魔王女らしく人間族の姉を虐めていたら、なぜか幸せにしてしまった件

和泉鷹央

魔王女らしく……?


「エレン……もう少し他人に優しくすることを学んだほうがいい。俺は君との婚約破棄を父上に願い出ることを、ずっと考えていたんだ」

「はっ? えっ……オニキス殿下!? 何をおっしゃって……」


 夕方の下校時刻。

 王立学院の校門前で王家の馬車の窓が開き、ロイエンタール公女エレンはいきなり婚約破棄の予告をされ絶句した。

 ついさっき、無作法をした侍女を叱ったばかりだ。馬車から一部始終を見ていたオニキスは鷹のように鋭い眼差しで、エレンを睨みつけた。

 もう結果は明白。そんな雰囲気が漂ってくる。


「どうして、人に優しくできないんだ。婚約してから一年間、君のことをずっと見てきたが、もう限界だよ。さすが、魔王の孫――いや、魔王女、といった方が正しいか……」

「魔族は関係ありません! わたくしはただ、侍女を教育しようとしただけで――」


 エレンは必死に抗弁した。

 これは正しい行いだったはずだから。足元には肩を鞭打たれてしゃがみ込んだ侍女が一人いる。

 彼女はエレンの姉で、身分が低いために侍女を務めているアニスだ。


「侍女? 自分の姉を侍女にし、年上を教育しようとする君の言動が、俺の肌には合わないよ。エレン、残念だ」

「そんな……」

「君にもう話すことはない。あとは王室からの達しを待て」

「殿下!? まだ話は終わって――ッ」


 エレンが言い終えるのを待たず、オニキスは力強く一言「出せ!」と御者に命じた。

 窓をぴしゃりと閉めてしまった馬車は、エレンたちを置いてさっさと学院の門の外側に消えてしまった。

 後に残されたのは、エレンとアニス。そして、ことの成り行きを面白そうに見ていた遠巻きだけ。

 アニスがよろよろと立ち上がり、申し訳なさそうに頭を垂れた。

 その腕には、年老いた猫が抱かれている。 


「エレン、ごめんなさい。わたしのせいで――」

「‥‥‥いいのよ。お姉様のせいじゃないから。これで殿下はわたくしから興味を失うはずだから。屋敷に戻りましょう」


 屋敷、という単語にアニスは侍女の制服のスカートを両手で強く握りしめた。


「でも、お義母さまが、また――」

「お姉様が殿下の前に出ようとするから、仕方なく鞭打つ羽目になったんじゃない。猫なんか見捨てておけばいいのに」


 主人として家人である侍女を叱るのは当たり前のことだ。

 従者の教育ができていなければ、主人が笑い者になる。

 ひいては、ロイエンタール公爵家の恥ともなってしまう。

 エレンの行動は正しかったし、他人から文句を付けられる筋合いはない。

 王族の馬車の前方を横切ることは不敬に当たる。

 年老いた猫なんかが通れば馬の蹄鉄に蹴とばされるか、車輪に巻き込まれて酷い目にあうだろう。


「でも、助けないとこの子が死んじゃうかもしれないから」

「もう……叱るわたくしの身にもなってください」

「ごめんね、エレン」


 魔王を祖父に持ち、魔王女を母に持つ魔族とのクォーター。人間の王国フォルダーゲインでは異質な存在。ロイエンタール公爵家の次女、エレンにとって不幸は常に隣にある存在だ。

 この日もそうだった。


「‥‥‥肩は大丈夫なの、お姉様」

「なんとか。ちょっとだけ痛いけれど、光魔法で治療しておくから。鞭はちょっと痛かったな」

「仕方がないでしょ、止める間もなく行くのだから、ほかに方法がなかったの。闇魔法なんて学院では使えない――」


 アニスが公爵令嬢の侍女としてふさわしくない行動を取ろうとしたから、ちょっと強く叩いただけなのだ。

 ……乗馬用の鞭で。


 エレンが言葉を終えるのも待たずに、アニスは場を気にすることもなく、光魔法を発動させる。

 治癒魔法を使ったのだろう。首筋まで赤く腫れていたアニスの皮膚が、どんどんと癒されていく。

 金色の光と紫色の夕陽が混じり合い神秘的な光景になると、周囲はおおっと色めいた。

 闇魔法しか使えない自分にも、アニスのような光魔法が使えたら良いのに……ついそう思ってしまう。


「まあ、なんて美しい魔法の光。でも……侍女にしておくなんて、勿体ない」

「神が降臨されたような光景だわ。光魔法の使い手なんて王国でも数人しかいない名誉ある存在になってみたい」

「本当に素晴らしいわ。でも、神聖な光魔法を使える者を従者にするなんて……やっぱり、魔族の血筋はどこか穢れているのね」


 賞賛と心ない言葉が次々と、周囲の人の輪から生まれた。

 魔法にも外見にも優れた姉に対する嫉妬が生じる。

 それは醜い感情だと感じて、エレンはため息とともに切って捨てた。

  

