7
薄く広がった雲が月を覆い隠している。周囲に隠れることができる建物がないこの場所で、月明りがない状況は好都合だった。
呼子達の住まうこの場所を訪れたのは2ヶ月ぶりだった。草木の色が少しくすんでいる以外は、何も変化していないように見える。毎日磨いたあの大きなガラスもそのままだ。
自宅で綿密にシミュレートした通りに、音を立てないように気をつけながら歩みを進める。監視カメラの場所は頭の中に入っていて、その死角を縫うようにして、少しずつ四季棟に近づいていった。
この施設には24時間体制で守衛が警備にあたっているが、あまり真面目に勤務はしていなかった。家族や親しい間柄の人物など呼子本人が許可した人間は比較的自由に面会ができるし、莫大な利益をもたらす四季の巡りを前にして、誰も四季呼びに失敗してほしいと思っていないからだ。
とはいえ、ここまで順調に進むとは思っていなかった。誰も巡回している様子がなく、ユウカたちをちゃんと守る気があるのかと、むしろ穴だらけな警備体制に呆れるくらいだった。
雲から顔を出した月が、背後から僕の影を長く伸ばす。それが南棟の白い外壁を登り、もう一人の自分が真上にある窓を見上げているようだった。そこがユウカの居室だったはずだ。
各棟の一階中央にはアーチ状の通路があり、真っ直ぐに中庭へと続いている。その通路の途中に建物への入り口が開いているという構造で、一見すると入り口が分かりにくい。おそらく警備上のことだろう。
月明かりに薄く照らされたアーチに入ると、そこには小さな影ができていた。
それはこれまでに見たことのないものだった。
見つかった。
瞬間的に踵を返し、僕は壁に隠れた。そして状況を整理しようとするうちに、自分がひどく汗をかいていることに気づいた。
鼓動が速すぎて別の生き物みたいだ。
「そう怖がることはない」
奥から声が聞こえた。見つかったことは確実なようだ。頭より先に心が諦めたのか、その一言で心臓の動きは緩やかになっていった。
「大丈夫。私は警備員ではないし、この脚じゃあなたを捕まえることもできない」
コツコツと硬い音をアーチに響かせながら、声の主が近づいてくるのが分かる。
恐る恐る覗いてみると、そこには杖をついた小柄な少女が立っていた。
「少し話をしよう」
四季棟の中庭は綺麗に整備された芝生に覆われている。月明りに照らされて青く波打つ様子は夜の海のようだった。
夏の間、ユウカに呼ばれるたびに見下ろしていた中庭は、未だかつて誰もいたことがなかった。その正方形の空間に立っている、そのことが何となく僕を背徳的な気持ちにさせた。
僕はメイと名乗った杖の少女に招かれるまま、中庭のベンチの一つに並んで座った。
見上げると、無数の星たちが散りばめられた宝石のように輝いていた。こんなに星が見える夜空は初めてだった。
「街の明かりがなければ、星は本当はこれくらい明るい」
メイは独り言のように言った。
少し前まで空をまばらに覆っていた雲はどこかへ消え、頭上にはプラネタリウムよりもはるかに鮮明な星空が広がっている。それは投影された点ではなく、自ら強く輝く光だ。
真横で一瞬だけ何かが煌めいた。
横を向くと、メイも僕の方を向いていた。明るく照らされた彼女の高い鼻筋に視線が引き寄せられる。ズームアウトするように意識が周囲に拡散していくと、陰影のコントラストに埋もれた黒い瞳があり、耳元で銀色の光がちらついていた。それは小さなイヤリングだった。
「なかなか情熱的な視線だな」
僕がそのイヤリングをじっと見つめていると、無表情のまま、メイはそんなことを言った。声の調子も同じだから、僕にはそれが冗談なのかどうかわからない。冗談だとすれば、緊張した様子の僕に対する気遣いだろうか。
そう、僕は彼女と対面して緊張していた。見つかってしまった不審者として、通報されやしないかという不安も少しはあるけれど、それだけではないように感じていた。
「赤羽さんに会いに来たのだろう?」
一瞬心臓が止まるかと思った。
「さっきも言ったが、怖がることはない」
「君は……」
「その質問は本当に必要なもの?」
「え、いや……まあ、なくてもいいけれど」
「私は時間が惜しい。あなたと同じで、私も本当はここにいていい人間ではない」
「え?」
「この中庭は夜間立ち入り禁止なんだよ」
メイは杖で地面をトントンと叩きながら言った。
「だからこうして毎晩私が出てきているのは秘密」
そうすればあなたのことも言わない、と彼女は少しも表情を変えずに言った。
小さな銀色が視界の端で揺れる。
僕はメイの静かな迫力に圧倒されていた。
彼女が何者なのかは大体想像がつく。だから確かめる必要はないし、聞いたところで状況が変わるわけではないだろう。彼女がユウカと引き合わせてくれるということもなさそうだ。
そう、僕は今日、ユウカに会いに来たのだ。このことはユウカには伝えられていない。あの日から一切連絡が取れなくなっていたから、ユウカはもちろん、メイがそのことを知っているはずがない。
「どうして僕がいるってわかったの」
「きっと来てくれると信じていたから」
「僕が来るのを?」
「この機会しかなかった」
「ごめん、さっきから何の話をしているのか……」
