第13話
結界が崩壊した後、気がつけばおれたちは何事もなく玄関に座り込んでいた。
宮瀬さんに怪我もなく、服装も元の着物に戻っていた。
突然消えたおれたちに朝凪さんから生きた心地がしなかったと泣き付かれたが、こちらでは数時間ほどしか経過していなかったそう。
怪我は元通りになるようでも、疲労感は無くならないのですっかり疲れきった状態で、朝凪さんへの事の報告の途中でおれは寝落ちしたらしい。
朝起きたら自室の布団の上で、枕元には朝凪さんからの書き置きがあった。
内容は今日は休みにしておくので宮瀬さんの看病をしてやって欲しいというもの。
ほとんど椿さんが喋ってくれていたが、どの辺まで話していたのかぼんやりとしか覚えてない。
どれだけ眠かったんだ。正直、めちゃくちゃ恥ずかしい。
とりあえず起床時間はいつもと変わりないようだから、朝食の用意をしているであろう絹子さんを手伝わねばと部屋を出ていく。
味噌汁のいい香りが漂ってきた。
「あら、おはようございます。お早いんですのね。もう少し休んでいても良いのですよ?」
台所で最初に顔を合わせたのは絹子さんでも他の幽霊でもなくなんと宮瀬さんだった。
「あー……おはようございます」
「おはよう。乙女ちゃんがねぇ、一晩泊めてくれたお礼にってお手伝いしてくれてるのよぉ。
お客様にそんなことさせられないんだけど、でもこの子手際が良くって。こんなに若いのにすごいわねぇ」
「いえいえ、それほどでもありませんわ」
「あらあら謙遜なんかしちゃってぇ。もぅ、かわいいんだからぁ」
なんだ。台所がお花畑みたいな雰囲気になっている。
いつもと変わらない寝癖のついた適当な寝巻き姿なのが、妙に恥ずかしくなってきた。
どうしよう。引き返して着替えるべきか。
「あ、すみません。そこのお皿をとってくださいな」
「……はい」
宮瀬さん、もしかして人の扱い方が上手かったりしないかな。
そうしておれも手伝いつつ完成した朝食。
食卓にはおれと宮瀬さん、と後から起きてきた椿さんの三人だ。
絹子さんは幽霊なので食べられないのが残念だが、一人増えただけで新鮮味をなんだか感じる。
豆腐の味噌汁と厚焼き玉子、浅漬け、ご飯。
宮瀬さんが泊まるのは急なことだったので、食材が用意できず簡素になってしまったと絹子さんは言っているが、おれにとっては大満足だ。
幽霊屋敷に来て一番良かったのは、不規則かつ適当な食生活だったおれが食の良さを知ったことだろう。
都会はいいよな。三十年目の太正時代は朝からこんな美味いものが食べられるなんて、おれはずっと知らなかったよ。
「小鞠くんって美味しそうに食べるよね。その顔見てると君をここに連れてきて良かったって思うよ」
眠そうな顔の椿さんがじーっとおれのことを見ていた。
「いや……ほんとに、ありがとうございます」
「いつもツンツンしてるのにご飯の時は素直だもんね。なんか負けた気がするな」
なにと張り合ってんだあんたは。
こんな時にくだらん言い合いなんかしたくないだけだ。
「うふふ。お二人はやっぱり仲良しですのね」
「そりゃまあね」
くすくす笑っている宮瀬さんに椿さんが自慢げに返事をする。
お友達じゃないんだから仲良しって程でもないだろ。
それを言ったら椿さんのご機嫌が急降下しそうだから言わないけどな。
さて、椿さんは執筆があるといって部屋に引っ込んでしまったので、しばらく近づけないだろう。
いつも集中しているのか、執筆中は部屋から出てこないし、話しかけても本当は何も聞いていないだろうということが丸わかりな適当な相槌しか返って来ないのだ。
朝凪さんの計らいで休みを貰ったとはいえ、ずっと宮瀬さんについて回るわけにもいかないから、やることが無くて暇を持て余してしまう。
化け猫でも構って二度寝するか、などと考えて猫を探すため縁側に来たのだが。
「あら、御厨さん」
「あれ、宮瀬さん。どうしたんですか、こんなところで」
先客がいたようだ。
彼女もまた時間を持て余しているようだが、宮瀬さんこそもう少し寝ていた方が良い気がする。
朝から手伝ってくれていたが、もうどこも悪いところは無いのだろうか。
「いえ、可愛らしいお方がいましたので」
宮瀬さんの膝の上には、くるっと丸まった猫がいた。
本物の猫みたいに可愛い顔をしてゴロゴロ喉を鳴らしている。
化け猫にめちゃくちゃ懐かれているじゃないか。
化けの皮とはまさにこのことか。
なんてやつだ、おれのことは初対面で散々な扱いをしてくれたくせに、よそから来た人の膝の上は簡単に受け入れちまうのか。
この浮気猫め。
「ここは穏やかでいいですわね……。わたくしのような得体の知れない相手にも皆様が優しくしてくださるので、とても嬉しかったですわ」
宮瀬さんの顔に少し陰りが見える。