******


「お前がしっかりしないから、エレンが不利益を被ったじゃないの! このグズ!」


 ばしゃっと水音がし、アニスは水浸しになる。

 腰まである赤毛が、水分を吸ってより深い紅へと染まった。

 公爵家の渡り廊下で、公爵夫人エレオノーラは憤慨していた。

 王家との血縁が叶いそうな矢先に、自分が愚鈍と忌み嫌うアニスによってエレンとオニキスの婚約が破談になりそうだからだ。


「申し訳ございません、お義母様。いえ、奥様」

「アニス、グズなお前は嫌いよ。自分が生きているだけで周りの迷惑になるっていう事がわからないのかしら? 本当に汚らしい!」

「……申し訳ございません、お義母様。私が愚鈍なせいで、皆様に迷惑をかけております……」


 義母、エレオノーラの叱責が通路に響き、その手が高く挙がる。

 甲高い声には嫌味と蔑みが含まれていて、聞くだけで気が滅入ると家人たちからは評判だ。

 ロイエンタール公爵家で父親の後妻に入った継母に、長女アニスはいつものように虐められていた。

 アニスは続いてやってくるだろう平手打ちを予測して、ぎゅっと硬く目をつぶってしまう。


「あら、お母様。また、アニスを教育していただいてましたのね!」

「ええそうよ、エレン。貴女の大事な婚約を、このグズが台無しにしようとしていたから、注意していたの」


 渡り廊下の突き当りから小走りにやってきたのは、エレンだ。肩で揃えた金髪が、ふわふわと可愛らしく宙に舞った。

 娘の愛らしい姿を見てエレオノーラは少しだけ気を良くしたのか、そっと手を下ろした。

 目を薄く開いて自分が助かったことを知ったアニスは、ほっと全身の硬直を解く。


「そんな身分の卑しい女に何を言っても通じませんわ、お母様。わたくしたちは魔王様に連なる高貴な身分。血統が違いましてよ」

「その通りよ、エレン。魔王女たる自覚が出てきたようで、お母様は嬉しいわ」

「お母様、わたくし偉大なる魔王陛下のことをもっと知りたいの。そんな女に構ってないで、魔族の言葉を教えてくださいな」

「まあ、まあ、エレンったら。そんなに魔族に興味を持ってくれて嬉しいわ。魔王様にお願いして語学の家庭教師を派遣していただかないと――」


 エレンのお願いに、エレオノーラの機嫌はあっという間に直ってしまう。

 あれもしよう、これもしようと言葉を続ける母の腕を抱いてエレンは広間へといざなう。

 去り際に、さりげなく後ろ手でさっさと行けと合図するのを、アニスは見逃さなかった。


「ありがとうね、エレン。駄目なお姉ちゃんでごめんなさい」


 アニスが夫人から叱責を受けると、他の公爵家の家人たちは逃げてしまう。みんな、エレオノーラの怒りが自分に飛び火して、巻き込まれるのを恐れている。


「アニス。また言われるがままになっていたのか? 君は仮にもこのロイエンタール公爵家の長女だというのに……あの女。今日こそは公爵様に進言を――」

「待って、オーキス! いいの」


 そんな中、ずぶ濡れのまま中庭伝いに自分の部屋に戻ろうとするアニスを呼び止める者がいた。騎士のオーキスだ。

 オーキスは他の家人からアニスが公爵夫人に虐められていると聞いて、急いでやってきたらしい。

 ともに走ってきたまだ若い少年の従僕が、主人に大きなタオルを手渡した。

 彼はそれをアニスの頭へ優しくかけてやる。


「心の限界はいつか来るぞ、アニス。分かっているだろう?」

「いいの……お願い。お父様には報告しないで。これはわたしのミスだから。仕方ないの。グズでドジなわたしが駄目なだけ。お父様に心配をかけたくないの」


