第10話

「ちょっと、ちょっと。外になんかいるんだけど。誰か追っ払って来てよぅ」


 夜も更けた頃。朝凪さんを睨みながらおれたちに代わって宮瀬さんの看病を申し出てくれた絹子さんが、珍しく怯えたような表情でこっちに来た。

 壁をすり抜けてぬぅっと現れるものだから、一瞬悲鳴を上げそうになった。心臓に悪い登場の仕方だ。


「来たか、そうかぁ。やっぱり避けられないか」


 絹子さんからの要請に立ち向かう素振りは一切見せず、あーあと呆れたようにだらけている。

 外にいるものがなにか、見に行かなくてもすぐ分かった。


「えっ、ちょっとちょっと。なによその言い方、椿さんったら」


「ごめん絹子さん、後で何でも言う事聞いてあげるからちょっとだけ許してね」


「誰がなにを許すんですって?アイツを追っ払ってくれなきゃわたし許さないわよぉ。あとこの部屋にいるソイツもね?」


「明日には出ていきますから、もう少しだけどうか」


 もちろん朝凪さんへの怒りは忘れていない。

 徹底的な嫌われっぷりだが、裏を返せばそれほどまでに朝凪さんは強力な力を持っているということか。


「ていうかアンタが連れてきたあの子、本当に大丈夫なの……? さっきからアタシ怖くて怖くてたまんないんだけど」


 幽霊が人を怖いとか言うなよ、とは言えないけど。

 絹子さん、最初に宮瀬さんを見た時は可愛いって感激していたはずだが。


「怖いって、どうしたんですか」


「あの子、さっきからずっと寝てるのに、笑ってるのよ。楽しそうにずぅっと。どうなってんのよぉ」


 半透明に透けた足が、うんともすんとも言わない椿さんの背中を蹴る。

 それはたしかに怖いかもしれない。

 だが宮瀬さんに何かしらの反応があるっていうことはもう間違いないだろう。


「大丈夫。絹子さんがそれをこの家の中に入れさえしなければいいんだ。ちょっとだけ玄関先は荒らすかもだけど」


「……ほどほどにしてくださいね?」


 絹子さんは渋々頷いてくれた。

 椿さんによる算段は、宮瀬さんを追ってこの家にたどり着いた怨霊を玄関先で椿さんの結界に封じ込めるというものだ。

 この屋敷は普通の家じゃない。家主である絹子さんが入れてはならぬと拒否したものは家に入ることができない。

 朝凪さんの場合も玄関先で通してもらえていなかったが、なんとか許しを得たからここに入れたわけであって、絹子さんが入れないと決めたものは絶対に入れない。

 椿さんのように言うのなら、この家が絹子さんの領域だから、という感じだろう。


 門扉を閉めていたはずなのに、玄関扉の前には奴の影があった。

 こちらとしては敢えて招き入れるつもりだったから問題はないが、そいつの行動はやはり不気味で仕方ない。


「ごめんください」


 ドンドン。

 激しい雨音をかき消すように、強く扉を叩いている。

 抑揚のない男の声だ。昼間と同じように聞こえるけれど、作り物のように延々と同じ言葉を繰り返している。


「ごめんください」


 ドンドンドンドン。


「ごめんください」


 ドンドンドンドンドンドン。


 おれたちが見ていることが分かっているかのように、扉を叩く音が鳴り止まない。

 普通ならあんなに叩いたら手が痛くなるだろうに、それでも止めるつもりはないらしい。


「硝子割れちまうっての。はいはい今開けますよー」


「凛世、慎重にね」


「分かってる。とりあえず封印は頼むぞ」


 朝凪さんと小声で会話した後、椿さんは大股で堂々と玄関に向かっていく。

 左手には以前使ったような御札を手に、ゆっくり引き戸を開けていく、次の瞬間。



 ​───────​─────ばん。



 なにかが聞こえて、一瞬視界が真っ暗になった。

 あれは、破裂音?物が壊れるような……そらとも、誰かの声のような。


(……っ!?)


 目を開いたら、一面が澄んだ青い世界だった。

 違う。これは違う。絶対に。

 以前椿さんと怪異に遭遇した際のものとはまるで違う、これは違うどこか異空間だ。

 身体中が重くて、息ができない。

 水の中だ。流れのない、底のない水の中に延々と沈んでいくような感覚。

 おれはどこへ沈められるんだろう。

 椿さんは、朝凪さんはどこにいるんだ。


 水面に上がりたくても、手足に力が全く入らない。

 息を吸いたいのに、吸えなくてどうしようもなく苦しい。

 逃げないといけない。分かってるのに体が言うことを聞かない。


(おれ、今度こそ死ぬのか……)


 音も聞こえない。ただ、沈んでいく感覚だけがそこにあった。

 段々、上から差し込む光が見えなくなって、周りがどんどん暗くなる。

 たった一瞬で、なにが起きたのかさえ分からないまま死ぬのか。

 それ、嫌だな。


 可哀想に。生まれてきたことが間違いなんだ。


 どこかから声が聞こえる。多分それは、おれの記憶の中からだ。

 忘れもしない。人を勝手に可哀想扱いしやがって。

 おれが女じゃなかったからって不都合があるのはお前らだけで、おれは何にも可哀想なんかじゃねぇ。

 そう言ってやりたいのに、口はさっぱり動きやしない。


 どうしておれはこんなことになったんだろうな。

 思い返せば、生まれてから大体ロクなことのない人生やった。


 全部おれが悪いんか。

 おれが女じゃなかったから、当主にもなれんければ生贄にもなれん半端者だからいかんのか。

 こんなところで死ぬのも、お前らが大事にしとった神をおれがあんなことにしたから、その報いか。

 おれが、おれが……。


「はいはい、そういうのは後にしようね!」


 ……なんだ?

