第4話

 椿さんは万年筆を掲げ、再び文字を記そうとする。


「さてさて、今回はどんなふうに書いてみようかな。俺だけに見せておくれよ、君の全てを」


 なんだそのキザったらしい薄ら寒くなる台詞は。


『コウイチ……わたしの、こ、トを……』


 まただ。またその名前だ。

 これまで名前を繰り返すだけだったが、コウイチとやらは彼女に怨まれるようなことをなにかしでかしたのだろうか。


『コウイチ……コウイチ……』


 ふらふら、ぐらぐら。

 名前を呼ぶその声は不安定で、焦燥感を植え付けるかのような響きがある。


『ねェ、コウイチ……わたしを……わたしを……』


 怪異はおれに向けてひたすら呟いている。


「あんたがなんなんだよ。おれはコウイチじゃねぇ、小鞠だ」


「もしかして小鞠くんとコウイチさんって似てるのかもね」


 さらっと椿さんは言ってくれるが、おれもまあそうだろうなとうっすら思っていた。

 毎晩おれの部屋をしつこく訪ねてくる時点で、怪異はおれがコウイチだという体で話しかけているとしか考えられない。

 ただの他人の空似なのに、似ているだけで目をつけてくるなんてはた迷惑な怪異だな。

 奴は椿さんに目もくれず、じりじりとおれに近づいてくる。


「君とコウイチさんの関係はどういうものかな。『家族か、恋人か、それとももっと別のものか……』」


『どうして……どうしてあの時』


 空が揺れる。

 雪が溶け、春が芽吹き、やがて桜は散る。

 吹き荒れる風と共に次々と世界は移り変わる。

 これが、三滝坂の怪異の記憶にある景色なのか。

 怪異の思い出とはいえ、今見ている世界はおれにとってはずいぶんと色鮮やかに感じた。


「『或る少女の、在りし日の思い出』かな」


 椿さんが万年筆を宙に走らせている。

 変わる場面の中で垣間見えたのは、川べりで手を繋いで寄り添う少女と少年だった。


「あれは……」


「やっぱり寒い冬よりぽかぽかした春の方がいいよねぇ」


 呑気に伸びをして椿さんはそう言っている。

 雪景色でおれは特に寒さは感じなかったのだが、椿さんはそんな胸元の空いただらしない格好してるからなんだろうな。閉めろよ、それ。


『それでね、お父さまはわたしが外で泥んこ遊びをするのがとってもイヤなんだって怒ってるの。変だよね、わたしと遊んでくれるわけじゃないのに』


 少女はそう言いながらくすくす笑っている。

 嫌味な親父のことを素直に嫌な奴だと評価できるのは、子供ならではの無邪気さだろう。


『じゃあ、今日のこともリエちゃんのお父さんにバレちゃったら怒られるかな』


『そんなのどうでもいいよ!わたし、お父さまの言うことよりコウイチくんの方が大切だもん!』


 不安げな表情を浮かべた少年を、少女は明るく笑い飛ばす。

 二人の名前が分かったことだが、この少年こそが件のコウイチなる人物だったということになる。

 ならば、リエと呼ばれた少女が誰なのか、口に出さずともすぐに分かるだろう。


『ありがとう……。僕もリエちゃんが一番大切だよ』


 二人は仲の良い友人同士に見えるが、少女のことを大切だと言う少年の顔は赤らんでいた。

 友情だけでない何かがあるような、そういう視線だと何となく察してしまう。


『ねぇ。コウイチくんは、リエが大人になってもずっと友達でいてくれるよね?』


 少し間を開けてから、少年は返事をした。


『うん。約束するよ』


 その空白に込められた真意を、おれが語るのは野暮だろう。


「『やがて月日が経ち、彼らは大人になっていく』さあ、ここから転換だね」


 また場面が変わる。

 暖かな春は過ぎ去り、また凍える冬が来る。

 おれと同じ歳ぐらいだろうか、再び現れたのは幼子から成長した二人だった。


「小鞠くんと結構似てるね、コウイチくん」


「そう……か?まあ、そうなのかも」


 自分の顔にそこまで関心が無いから、似てる似てないは判定できない。

 椿さんがそう言うならそうなんだろ、という結論で。

 さて、そんな幼少期の面影を残しながら大人に成長した彼らは、今度は和やかな雰囲気とはいかないらしい。


『聞いたよ。明後日には三滝坂を発つんだろう。……リエちゃんは本当にそれでいいのかい。親父さんが勝手に決めた、愛のない結婚なんて』