 オーキスは唇を強く噛んだ。

 公爵はここ数年、病に臥せっていて家族と臣下がともに大広間で取る湯食の席に顔を出すことは少ない。

 それほどの重病だった。


「君はいつもそうだ。誰かのために何かを犠牲にして、自分を傷つける。今回のことも噂は聞いている。猫を救ったために殿下の機嫌を損ねたとか」

「殿下はアニスに怒られたの。あの子がわたしを乗馬の鞭で叩いたから」

「従者にする仕打ちじゃない。あの母娘ともども、おかしいんだ……魔族の血筋だからとは言いたくないが」


 魔族。それも魔王の血筋。冷酷の代名詞。どれを取っても悪い印象しか残らない。

 自分の仕える主人の妻が、そんな存在であることに真面目なオーキスは腹立たしいようだった。


「そんな言いかたするもんじゃないわ、優しい貴方らしくない」

「俺らしい、なんてどうでもいい。俺は君が心配なんだ、アニス」

 そこでオーキスの声は小さくなった。

 「俺がここから連れ出してやれたら」と距離が近いアニスにだけ聞こえるように、彼は言った。

 従僕の少年は聞こえなかったふりをして、後へと下がってしまう。

 いつの間にか、渡り廊下にはいるのは三人だけになっていた。


「身分が違うから――ごめんなさい」

「君は公女だ、アニス。公爵家の長女じゃないか。俺は男爵家の三男――君を迎えるには爵位が足りない。すまない」

「いいの。わたしの生き方を決めるのはお義母様だから、仕方ないわよ。エレンの侍女をしながら、こうして食べていけるのだもの。感謝しなければ罰が当たるわ」

「この環境下でそうやって微笑んでいられる君は偉大なのか」

「多分愚かなのよ。この家を出てしまったら行くあてがないから、追い出されないように生きていくしかない。そうでしょ?」


 今度はアニスの声が小さくなった。

 「あなたが妻に迎えてくれるって言うなら話は違うけれど」と、申し訳なさそうな顔をする。

 望むには過ぎた願いだと、アニスには理解できていた。

 でもこの時のオーキスはいつもと違った。普段ならこんな意地悪を言えば「すまない」と返してくるだけなのに。

 この日の彼は心の中で重い決断をしているように、アニスには見えた。


「君がそう望むなら、何もかも捨ててもいい」

「まさか! 冗談よ、オーキス。ごめんなさい……もう戻るわ」


 あらかた濡れた髪を拭き終えたタオルを手にすると、アニスはかすかに微笑んでから自室へと歩き出す。

 その背中に向かい、オーキスは「俺は本気だ」と誰にも聞こえないように小さくつぶやいた。

 2人のやり取りの一部始終を聞いていた従僕の少年は、やれやれと肩をすくめて首をふった。


「オーキス様がアニス様と恋仲だってこと、もうみんな知ってますよ? どうして早く連れ出して差し上げないんですか」

「アレン、余計なこと言うな。俺にだって計画があるんだ」

「そうですか」


 固めた拳で軽く頭を小突かれたアレンと呼ばれた従僕は、顔をしかめながら歩き出した主人の後を追った。


******


「エレン。あなたのデビュタントはもうすぐ。ドレスにしてもアクセサリーにしても用意は整ってる。あとはあなたの気構えだけよ。お母様の夢を叶えて頂戴!」

「分かっているわ、お母様。魔王国でお母様がしたような華やかなデビューを果たして見せるから」

「そうね、この王国でもそうなるようにしたいと私は思っていたけど、でもできなかった」

「ミッチェル様がいらしたから……?」