 やけに頭に響くうるさい声が聞こえてきた。

 今から死ぬんだから放っておけばいいのに、声はいつまでも喚いている。

 このまま沈めばそのうちいなくなるだろう。


 そう思った、のに。



 ​───────​───────



 何か強い力にいきなり引っ張られたと思ったら、すごい勢いで地面に叩きつけられたような感覚がする。


「いってぇ……なんなん……」


 頭がぼーっとして上手く働かない。

 打ったところは特にそこまで痛くはないけど、誰だおれを引っ張ったのは。

 しばらく唸ってから、ようやく脳が落ち着いてきたようでゆっくり目を開く。


「あ……?椿さん……」


 視界にまず飛び込んできたのは見慣れた椿さんの顔だった。

 辺りを見れば、森の中のような木々がたくさん生えている場所で、隙間から見えるのは明らかに天気の悪そうな空だ。


「おはよう。もう、大変だったからね?君を運ぶの。君って見かけによらず重たいんだね。もの凄く筋肉の重みを感じた」


 大袈裟な言い方だが、見るからに力の無さそうな椿さんには重労働だっただろう。


「すみません……おれ……」


 おれが寝そべっている場所は小川の川べりだったが、おれは一切濡れていない。椿さんも同じだ。

 さっきまでおれは水の中に沈んでいたはずなんだが、この川はおれの足首程の深さしかなさそうに見える。

 じゃあおれがさっきまでいた水はどこの水なんだ。というか、家の玄関にいたはずなのにここはどこなんだ。


「なんか色々考え込んでるみたいだけどそういうのはいいから、とりあえず落ち着いたみたいでよかった。ここ、あの怨霊の結界だよ。先手を取られちゃった、やられたなぁ」


「あれ……朝凪さんは」


「ご丁寧に俺と小鞠くんだけだよ。あいつ、わざと朝凪を弾きやがった。封印した術者が誰か憶えていたんだ」


「それじゃ、おれたちはどうするんだよ……!?」


 ぼんやりしていた頭が急に冷えていくようだった。

 初手から計画が狂いまくっている。

 朝凪さんに封印してもらう算段だったが、この状況でどう戦えば良いのか。


「焦る必要は無い。まがい物の神ごときに、俺たちの行動全てを見透すことなんてできるわけがない。門を越えてきたのもそうだ。何一つ苦労しないで結界を破るなんて、信仰を失った奴が本体のある村を離れた状態でそんな力を操れるわけがない。裏で手を回してる者がいないかぎりはね」


 にっこりと、いつものように椿さんは笑っている。

 裏で誰が手を回したのか。

 とっくにそんなの分かっていた。


「やっぱり、宮瀬さんですよね」


「分かってた?さすが俺の助手だね」


「勝手に助手にしないでください。で、宮瀬さんがおれたちの話を聞いて怨霊に教えてたんですよね」


「そうだよ。それが自らしたことなのか不可抗力なのかは分からないけど、おそらく宮瀬乙女もここに来ているはずだね。彼女を探そうか」


 宮瀬乙女は村で唯一、神を信仰しない巫女だった。

 椿さんの記録にはそう記されていた。

 人々が神だと崇め奉った存在を真っ向から否定する心を持つ巫女なんて、結構珍しい話だ。

 宮瀬さんの目にはあれが神ではなく怨念と憎悪で作り上げられた怪物として映っていたらしい。

 唯一宮瀬さんだけが怪異の真なる姿を見ていたからこそ、怪異に気に入られる羽目になったのだとも書かれていた。


「でも探すってどうやって」


「地道に歩く、かな。まだ疲れているだろうし、もう少し休んでからにしよう。急いだってどうせどこにも行けやしないんだから」


「……ありがとうございます」


 おれを気遣ってくれたのだろう。

 肉体的にも精神的にもずいぶん疲弊させられた。

 椿さんも同じことを味わったのだろうか。それにしては疲れた素振りもない。

 でもおれたち以外に助けは誰もいないってことは、椿さんは自力で這い上がってきたということになる。

 おれはただ沈んでいくだけだったのに、椿さんはすごいな。


(本当、嫌なもん思い出しちまったな……)


 こういう、文明的な帝都とはかけ離れた自然の中にいるとまた昔を思い出して引きずりそうになる。

 今は何も考えなように、ただ、濁った色の曇り空を眺めた。


「君は可哀想な子なんかじゃないよ」


 椿さんにしては遠慮がちに小さくそう言われる。


「……知っとるわ、そんなこと」


 悪態をついたくせに、おれは少しだけ笑っていられた。

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