 リエの家の裏口だろうか、敷地は広いが建物はどことなく薄汚れていて、庭や生け垣も手入れがされておらず荒れている。

 彼女は不本意な結婚をするのだと。


『馬鹿じゃないの。私たちもう子供じゃないのよ。愛だなんて笑わせないで』


 ついさっきまで見ていた無邪気な姿とはまるで違う。

 成長したリエの厭世的なその笑みに、おれたちは揃って驚いた。


「おいおい、リエちゃんすっかりやさぐれちゃってるじゃないの」


「ずいぶんな豹変っぷりだな」


 この十数年に何があればこんなことになるのか、そう思ったが。


『うちが借金まみれでもうどうにもならないこと、知ってるでしょ。私は』


 なるほど、彼女の家は経済的に困窮しているのか。

 家の荒れ果てた様子も納得出来る。

 表向きは嫁入りとされているが、これからリエは借金のカタに売られるのだろう。

 以前の言動から察するに、彼女の父親は厳格というより、子供を自分の所有物として扱う厄介な人間だったようだ。


『だとしても、こんな身売り同然の真似を許すことはできない。この家から一緒に逃げよう、リエちゃん。今のままじゃ、君は絶対に幸せになれない』


 そしてコウイチは、リエを助けたいと。


『勝手に決めないでちょうだい。私が望んで決めた結婚よ』


『だったら、どうしてそんな顔をするんだ』


 リエは一瞬、虚をつかれたかのようになるもすぐに俯いて何も答えない。

 本当は何一つ望んでいないことが丸わかりだった。


『必ず迎えに行く。明日の晩、もう一度ここへ来るよ』


『……勝手にしてちょうだい。私はもう知らないから』


 決意を固めるコウイチに、リエははっきりとした拒絶をすることはなかった。

 本当は二人とも惹かれあっていたのだろう。

 けれど、リエの家庭環境はそれを許さなかった。

 このまま二人で上手く逃避行できれば良いのだが、リエが怪異として三滝坂に残り続けている意味を考えれば、残念ながら結末は決まっている。


「冬の夜なんて逃亡には向かないと思うんだけどなぁ」


 椿さんは彼らの動向を見守りつつ、続きを書いていこうとする。

 だがその時、おれは周囲の異変に気がついた。


「なんだ、この影……」


 二人の姿を足元から這い寄るかのようにうごめく黒い影が覆っていく。

 それに、妙な匂いも漂ってきた。

 何かが焼けるようで、空気がどうにも煙たい。


「嫌な空気だね。熱くてたまらないよ」


「……!」


 これはまさか。そう思った次の瞬間。


『火事だ!』


『まだ中に人がいるわよ!』


 場面が変わり、いつの間にかおれたちは路上の野次馬たちの中に紛れて立っていた。

 燃え盛る家屋は先程まで見ていたリエの家だった。

 話を聞く限り、一家は炎の中から出られなかったようだ。

 いや、先日の様子からするとそれは少し違うかもしれない。


『何があったんですか!』


 後方からまるで怒号のように激しい声が飛んでくる。

 振り返れば血相を変えたコウイチが、周囲の人々に状況を聞いているのだった。


『多加美さん家が燃えてるのよ。中に皆取り残されてるって……ちょっと、あなた何してるの!』


『リエちゃん!僕だ!迎えに来たよ、リエちゃん!』


 コウイチは躊躇いなく炎の中に飛び込んでいった。

 鬼気迫る叫びが反響する。

 周囲は突然の乱入者にどよめき彼を止めようとするも、炎のせいで近づくことはできない。

 この激しい燃え様じゃ、リエが無事だという希望はないだろう。

 このままじゃ自分も焼けてしまうのに、それでも彼女の元へ行きたかった、と。

 なんて無茶なことだ。


「『炎は渦高く舞い上がり、全てを灰に変えていく』」


 凄惨な光景は、やがて何もかもが崩れ去った焼け跡に早変わりする。

 焼け跡に先程までの騒がしさは無く、ただひたすらもの寂しさに包まれていた。

 北風が吹き抜け、炎の熱さを冷やしていく。

 荒れ果てた庭も跡形無く、薄暗い曇り空の下、どこまでも陰鬱とした空気が立ち込めていた。


「『多加美里恵、享年十八歳』。これがあなたの本質だね」


 怪異は何も喋らない。

 無理心中だってさ。

 どこからか、通りすがりの誰かの声が小さく聞こえただけだった。


「あんた、ここに住んでる人だったんだな。無理心中ってことは、ほんとはコウイチと逃げるつもりだったのか」