 普段、家人が見ている前では短気で金切り声を張り上げているエレオノーラだが、実の娘のことになると、まるで別人のようだ。

 たった一人の娘が社交界デビューを果たすその時を、彼女は夢にまで見ていた。


 魔王を父親に持つエレオノーラは、魔族の国で社交界デビューを果たしたせいか、人間の国であるこの王国の社交界には今一つ、馴染みが薄い。

 魔王女という肩書きは様々な有力貴族が催す夜会で威力を発揮したが、心の奥底から信頼できる友人を作ることはかなわなかった。


 エレオノーラにとっての友人はたった一人だけ。

 途中入学した王立学院の同級生にして、公爵家の第二夫人になったミッチェルだけだ。

 アニスの母親にして唯一心を通わすことができた友は、すでに故人となっていた。


「アニスと違ってミッチェルは美しかった。内面も心も強くて魔法の力もとても強かった。魔族と人間のハーフだったお母様に、あの子は優しくしてくれたの」


 過去を思い出したのだろう、エレオノーラは懐かしそうな顔をする。

 母親を見てアニスはふと、なぜだろうと考えた。


「お母様。そんなにミッチェル様のことが大好きでいらしたのに、どうしてお姉様にはあんな仕打ちをなさるの?」

「あの子は王国でも稀有な存在よ。魔族にとって天敵ともいえる光魔法の使い手だもの、甘い顔をしていたらいつかはあなたが、この国を追われるかもしれないでしょう? 反抗の芽は早いうちに摘み取らなければならないの」

「だったら――。我が家で侍女なんてさせていないで、魔王様の下にでも送ればいいのに……。お姉様が可哀想」


 娘は母親の仕打ちをあんまりだと責めた。

 子供が自分の考えを理解してくれていると思っていたエレオノーラは、ショックを受けてしまう。

 早く邪魔なアニスをどこかにやってしまわなければ――。


「あなたのその案、いいかもしれないわね」

「え?」


 エレンの輝ける未来を確実なものとするために、エレオノーラはアニスを排除することを決めた。


******


 デビュタント用の衣装合わせが無事に終わり、エレオノーラはエレンの美しさに満足そうな顔をして、夜会に出て行った。

 公爵が病床に臥せってからというもの、母親の夜遊びは止むことを知らない。


「今夜もまた出て行かれてしまわれたわ。夕食ぐらい一緒にしてくれてもいいのに、お母様ったら」


 その夜、エレンは夕食をあまり食べなかった。

 残りは自室で食べるからといい、料理を小分けにまとめさせたものを部屋に運ばれると、就寝の準備を早々に終えて侍女たちを解散させてしまった。


 自分以外、部屋に誰もいないことを確認してから、闇魔法による転移魔法を使ってやってきたのは、騎士たちの宿舎の一角だ。

 そこには離れがあり、庭師の親子が住むことを許されてた。


「奥様がとんでもないことを考えているって?」


 オーキスの従僕にして、庭師の息子アレンはエレンが運んできた夕食の残りを口にしながら、質問をする。

 主人のオーキスとアニスがそうであるように、歳の近いこの二人もまた、人には言えない恋をしていた。


「そうなのよ、アレン。早くお姉様をどこかに逃がさないと、とんでもないことになるわ。魔王国に送られたら、冷酷無比と噂に名高いおじい様のことだもの。生涯にわたって幽閉ならまだいい方……、ねえ、どうしようアレン?」

「どうしようって言われてもなあ……。オーキス様はなんとかして結婚したいって言ってるけど、アニス様は身分を盾に逃げてるような感じもあるし。本当に恋人なのかな、あの二人って」