「私たちの話だ」
メイの黒い瞳が少しだけ大きくなったように見えた。
「秋呼びの儀を見ただろう」
「うん、バイト期間だったから、初めて直接見たよ」
「扉の向こうはどうなっていると思う?」
初めて声の調子に変化があった。少しゆっくりになったし、自分で自分の言葉を確かめながら話しているような印象を受けた。
メイが言っているのは、リサが消えていった真っ黒な観音開きの扉のことだろう。
青峰佐句良にも同じことを聞かれたのを思い出した。そのときによぎったあの恐ろしい考えも。
「儀式の後処理は文化庁の限られた職員が行っている。その詳細は一切公開されてていない」
それは知らない事実だった。そもそも黒い扉から呼子が出てこないことを疑問に思うには、テレビで中継される儀式の間の様子だけでは不可能だ。
「あの扉の向こう側で、呼子は確かに死ぬ。では、その遺体はどうなる」
「それは、遺族に返還されるんじゃないの?」
「遺族に渡されるのは骨壺だけだ」
「あぁ、火葬までは済ませてからなんだね」
「違う」
メイはそこで一度深呼吸した。彼女の表情に少しずつ感情が浮かび上がってくる様子は、日の出のようにドラスティックだった。僕は彼女の一挙手一投足に美しさを感じていた。申し訳ないけれど、ユウカとは比にならないほどだった。
「骨壺だけなんだよ」
だから、メイの重大な告白の意味するとこがすぐにはわからなかった。
「だから、遺骨を返してるんでしょ」
「その骨壺は絶対に開けてはならないとされる封がされている。それを破れば四季呼びが成立しなくなるという説明付きだ」
そこでようやく僕はメイの言っていることが理解できた。
空の骨壺なんだ。
「まさか、そんなことが……じゃあ、呼子たちの遺骨はどこに」
「私たちの足元だよ」
もう一度メイは杖で地面をトントンと叩いた。
「呼子の犠牲が私たち日本人の生活を足元で支えているって、小学校でも教わるだろう。趣味の悪い冗談だよ、まったく」
「足元って、この中庭の下に?」
「まさにここ、今私たちがいる四季棟の中庭の地下に呼子たちが埋まっている」
血の気が引くような感覚が僕を襲った。そんなグロテスクなことがあって良いのだろうか。
「元々四季呼びの儀は奈良の御料所で行われていたが、遷都や権力構造の変遷に従って場所が移って、およそ四百年前からはここで行われている。ざっと1600人分の骨が埋まっているわけだ」
「でも、こんなに普通の中庭なのに。どこにも掘り返したような跡なんてないよ」
「そんなものはどうにでもできる」
それに、とメイは続ける。
「夜間立ち入り禁止というルールがその証拠だ」
彼女は組んだ脚の上に肘を置いて、その上にも顎を乗せた。そういえば、さっきから脚を組み替えていない。右脚を上にしているから、左脚がうまく動かないのだろう。
「立ち入りが禁止されているのは夜だけで、日中は自由だ。それでも、あなたも知っているように、この中庭には普段誰も立ち入らない。昼はそれぞれ忙しくて外に出る時間がないから。夜だけは禁止されている理由がわかる?」
「誰にも知られず埋葬するため、とか」
「そういうことだ」
十数年生きてきて想像すらしなかった事実を淡々と知らされるこの時間が、四季棟の中庭に謎の美しい少女と一緒にいるという状況も合わせて、僕を夢でも見ているような気持にさせた。もちろん、この場合は悪夢だ。
「どうして君はそれを知っているの?」
「こうしてルールを破って夜風を浴びているから」
「それって大丈夫?」
「どうせ誰も見ていないし、見つかったってどうにもならない。特に私は、もう時間がないから。まあ、多少は不自由になるかもしれないが」
元々左脚は不自由だがな、とメイは不敵に笑った。それが僕の見たメイの最初で最後の笑顔だ。
「私の用事はこれで終わりだ。ついてこい」
そう言うとメイは杖をついて立ち上がり、僕を手招きした。僕もすっかり重くなってしまった脚を動かして彼女の後を追った。
振り返ると、さっきまで座っていた白いベンチが彼女たちの墓標のように見えた。
メイの後ろをついて行き、秋棟の通路で僕たちは別れた。
「早く行ってやれ。この時間ならまだ彼女は起きているはずだ」
「ありがとう」
「一つ、頼まれてくれないか」
「いいよ」
「冬になったらあのベンチに花でも飾ってほしい」
メイは僕を真っすぐに見据えて言った。
「うん、約束するよ」
「そうか、頼んだ」
安心したように彼女はそう言い残すと、一度も振り返ることなく去って行った。
後ろ姿が見えなくなってから、僕も渡り廊下を通ってユウカの部屋の前まで移動した。
誰もいないとわかっていても、ここで声を出すことはどうしても憚られた。ドアをノックすることも同じだ。
情けないことに、ここまで来ても僕は勇気を出せずにいた。誰かに見つかることへの不安だけではないことは明らかだった。
仕方なく、僕はメモを残すことにした。
読んでくれるかはわかないけれど、少なくとも僕が扉の前まで来たことは伝えられる。
それが今の僕にできる精一杯だった。
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