何事も無かったかのように爽やかな朝を迎えたとしても、心の中は晴れているとは限らない。
「得体の知れない奴らなんて、ここの連中の方がよっぽどですよ。いきなり壁を通り抜けてきたり遊びで怪奇現象を起こされたりで、やりたい放題なんですから」
ここは何でもありの幽霊屋敷だ。
自分がどんな人間だとか、そんなことは気にする必要無い。
おれの言葉を冗談だと思ったのか、宮瀬さんはくすりと笑ってくれた。
「このお屋敷、絹子さまがここの主人ですのよね。まるで女中さんのようで、お恥ずかしながら教えて頂くまで気がつきませんでしたの」
「いや、むしろそれでいいんですよ。絹子さんによるこの家の女中を続けたいという願望で成り立ってる屋敷なんで、むしろおれたちは客人や主としての在り方を進んでしないといけない側ですから。女中の絹子さんとして見てもらえる方が、絹子さんも嬉しいんだって言ってました」
「そうなんですの……やっぱりこのお屋敷は面白いですわね。楽しそうで、ちょっと憧れてしまいます」
宮瀬さんの心象風景の中にある、広大な宮瀬家を思い出す。
今、宮瀬さんは一人暮らしだったか。
「……住みますか?部屋、結構空いてますけど」
思わず衝動的に誘ってしまったが、宮瀬さんは少し驚いた顔をした後に、微笑みながら首を横に振った。
「いえ、それは遠慮しておきますわ。あなた方の間に割り込むことなんて、わたくしにさできませんもの」
だから、おれと椿さんは仲良しの友達でも兄弟でもないんだけどな。
「それに、あなた方には大変なご迷惑をお掛けしてしまったのですから、いつまでもここにお世話になるわけにはいきませんわ。お昼までにはここを出る予定ですので……」
「別に迷惑なんかじゃないですよ。おれ、好きで首突っ込んでるだけなんで」
「まあ……」
宮瀬さんの言葉を遮って強くそう言ったが、気遣いが下手くそなのがバレバレだった。
でも、本当に迷惑なんかじゃないのだ。
おれは自分で選んで巻き込まれにいっただけだ。謝られる筋合いなんてない。
椿さんなんか、取材旅行だなんだって喜んでたぐらいだぞ。
怪異に自らぶつかっていくような人なんだ。
今だって全然手をつけてなかった原稿に真面目に向き合ってる。
「宮瀬さん、ひとつ聞いていいですか」
この際だから、聞きたかったことは聞いてしまえと勢いで尋ねてみる。
多分、夜の間に朝凪さんや椿さんには話しているかもしれないがおれは聞いていないから許して欲しい。
「はい。わたくしに答えられることならなんでもどうぞ」
「宮瀬さんは、龍神を信仰していなかったんですか」
虚をつかれたような顔で、宮瀬さんは黙ってしまった。
『宮瀬乙女は水成村で唯一、龍神を信仰していない』
椿さんの研究記録にはそう書かれていた。
神を信仰しない巫女。それが宮瀬乙女であったと。
答えづらいことを聞いてしまったかもしれない。
少ししてから宮瀬さんはようやく口を開く。
「……ええ。その通りですわ。不真面目なことですけれど、わたくしは巫女として生まれながら神を信じておりませんでした。幼い頃は当主様に言われるがままに信仰していましたけれど、あれが作られた偽の神だということをわたくしは知ってしまったのです」
聞けば、蔵に隠すように仕舞われた文書を見つけてしまったのだと。
祭事の練習に失敗して仕置きの為に蔵に閉じ込められ、一晩そこで過ごした時の話らしい。
見つけたのは本当に偶然で、そんなものがあったなんて宮瀬さんは微塵も知らなかったそう。紙などいないと宮瀬さんが知ることになったきっかけだが、まるで天からの啓示のようにそれが彼女の運命を決めることになったのだ。
椿さんのノートに書かれていたことも、その時宮瀬さんが見つけた文書が資料になったのだろう。
自らが信仰していた神の正体を知ってしまった宮瀬さんは、誰にも話してはならぬと心に秘めたまま、どうすることもできずあの村で歳月を重ねていく。
「でもお役目は無くなりませんから、わたくしはある日とうとうあの方が祀られている所へ参ることになりましたの。頭の中は侮蔑の感情でいっぱいでしたわ。そうしたら、何故かあの方がわたくしの前に姿を現したんです。代々の巫女の中で、龍神の姿を直接見た者はいないと言われていましたから驚きましたわ」
そして小説にある通り、その龍神の美しさに心奪わそうにもなったと。
「あんなことになったのは、わたくしが悪いのです。わたくしがあの方に願ったから、全て悪いのです」
「……何を、願ったんですか?」
そういえば、結界が崩壊する直前にもそんなことを言っていた。
願いとやらについて小説にはなかった記述だ。ということはおそらく彼女の後悔の根幹に関わる話で、表向きに話せるものじゃないということだ。
おれは宮瀬さんを不用意に傷つけないよう、恐る恐る聞いてみる。