 十五歳。アレンはよくわからないと首を傾げる。

 でも自分に好意を持ってくれている女の子の心配に、知らん顔はできない。


「あのお二人は多分、その、うん……わたくしは、その――殿下に婚約破棄をされて

ちょっと嬉しくて」

「は? それ喜んだらダメなやつだろ」

「だって! あなたがいてくれる――でしょ?」

「今俺たちの話じゃないだろ」

「そう――ね。そう、お姉様とオーキスのことだった」


 でもわたくし、あなたの気持ちも知りたい、と話題を方向修正したアレンに対して、エレンはむっとした顔をする。

 好きなら好きだと言え。エレンの目は力強く求めていた。


「そうそう、それな。……俺も、本心は嬉しいよ。でも喜べないだろ、公爵家としては。特に奥様はお怒りだろうし」

「お母様からは特にお叱りは受けていないわ。お姉様がいつものようにひどい目にあったぐらいで」

「肩を鞭打ったらしいな?」

「それも仕方なく――あなたもわたくしのことを責めるの?」

「いや、責めない。どうせそれぐらいしなきゃ止められない勢いだったんだろうから、アニス様は。走り出した馬車の前に飛び出そうとする野良猫を助けるなんて、無茶だろ」

「だから仕方なく……婉曲に責めて楽しんでるでしょ」

「いやそんなことはない。ところでこれ美味しいな? ああ、違った。どうやって助けるつもりなんだ? 計画ぐらいはあるんだろう」

「まあ、一応はありますわ。でも、できるかどうか不安です」


 アレンは雉の胸肉をパイ包み焼きにしたものを頬張りながらふうん?、と不思議そうな顔をする。


「どういう意味で不安なんだ?」

「この計画にはある方の賛同が必要なの。でも失敗したらあなたを怒らせるかもしれなくて。それが不安なの」

「俺が怒る? どうして? 誰に相談しようとしてるんだよ」


 そこまで言って、アレンはあっ、と気づいてしまう。

 エレンが許可を得て自分を怒らせるような存在がいるとすると1人しかいない。


「それはその」

「殿下、か? 嫌われてる相手にどんな提案を持ちかける気なんだ。下手したらエレンのほうが不敬罪で酷い目に遭うことになるぞ」

「話しても……怒りません?」

「内容による。聞くだけ聞くよ」


 いつもは強気でわがままな公爵令嬢が、今だけは上目遣いで身分だってはるかに格下の自分に気遣いをしてくれている。

 公爵夫人にバレたら俺の方が不敬罪で処罰されそうだ……、と思いながらアレンはゆっくりと頷いた。


******


「まあ、アニス! またやったのね、本当に愚かな子! どうしてもっと仕事に励めないのかしら」


 数日後、エレンが学院に行っている間に事件は起きた。

 今回は、通路の壁上の棚に飾ってあった美術品を入れ替えようとして、しくじってしまった。

 作業する場所が高い位置にあるため、使っていた脚立の足を誰かが蹴とばしたのだ。


 この作業は侍女たちが数人でやっていて、上を見上げていたアニスの隙を突いてのことだった。

 アニスは作業していた棚ごと、床に転落してしまった。幸いなことに大きなけがはなかったものの、手首を軽くひねってしまい、痛みがある。


 さらに廊下に活けていた花瓶の水を頭から被ってしまい、びしょ濡れになってしまった。 

 アニスは18歳。

 本当ならばすでに社交界でデビュタントを果たし、親の決めた婚約者との結婚を心待ちにしているような年齢だ。


 しかし、前妻でありアニスの母親であるニーアが死んでからというもの、公爵は心の病にかかってしまい、遠く東の辺境にある公爵領で療養に入っている。

 いま公爵家の経営はエレオノーラに任されていて、アニスをどう処遇するかも継母次第だった。


「お前を修行に出す必要がありそうね、アニス」

「え? 奥様、それはどういう――?」


 エレオノーラの頬に悪辣な笑みが浮かび、くくくっと闇色の含み笑いが口から洩れだした。

 アニスは背筋に嫌な悪寒が走るのを感じて、肩を震わせる。


「魔王様の元で侍女としての研修に行き良き家人となれるように励みなさい、アニス。もっとも、そのままお前の素行が不適格なら、戻って来なくても宜しくてよ!」

「まっ、魔王城での――研修!? 戻って来なくていいなんて、そんな! 酷いです、第一、お父様がそんなことをお許しになるはずが……」


 喉奥から震わせた悲鳴を上げて、アニスは抗弁する。

 まがりなりにもアニスは公爵令嬢だ。


 母親の身分が貴族ではなく低かったために侍女の仕事に甘んじているが、本来ならばエレンよりも先にデビュタントを迎え、公爵家と家柄や身分が釣り合う相手と婚約を結んでいるはずなのだ。