「だろうね。大方、父親にバレて口論になるも和解できずそのまま、ってところかな」


 煤けた着物に乱れた髪。

 死の間際の姿だろう。本当はもっと酷い有り様だったかもしれない。


「怪異……多加美里恵だったか。正体は分かったけど、それをどうするんですか」


「決まってる。続きを書くだけだよ」


 椿さんは空に掲げた万年筆を再び動かす。

 しかし、今回は文字では無くなにやら図形のようなものを描いていた。

 丸、四角、三角。おれにはよく分からない幾何学的な模様は、例に漏れず筆跡が浮かび上がり形作られている。


「数十年前に死したはずの君が、どうして今もこの土地に留まっているのか。君が求めているものは何なのか、教えてもらおうか」


 椿さんが描いた模様は、怪異の前に飛んでいくとそのままパラパラと下から崩れるように消えてしまう。

 これが何を意味するのか、おれはそれをすぐに知った。


『こんなことになるぐらいだったら、一人で死んでしまいたかった』


 怪異が口を開く。

 これは化け物の呻きなどではなく、多加美里恵という人間としての言葉だろう。


『あの人を巻き込みたかったわけじゃない。幸せになりたいと思った私がいけない。私みたいな人間が欲張るからいけなかったんだ。大人しく黙って従っていれば良かったものを、今更まともな会話が出来る相手じゃなかったのに、結婚もあの人に知られないように隠し通せばよかったのに、私が、私が、わたしが、わたシ、が───────』


 垣間見えた多加美里恵は、すぐに狂気にのまれてしまった。

 目の前にいるのは、元の怪異と変わりない。


「ダメか、執念深いな」


 椿さんはあっさり諦めてしまったのか万年筆を下ろしていた。

 怪異の足元からどろりとした黒い影が湧きあがり、こちらに狙いを定める。


『ああああああああぁぁぁ!見るなぁ!わたしを、醜い私を……!』


「うわっ」


 いきなり突進してきたと思ったら、人のものでは無い異様に伸びた爪と骨の浮きでた細い腕が、おれの喉に手をかけた。

 奴はそのままおれの首を締め上げる。

 その力は見た目に反して強く、締められた首には痛みを感じた。

 多分、本気で殺そうとしてる。狙いがおれじゃなくて椿さんだったらあっさり死ぬだろう。


『お前が!お前がお前がお前がお前がお前が』


 乱れた髪の隙間から、虚ろな瞳と視線が合う。

 怪異の体から影が這いより、おれの手足にまとわりつこうとする。

 まるで、何かに引き寄せられるような錯覚が。


『お前が私をころしたんだ』


「退け」


 怪異がそう囁いた隙をついて、おれは怪異の体を強く蹴飛ばし脱出する。

 物理で戦える相手じゃなかったらどうしようかと思ったが、おれに蹴られた怪異は派手に吹っ飛んでいた。

 地に伏しながら、なにか怨み言のようにぶつぶつ呻いている。


「ふざけんな!おれじゃねぇよそれ!」


 お前がわたしを〜、と言われたってこっちには何一つとして身に覚えがない。

 人違いもいい加減にしてもらいたいものだ。


「見かけによらず力があるんだね。うんうん、元気があるのは良い事だ」


 椿さんは距離を取って離れたところで傍観していた。


「冤罪で裁かれてたまるかってんだよ!てかあんたも見てないで助けてくれよ!」


「俺には無理だよ。体力ないし」


「あんたのその妖術みたいなのでおれを助けてくれって言ってんだ!というか、あれに引き込まれたらどうなるんだよ!?」


「それはちょっと分かんないや。溶けて死ぬとかじゃないかな」


「はぁ!?このクソッタレが……!」


 思わず悪態をつく。

 椿さんに、じゃない。椿さんと怪異とおれを取り巻くもの全てに対してだ。

 また化け物と腕っぷしで戦う羽目になるなんて。

 渋々身構えようとしたが、その必要はなかった。


「とはいえ、ぐだぐだやってると日が昇っちゃうからそろそろ終わらせようか」


 ずっと気だるそうだった椿さんが、背筋を伸ばし真剣な顔をしてこちらへ向かってくる。

 へらへらした喋り方じゃない、よく通る低音の声だ。

 怜悧な表情で、視線が鋭く怪異を射抜く。


「多加美里恵は何らかの禍根により今なお三滝坂に囚われている。そこへ現れたのはコウイチによく似た少年の御厨小鞠だ。多加美里恵は小鞠くんに執着し、そして先程彼女は自分を殺したのがコウイチだと口にした」


