草原が鳴いている
月這山中
天幕の隙間から光が差す。
俺は毛布にくるまったまま着替え、毛刈りの道具を持って、外へ出る。
「アグル、飯を食っていきな」
母の声。粥の椀をひったくる。
草原が鳴いている。
毛の重そうな羊たちが朝露の残る草を食んでいる。弟が鞭を振っている。
俺は近くに居た羊に取り付いて、毛を刈り始めた。足を持ち上げて抱きかかえるようにして、腹の毛も刈ってやる。反芻する口がもごもごと動いている。それにつられて腹が鳴ったので、俺は草の上に置いた粥の椀を口に当てる。
刈り取った毛を布袋に詰めて次に移る。刈られた羊は草を食む作業に戻る。
それを繰り返した。
十頭分の羊毛を抱えて戻ってくると、遠く丘の向こうから馬車が見えた。行商人をやっている叔父が来たのだ。羊毛を置いて俺はまた毛刈りに取り掛かった。
俺は毛を刈りながら、馬車が到着するのをドキドキしながら待っていた。
叔父が持ってきた品物の中に懐中時計があった。俺はそれを手に取る。真上からの太陽の光を反射して真鍮は輝く。
壊れているのか、ねじを巻いても動かない。
「アグルはいつか街に行くんだろう」
叔父は言った。俺は振り返る。
父は黙って腕を組んでいた。
「街に?」
「お前は賢いから、きっとどんな職にもつける」
草原が鳴いている。
羊の毛を刈るのは好きだ。馬と一緒に駆けるのも。叔父が持ってくる品物を見るのも。
それ以外の仕事があることを俺は知らない。
少し、怖い。
叔父は壊れた懐中時計を俺にくれた。粥を飲んで、近くの井戸で水を補給して、出発した。
全ての羊の毛を刈り終えた頃には、太陽が草原の向こうで赤く燃え始めた。
夕食をたいらげて、弟の身体を拭いてやった。家に入って、母が妹を抱えて乳をやっているのを眺めながら毛布にくるまった。
俺はいつか街で暮らすのだろうか。
昼間に聴いた叔父の言葉を思い出しながら、俺は天幕の隙間から見える星を数えていた。
馬車が近づいてくる。行商ではない。
俺は弟たちを抱えて隠れた。
男たちは馬上で銃剣を振っている。近くで戦争が起こっていることは叔父の話で知っていた。
こちらへ向かってくる。
父は、鉈を手に取った。
「やめておけよ、父さん」
「羊が狙われる」
奴らは羊など興味はない。
説得も空しく父は外へ出た。
金属が打ち鳴らされる音が続いて、それから父の呻き声がする。
俺は決心して、毛刈りに使った鎌を手に取った。
男たちは去った後だった。
あとには傷ついた父が倒れているだけだった。
翌日。
医者に見せても回復は見込めないということだった。
父の看病をしてやりながら、水を汲んできた母と話す。
「アグル。父さんがいよいよという時は、頼まれてくれるかい」
迂遠な言葉遣いだったが、なにをしたらいいかはわかっていた。
三日後、父が息をしなくなった。
僧侶が触れるなとは言ったが、俺は父の固い瞼を閉じさせて、冷たい手を取り、胸の前で組ませてやった。
父の身体を経文でくるみ、それからいっとう力の強い馬に乗せて、丘を上がり、山を登った。父の還る場所を探すために。
山の尾根に至ったところで、父をゆるく縛り付けていた紐がほどけた。
その場では止まらず、父の身体はゴロゴロと山を転げ落ちて行った。
「ここに決めたのだろう」
僧侶はそういってもう一度経を諳んじ、手を合わせた。
俺は街へはいかないだろう。
山の霧を吸い込みながらそう思っていた。
葬送を終えて、歯抜けの家族は日常へ戻る。
羊を追った。馬と一緒に駆けた。風に溶けていく父を感じた。
叔父がくれた懐中時計を月明かりにかざして、眠った。
俺は行かずとも、俺の子供が街へ行くかもしれない。
草原が鳴いている。
了
草原が鳴いている 月這山中 @mooncreeper
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