 それが叶わないのは全て、エレオノーラの横槍によるものだ。

 アニスとしては、長女として父親であるロイエンタール公爵の望むように、公爵家を盛り立てて行きたいところだ。


 しかし、次女エレンの出世を願うエレオノーラは、アニスの成功を許さない。


「心配しなくても、公爵閣下のお許しならとうの昔に得ているわ。お前が気に病むことは何もないの、アニス」

「本当にお父様が許可を出されたのですか!」


 嘘とも真ともつかないエレオノーラの発言に、いつもと違ってアニスは噛み付いていた。

 アニスの知る父親は、長女が次女の使用人として仕えることや、侍女を教育する場として、魔王城などを選んだりは決してしないからだ。


 エレオノーラを妻に迎えた公爵だが、彼はどちらかといえば魔王よりも王国に強い忠誠を誓う人間として知られている。

 自分を教育させるのなら、王宮とか貴族の礼儀作法を教える家柄として高名なデトル伯爵家などに通わせることだろう。


 彼の意志だと偽る継母に、つい怒りを覚えてしまうアニスだった。


「嘘だと思うのならば公爵閣下に聞いてみればいいわ。滅多に意識の戻らない旦那様と意志の疎通ができるというのならば、ね? でも私には可能なの。闇魔法が使えるから」

「精神系魔法……」

「そうね。言葉が話せない動植物や魔獣、意志の疎通が難しい相手とも、闇魔法を使えば可能になるのよ。光魔法しか使えないあなたには分からないかもしれないけど、残念ね」

「そんなことを言って――もしかして、お父様の病状が一向に回復しないのも闇魔法の……!?」


 そこまで言って、アニスはうつむいていた顔をはっ、とあげた。

 まさか、有り得ない。エレオノーラは曲がりなりにも公爵夫人だ。でも、闇魔法にはそういった使い方もあると聞く――。


 しかし、王国の社交界で異質な人種ながらも華やかな舞台をうまく泳ぎ切ってきたエレオノーラにとって、アニスがした言及程度では心は騒がない。

 彼女は余裕の表情で否定してのけた。


「あら、それは失礼ね。とても貴族令嬢とは思えない発言だわ。闇魔法が関わっているというのならあなたの光魔法で打ち消せばいいじゃない。神聖魔法でも回復魔法でも。あなたが無理だというのならば、神殿から聖女様を迎えて治癒を施していただいても問題ありませんわ。でも、旦那様の病状は回復しない――」

「なぜそう言えるのですか! あなただって、自分の夫には元気になってもらいたいはず!」


 アニスは落ち込んでいた心を奮い立たせ、公爵夫人に食ってかかる。

 これまで見せたことのないグズでドジな侍女が露わにした怒りに、エレオノーラはちょっとだけ驚いた。


「光魔法による、いいえ……公爵閣下はこの国の王族に連なるお方。宮廷治癒師による治療だって、ありとあらゆる属性の回復魔法や治癒魔法を使っても効果がないの。それは闇魔法でも同じこと」

「あ‥‥‥っ」


 アニスは自らの勘違いを恥じた。

 エレオノーラは公爵の命を短くしようとしていたのではない。

 彼女が使える闇魔法を使ってでも、王国で忌み嫌われている闇魔法を使ってでも、公爵をなんとか助けようとしていたのだと、気づいたからだ。

 今の発言が真実ならばの話だけれども。


「理解したのなら魔王様のもとで、公爵家にふさわしい礼儀作法を学んでいらっしゃい。その方があなたのためでもある」

「わたしの――ため?」

「そう、あなたのため。でもそれがどんな意味かは知る必要はない。なぜならあなたは、エレンの侍女。単なる召使いだから、いいわね?」

「‥‥‥はい、公爵夫人」


 召使い。

 貴族令嬢でも貴族でもなく召使い。

 表向きは公爵家の人間ということになっているけれど、その実、裏側では一生涯を侍女として過ごせ。そう、エレオノーラは語っていた。


 この屋敷から逃げなければ、自分の人生に自由はない。

 家を捨てて、家族を捨てて、それでも――?

 従順な召使いを装いながら、アニスの心は激しく揺れていた。


 こんな時、彼にいて欲しいとアニスは思った。

 自分のために公爵夫人に意見してやると怒ってくれた、オーキスの姿が脳裏に焼き付いて離れなかった。


******


「俺との婚約を正式に破棄したいと?」

「はい、殿下。わたくしは殿下がおっしゃる通り、他人に対して優しくできない人間です。そのことが身にしみてよくわかりました。でも、わたくしから公爵家を通じて王家にお願いをしたのでは、殿下の体面が汚れます」

「なるほど、他人に対して優しくできない君でも、俺に対しては気を回すことができると」

「どのようにとっていただいても結構です。1年間とはいえ、御側に置いて婚約者として愛でていただきました。その御恩は忘れていないつもりです」


 昼下がりの学院でオニキスと2人きりの時間を設けることができたエレンは、正式な婚約破棄を依頼する。

 王家と公爵家では身分が違う。

 下の者が上の者をつかまえて契約の破棄を命じることは正しくないことだ。

 だから、王家を通して公爵家に婚約破棄を命じてほしいとエレンは願い出たのだった。


「誰か別人の発言を聞いているように錯覚してしまうな。わかった」

「オニキス殿下、ありがとうございます!」

「しかし、家同士の契約を破談にするのは難しいかもしれない」

「え……」

「公爵家にはもう一人女性がいたはずだ」


 君の侍女だったか、とオニキスは今日はエレンのそばにいないアニスを思い出していた。

 稀有な光魔法を使える存在。

 魔族の血筋であるエレンを王家に入れるよりも、王家の血筋に連なるアニスを手にした方が、王国の未来も明るいだろうと彼は打算的に考えた。


 もっとも、自分が庶子の子であるアニスと結婚するなんてことはありえない。

 王位継承権を持つ、遠い親類の誰かを用意すると説得すれば、父王も納得するだろうと思ったのだ。


「姉を利用して自分は自由になるか。いかにも魔王の孫娘らしい卑怯なやりかただな、エレン。だが、俺に恩を感じているというその言葉を、今回は買ってやろう。恩に着るがいい」

