の皿が運ばれてくるまでに適度な時間があって、その空白が自然な会話の流れを作り出してくれていた。よく考えられた形式だと、またしても関心してしまった。
最後のドルチェを食べ終わると、テーブルの上はティーカップだけになった。華やかな香りの紅茶が半分ほど残っていた。
「これもおいしいけど、ユウカのところの紅茶の方がおいしかったなぁ」
「あそこにあるのは全部が一流だからね」
ユウカは角砂糖を一つ入れた。
「でも、私にはこの紅茶の方がおいしいよ」
ティースプーンで溶かすと、ユウカは両手で包むようにカップを持って、ゆっくりとそれを傾けた。口元はカップに隠れて見えなかった。けれど頬がわずかに赤くなっている。感情がそのまま表情に出るのがユウカの良いところだ。
連れてきてよかったと、心の底から思った。
「あのメモ」
スプーンを持っていた手を前髪に添えた。
「会いたいって言ってくれて嬉しかった」
「読んでもらえるか自信がなかったよ」
「扉の隙間に滑り込ませるなんて、清掃の人が見つけたら捨てられてたかもしれないのに、よくやったね」
「本当は呼ぼうと思ったんだ。けど、誰かに見つかったらまずいから」
「そうだね」
ユウカがカップを置いた。溶け残った砂糖のかけらがわずかに底に残っているのが見えた。
「今日は、ありがとう。恋人らしいこと何にもできてなかったから、いい思い出になったよ」
「うん」
そこで会話は途切れてしまった。本当は言いたいことがもっとたくさんあるはずなのに、それが言葉として出てこない。
たぶん、ユウカも同じだろう。唇がわずかに開いたり閉じたりするのを繰り返している。
これが最後になるかもしれない。そのことを口にするのはどうしてもできなかった。だから何も言えなかった。僕がユウカに伝えたいことのほとんどは、彼女の最期と分かち難く結びついているからだ。
そうして僕たちの最初で最後のデートは終わった。
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