リュウゼツランの箱

ゼン

1

 あるところに何でも取り出すことのできる箱があった。

 何でもというのは決して比喩ではない。

 食べ物を念じれば食べ物を、ペンを念じればペンを。あの有名な猫型ロボットみたく何だって取り出す事ができるのだ。


 ともすれば人を堕落させ、争いを起こしそうなこの箱。私がこれを手に入れたのは1年前、23歳の時だった。

 大学を卒業し、働き始めて1年が経つころだ。私は仕事や一人暮らしに慣れると同時にひどく疲れ切っていた。

 毎日朝早くから出勤し、夜遅くに帰る。仕事の疲れからろくに食事もせずゼリー飲料を胃に放り込んで、さっさと眠りにつく。そして朝5時ごろにアラームに叩き起こされ、また出勤する。これが私の1年の全てだった。


 だからこの箱が枕元に現れた時は神様が私にプレゼントしてくれたのだと思った。

 社会にもまれる哀れな人間へのささやかなプレゼント。ささやかというには大きすぎるプレゼントだという事に気が付いたのは1週間後の事だったが。


 ある時は模様替えのためカーテンを出した。クリーム色の柔らかなカーテン。触れるとふわりと身をそらすカーテンは、あれだけ嫌いだった朝日すらも優しいものにしてくれる気がした。

 ある時は着てみたかった服を出した。少し高くて買えなかったあの服、いつもとは違う雰囲気で私には似合わないと諦めたあの服。全身鏡に自身を写し、一番気に入った服を着ると不思議と外に出たくなった。

 ある時は食べてみたかった料理を全部出した。気後れしそうなほどお洒落なフランス料理、有名料理店のカレー、高校生のころ食べてみたかった限定のパフェ。食べ終えるのには丸1日かかったけど自然と頑張る力が湧いてきた。

 でもどんなに頑張っても、母が作ってくれたオムライスは出すことができなかった。箱が現れて1年も経つ頃には、私はもうずっと会っていない母に会いたくて仕方がなかった。


 ――だがその時には全てが遅かった。


 母はがんを患っていた。

 食道癌、ステージ4。末期がんだ。


 私が急いで駆けつけると、母は病院のベットの上で相変わらずにこにこと笑っていた。やっと会えた、病気にでもならないと会ってくれないなんて言って私を困らせる。あぁ母はやっぱり変わらない。

 それから3か月後、私は痛みと不安のせいですすり泣く母の声を扉を隔てて聞いた。


 私はお見舞いの度に母にお土産を持って行った。

 花束、小説、手芸道具。思いつくものは何だって持って行った。

 母はこんなにいらないと言ったが、物でも渡さないと私がどうにかなりそうだった。


 ある日私は母にリュウゼツランを渡した。100年に一度しか咲かないといわれる程貴重な花だ。母が一度は見てみたいと言っていた花だった。

 喜ぶと同時に私を見つめる母の視線を見て、私は箱の事を正直に話す事を決めた。

 仕事と生活で悩んでいた事、そんな時に箱が現れた事。母は一通り話を聞くとゆっくりと語りだした。

 「貴方が言う通りそれは神様からのプレゼントかも知れない。でも、そんな物なくても人は生きていけるわ。だってその箱は貴方だもの。忙しいのに毎日のように花を持ってきてくれる貴方、一度しか話してない事を覚えてくれる貴方。……貴方を残していくのは心配だけど、でもなんとかなるわよ。もっと友達と遊んで、もっと世の中を楽しみなさい」

 私は数年ぶりに母の胸の中で泣いた。


 それから2か月後、母は亡くなった。

 苦しくて仕方ないはずなのに、眠るように穏やかに死んでいった。


 カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。少しだけ開けたままの窓から入ってくるそよ風が、澄んだ空気を運んで来てくれていた。

 私はまだ眠気の残る体を起こし、背伸びをした。

 母の葬式から帰ると、箱は消えてなくなっていた。まるで夢か幻だったかのように部屋には小さな空白ができている。

 私は数分迷った後、ベットから抜け出しその空白の中に腰を掛けた。

 今日は何をしようか。様々な考えが頭の中をめぐる。映画でも見るか、気になっていた新作小説を買いに行こうか、それとも少し遠出してみようか。それとも、それとも……。

 悩んでいても仕方ない、取り敢えず駅まで行こう。

 私はぱっぱと身支度を済ませ、小さなパンを一つだけ口にほおばる。さぁ今日はどこに行こうか。考えを巡らせながら、私は玄関を開け、駅へと歩み出した。

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