「ありがとうございます、殿下。アニス—―いいえ、御姉様は身分こそ低いですが、外見も美しく魔力も人並み外れて強い女性ですから。きっと殿下の御心に叶うと思いますわ」

「お世辞はどうでもいいよ。あとは王室の官吏が手筈を整えるだろう。君の役目はここで終わりだ。もう話しかけてこないように」

「かしこまりました」


 美しく礼をして、アニスはその場から去った。

 母親の策略から姉を守るためにはこの方法が一番いいのだ。

 王室から遣いがくれば、エレオノーラだって文句は言えないだろう。

 いつもいじめたり、時には鞭を打つことだってあった妹に対しても、アニスは姉として優しさをくれた。


 母親を裏切るような真似をして申し訳ないと思うけれども、多分、エレオノーラは許してくれる。

 本当の母娘だから。

 全ては姉を守るために。

 エレンは自分の策謀が上手く成功することを祈るのだった。


******


「‥‥‥それで、姉を王家に売り飛ばしたと」

「売り飛ばしたなんて、ひどい! わたくしはお姉様のために――傍から見ればそう見えるかもしれないけれど」

「見えるな。十分に見える。これでまた君の悪評が一つ増えるわけだ」

「別にいいわ。それであなたに嫌われないなら」

「そういうところが卑怯なんだよなー。惚れた弱みっていうの? エレン、俺はお前のことを絶対裏切れないよ」

「男の人の言う絶対って言葉は信じちゃダメってお母様は言ってたけど。アレンの絶対は今のところ信じていいかもしれないわね」

「裏切らないように努力する……」


 数日後の夜。

 またしてもいつものように夕食の残りをアレンの部屋に持ち込んだエレンは、彼の豪快な食べっぷりに満足していた。


 騎士の従僕として過ごす日々はきつく、庭師として与えられる食事だけでは到底、追いつかない。

 アレンは育ち盛りの男子で、まだまだ足りないのだ。

 いつからこうやって愛しい彼のもとに通うようになったのだろう。


 多分、あの人との婚約が決まった頃から。

 オニキスとの婚約が決まり、自らに厳しく他人にも優しくない殿下のことを好きになれないと、公爵家の家人の中で数少ない同世代だったアレンに愚痴ったのが始まりだった。


「考えてみればわたくし、愛する人と愛情を持てない方と、2人の男性の間を行き来していたのね」

「俺だって嫉妬ぐらいするんだよ? もっとも、この関係が知れたら俺は多分生きていないけどね」

「どうかしら」


 エレンは知っている。母親が、娘と庭師の息子が夜な夜なこうして会っていることを知っていながら、干渉してこないことを。

 公爵家に闇魔法の使い手は2人しかいない。エレンとエレオノーラだ。

 闇魔法の使い手であるエレオノーラにとって、屋敷の中で闇魔法が使われれば何が起こったかを察するのは遅くない。


 それでも何も言わないのは、エレンのことを信じているわけではなく、最後の一線を踏み越えないようにエレオノーラが闇魔法を使って、エレンに呪いのような束縛をかけているからだった。