 椿さんは一歩ずつ怪異に歩みよる。


「あの時コウイチが逃げることを提案しなければ、父親を怒らせることはなかったのではないか。コウイチが提案しなければ、逃げ出そうと考えることもなかったのでは無いか。大人しく嫁入りすれば良かったものを、コウイチが狂わせたのではないか。いいや、そうじゃない。​───────貴女が本当に思っていることは、ただ一つ。懺悔だ」


 それは、一瞬だけ見えた彼女の本心の声によく現れていた。

 いつの間にか曇り空が晴れ、暖かな太陽の光が彼女を照らしていた。


『あなたに、謝りたかった』


 怪異はおれを見つめながらそう言った。

 相手はおれじゃない、と跳ね除けるなんてことはせずに、おれは大人しく彼女の告白を受け入れる。


『私のせいで死なせてしまって、私の家庭の問題に巻き込んでしまってごめんなさい。いつだって中途半端な態度で、私は嫌な人だった。もっとはっきりあなたを突き放せば、あの時あなたが火の中に飛び込んでくる事もなかった。あなたが私を殺したんじゃない。私の弱さが、あなたを殺したの』


 まとわりついていた黒い影が剥がれ落ち、怪異の本当の姿が現れる。

 煤けていない着物に、きっちり整えられた髪で、歳若い少女は涙を流しながらおれを見ていた。

 これが、三滝坂の怪異の本質だった。


「別に、あんたは弱くなんかない。何十年もここから離れられなかったんだ、もう十分だろ。あんたは解放されていいはずだ」


 おれはおれとして返答した方が良いのか、それとも多加美里恵の望む相手として返答すべきか悩んだが、騙すような真似はできなかった。

 優しくないかもしれないが、それでも、彼女の贖罪を受け取る相手はおれではない。


「コウイチだって愛する奴のそばにいられたんなら満足だろうよ」


 おれの言葉に、彼女は涙をぽたりと落としながらも頷いてくれた。

 死の間際、二人は再会し終わりの時を迎えた。

 それがどんな様子であったか、おれたちは知らない。

 けれど必ずしも全てが悲劇的な終わり方であったとは言いきれないだろう。


「思いは憎しみに反転し、全てを憎悪が塗り替えていく。長きに渡るその苦しみについぞ終止符が打たれたんだよ。小鞠くんという存在のおかげでね」


 三滝坂で苦しみ続けていた彼女の停滞した時間は、ようやく動いた。

 そのきっかけは、たまたま似てるだけのおれを見つけたことだった。


「あんたは、ずっとあんた自身の思いに囚われてたってことか」


 里恵がおれを見つめる。


「あんたが本当に会いたがってた人じゃなくて悪かったな。おれはただの出版社の雑用係で、実業家でもなんでもない。おれのところに来たって意味は無いんだよ」


 だから、もうあんたがここにいる必要なんて無いんだ。


『私……』


 潤んだ瞳は、おれを見ているようで見ていない。

 それで良い。これでようやく彼女は彼女の本当にあるべきところへ行ける。

 今の彼女に、もう怪異の面影は無い。


「今のあんたも、なかなか良いんじゃねぇの」


 なんて、柄にもない台詞を言ってみたりして。

 里恵はそんなおれにふっと顔を綻ばせ、ゆっくりと姿を消していく。

 段々と薄れていく姿は、やがて溶けてなくなるように何も残さなかった。


「『少女の悲しみは消え、怪異はこの土地からようやく解き放たれる。罪なき少女の純粋な願い。それこそが三滝坂の怪異の真相であった』」


 椿さんが物語に幕を下ろす。

 多加美里恵を見届けた後、気がつけば、おれたちが立っているのは三滝坂の薄暗い深夜の住宅街だった。


 終わったな。

 怪異事件は終結し、もう三滝坂の怪異が現れることはない。

 あとは静かになったアパートに大人しく帰り、椿さんの原稿を待つのみだ。


「ところでさぁ。覚えているかい、小鞠くん。俺が渡した新聞記事」


 と、万事解決といった雰囲気の中に椿さんの気だるげな声が割り込んでくる。

 さっきまでの凛々しさはどこに捨ててしまったんだ。


「なんですか?覚えてるもなにも、あれは」


「隅々まで読んだ?上の記事も」


 関係ないだろ、と言うより先に椿さんからそんなことを尋ねられた。


「上のって、実業家がなんとかの……。あれは関係ないんじゃ」