「許嫁を消して欲しいと願いました。だって、そんなことできやしないと思ったんですもの。でもあの人は変わり果てた姿になってしまいました……」
「な、なんでそんなこと願ったんですか。もしかしてその許嫁に乱暴でもされたんですか」
責めるようではなく、おれはひたすら焦ってなにがあったのかと聞いていた。
まさかそんな願いだなんて思いもよらず、どう返していいのか分からないからだ。
その人になにかされたのか、許嫁がよっぽど酷い野郎だったりするのか。
だったらこんなこと宮瀬さんに聞いちゃいけなかったんじゃないか。
おれはなんてことをしてしまったのだと、冷や汗をかいてどう謝ればよいのかと格好悪いことにひたすら焦ってしまう。
「いいえ。御厨さんの思うようなことではありませんわ」
宮瀬さんは静かに語る。
「わたくし、好きになってはいけない人を好きになってしまったのです。だから許嫁のことがどうしても受け入れられなくて。それでつい、そんなことを口走ってしまいました。その結果がこれです。全てわたくしの軽率な行動が悪いのです」
「それは……」
「わたくしの腹違いのお姉様ですわ。あの人はいつも太陽のように明るい笑顔で、わたくしの心を照らしてくださった。幼い頃から巫女として生きることを強制され、一人の人間としてではなく巫女という役割だけで見られてきたわたくしにとって、はじめてちゃんと心から向き合ってくださった方でしたのよ」
腹違いの姉というと、椿さんがおれに姿を見せてはならないと言った死体の人か。
小説では宮瀬さんと仲の良い家族として描写されていたが、その裏に隠された真実は恋心だった。
太陽のように明る笑顔……。
彼女は死体となってもなお笑い続けていた。
怨霊に意識を奪われた状態の宮瀬さんが笑っていたのも、彼女のことが心に有り続けていたからなのか。
悲しいことに、思い出は捻じ曲げられてしまったということだ。
本当は、あんな笑い方じゃなかったんだろう。
「でもお姉様もわたくしのせいで殺されてしまった。龍神はお姉様の肉塊をわたくしに食べさせようとしたのです。それを食べれば、お姉様は永遠にわたくしの中にいてくれると。愚かですわよね、人外に人の心が分かるはずがないのに、わたくしの馬鹿げた恋のために協力してみろと浅ましい態度をとったおかげで、わたくしは多くの人を不幸にしました」
おれは当事者じゃないから、彼女に対して綺麗事は吐けなかった。
法で怪異は裁けない。
宮瀬さんのことは罪には問えない。
だからこそ、宮瀬さんは全て一人で背負って苦しんでいる。
「でもあんただって被害者なのは間違いないだろ。誰もあんたを責めちゃいない」
「……お優しいんですのね。知っていまして?龍神の封印がこんなに早く解かれたのは、わたくしのせいですのよ」
自虐的な笑みに、おれはちょっとムッとして言い返してやった。
「知ってます。朝凪さんから聞きました。村を出る時、わざと封印を緩めたんですよね。朝凪さんを殺すとかって脅されたんでしょう。朝凪さんが敢えて見逃したってことは、それが全てでおれに口を挟む理由はありません」
こっちはもう全部知ってるんだ。今更そんなことでおれや椿さん、朝凪さんが宮瀬さんを見放すわけない。
だいたい、宮瀬さんが本当に嫌な奴だったらこんなふうに懺悔したりしないだろ。
宮瀬さんは全部忘れて、被害者として周りからの慰めを享受するだけの立場に立てる人だ。
それでも過去から目を逸らさずに、自身の非を認めている。
それだけでもう十分だろう。
村の隠された秘密を幼いながらに一人で知ってしまい、孤独に抱え続けた果てが今なのだ。
頼りたかった相手も、救いたかった相手もみな死んだ。
たった十数年生きただけの少女が背負うには、あまりにも重い。
今はただ、いつの日か、宮瀬さんの心があの曇り空から晴天に変わればそれでいいんだ。
「実を言うとわたくし、御厨さんのことが苦手でしたの」
「えっ」
そんなこと全く感じなかったが。
嘘だろ。
「なんだか、わたくしに似ている気がして。鏡を見ているようだと感じたんですの。おかしいですわよね、今はそんなこと全く思えませんのに」
「似て、いる……」
おれと宮瀬さんが。
粗暴なおれと、一輪の花のような宮瀬さんが。
似てる……?
「外見じゃありません。中身の話ですわ」
ぽかんとするおれを見て、宮瀬さんは楽しそうに笑った。
まあ確かに来歴に似た箇所はいくつもあった。
おれの方こそ宮瀬さんを苦手だと感じなかったと言えば嘘になる。
今は違うということは、宮瀬さんの心の中にいた怨霊がもういないことの証明になれたと思って良いのかな。
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