 キスくらいは許される。

 一緒に寝ても特に何か起こるということはない。

 でも情欲を催して行為に発展しようとしたら――エレンはとてつもない吐き気を催して、意識を失いそうになるくらいの頭痛に襲われる。


 一度そういうことがあって、これは呪いなのだと心配するアレンに説明したことがある。

 それ以来、彼とこうして一緒の時間を過ごすことはあってもアレンはキスはおろか、手を繋ごうともしない。

 でも、大好きだとか。触れないけど愛してる、とか。

 十五歳なりに愛情を言葉や表情で雰囲気で伝えてくれる彼のことが、エレンは大好きだし、誰よりも信頼を置いている。


「それで?」

「それでって?」

「だからアニス様に話しはしたんだろう?」

「もちろんお姉さまに話をしたわ。お母様にも話をした」

「で、どうなった?」


 それが、とエレンの表情は曇ってしまう。

 姉は妹の幸せを奪うことはできないと、自ら魔王城で教育を受けたいとエレオノーラに申し出たからだ。


 エレオノーラはエレオノーラで、激しく怒り動揺し生まれて初めて、娘を平手打ちにした。

 自分の夢がこんなにもひどい形で潰されるとは思ってなかったらしい。

 その衝撃からエレオノーラが立ち直るには、まだ少し時間がかかりそう。


 母親が正常に戻るまでの間にどうにかして姉を無事な土地に逃がしてやりたいと、エレンは思ったのだが――。


「それが?」

「なんだか変なことになっちゃって」

「なんとなくわかるよ。その変なこと。オーキス様が、新しい婚約者になったんだろう」

「どうしてあなたが知っていらっしゃるの!?」

「夕方、オーキス様が驚いた顔して俺に言ったからさ」


 オーキスの実家、レダナン男爵家は家格こそ低いものの初代までたどれば、数百年前の国王が作った数十人の子供の一人から、発した家柄だ。

 王位継承権からは程遠いものの、王族の末端にあるといっても過言ではない。


 あまりにも遠すぎて今更血縁関係があるのかどうかすらもわからないそんな間柄だが、どうやらオニキス殿下は粋な計らいをしたようだった。


「呆れた。知っていたならさっさと教えてくれればいいのに」

「こういった秘密は黙っていた方がいいのさ。そうすれば普段見れないエレンの唖然とした顔が拝めるから。その顔も好きだよ」

「あなたを叱る気になれないのはどうしてかしら、酷い人」

「ごめんな。俺は本当に庶民で身分の家柄も何にも持ってないけど――。騎士になって……いや、どうしたらいいかな」

「将来のことを考えてくださるのは嬉しいけれど、あなたがどこかで頑張ってせめて、政府高官に上り詰めるとかしてくださらないと――わたくしたちは、難しいかもしれないわね」

「俺がアニス様の代わりに魔王様の元に行って修行してくるっていうのは?」

「はあ? おじい様が――許可してくださるかしら。でも誰かを行かせないと、お母様の顔に泥を塗ることになるわね……。本当に頑張れるの?」

「やってみないとなー」


 社交界にデビューした後俺のことを待っていてくれるなら、とアレンは言葉を続ける。

 オニキス殿下との婚約破棄は、エレンの株を大暴落させるだろう。

 そうなったらどんなに派手なデビュタントを飾ったところで、新しい婚約者が見つかる望みは薄い。


「公爵家の後継者にはオーキス様がなられるだろうし……。無理やりどこかに嫁がされない限りは、待っていられるかもしれませんわね」

「まあそれはちょっと考えるよ。オーキス様がいい案を出してくださるかもしれないし」

「あなたの主人はオーキス様だから。よく相談してね」

「魔族の騎士かー……。だいぶ方向性が変わるな」

「期待しないで待ってる」

「そこは期待してるって言ってくれよ。頑張ろうって気になれるから」

「調子に乗せたら結婚した後に命令されそうで嫌ですもの」

「そんな未来まで考えられる君のことが、俺は恐ろしいよ」


 アレンはエレンの尻に敷かれて身動きが取れない自分の将来像を思い浮かべる。

 でもそれは嫌なものではなかった。


 彼が騎士見習いとして、魔王城に修行に行き帰国するのはこれから三年後のことになる。

 その時、見事に成長したアレンを見てエレンは思うのだった。

 みんなから魔王女として忌み嫌われていた自分が、こんな幸せに恵まれてよかったものかと。


 そして、公爵夫人になったアニスと、新たにロイエンタール公爵となったオーキス。

 2人は、結婚するまで最大の障害となるはずのエレオノーラとなんとかうまくやっている。


 アニスの光魔法とエレオノーラの闇魔法。

 両方による治療が功を奏して、公爵は意識を取り戻した。


 彼がエレオノーラと会話することができるようになり、元公爵夫人は最愛の人を再び手にしたことで、かなり柔らかくなったのだ。


 エレンは魔王女らしく人間族の姉を虐めていたら、なぜか幸せにしてしまったのだった。

  

 


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魔王女らしく人間族の姉を虐めていたら、なぜか幸せにしてしまった件 和泉鷹央 @merouitadori

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