「実業家高坂氏。庶民の出でありながら貿易商として成り上がり巨額の財を築いた人物」


 その成り上がりの男がなんだと言うのだ。

 あいにくおれは育った場所のおかげもあって、経済やら社会情勢やらに詳しくは無い。

 おれは大人しく椿さんの言葉の続きを待つ。


「輝かしい肩書きと裏腹に、穏やかな人柄で慈善事業……特に防火について莫大な資金を提供していることでも知られている。そんな彼が幼少期を過ごしたのは、そう。この三滝坂だ」


 椿さんが何を言いたいのか、おれはすぐに勘づいた。


「まさか」


「さて、ここでひとつ質問をしようか。高坂氏のフルネームはなんだと思う?」


 ここまで聞かれて気づかないほど察しの悪いおれではない。

 あの炎の中から彼だけは奇跡的に生還したというのは信じ難いことだが、それでもおれは口を開いた。


「高坂、コウイチ……?」


「そう。実業家高坂紘一氏だ。小鞠くんはその辺の情勢について興味は無いだろうから知らないかもと思ってたけど、やっぱりね。あの時、多加美家に飛び込んだ後、多加美里恵の最期を見届けて自分も死ぬつもりだったみたいなんだけど、助けが間に合って救出されたんだってさ」


 なんとまあ運がいいのか悪いのか。

 彼は生きていたのだ。

 おれが読まなかった新聞記事にそんなことが書いてあったなんて思いもよらなかった。

 実業家になり慈善事業にも資金提供しているというのは、多加美里恵のことが理由なのだろう。

 彼は多加美里恵のことを怨んでなどいない。

 むしろ、二人は互いに同じ思いを向けあっているのは明白だ。


「互いが互いを思うが故に、ってところかな。まったく、愛ってものは厄介だねぇ」


「多加美里恵にそのことを言わなくてよかったんですか」


「紘一くんのために黙っておいたんだよ。それに、今も彼の心は多加美里恵と共にある。彼の無念も彼女に持っていってもらえばいいのさ」


 そういうものなのだろうか。

 おれにはイマイチ、愛とか恋とか難しくて分からない。

 椿さんと話していると、おれには分からないことだらけだということを実感する。

 椿さんは恋や愛を理解しているんだろう。いつかおれにも分かる日が来るのかな、と思ったが、たぶんそれはありえない。

 おれがおれである限り。


「にしても、偶然似てるだけでこんなことになるとはな」


 アパートにだらだらと戻りながら、何となく呟く。

 たった数時間のことだろうけど、ずいぶん疲れてしまった。正直早く寝たい。


「世の中には同じ顔の人間が三人いるって言うからね。世間は狭いよ。もう一人に出会うのも案外すぐだったりして」


「これ以上面倒事があってたまるかよ。そんで椿さん、小説は書けそうなんですか」


「もちろん。楽しみに待っていておくれよ」


 ふふん、と椿さんは自信満々に胸を張っている。

 これで結局完成しませんでしたなあんてことになっちゃ困るから、徹底的に原稿回収に努めさせてもらうとするか。


「椿さん、もう夜中ですしおれの家で泊まって原稿書いてったらどうですか。おれの布団貸しますよ」


「そしたら君の寝る場所が無くなるでしょ。大丈夫、俺はこの辺りでお暇させてもらうよ。疑わなくてもちゃんと書くから安心して眠りなさいな」


 おれは主に精神的な面で疲れたのだが、椿さんはそんな素振りもなくぴんぴんしている。

 ま、確かにそれも一理あるな。

 おれの部屋は他人を泊まらせるにしては足りないものが多すぎた。

 椿さんは毎度毎度こんなことをしているのだろうか。

 これまで彼がどんな怪異に遭遇し、どのような結末を作り上げたのか、なんだか興味が湧いてきた。

 ひとつの事に強く興味を持つなんて。おれらしくないかもしれない。

 それでも今は、ひとまず椿さんの本の続きが読みたくなってきた。


「あ、そうだ。今回の件で小鞠くんが学んだことは?」


 別れ際、ふと椿さんが振り返ってそんなことを言う。

 おれは少し考えてから答えた。


「……引越し先は真面目に検討すべし」


「だね」


 この一言に尽きる。

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