3.アンシーに向けた救済という失敗
最終二話で、アンシーはウテナを剣で刺し貫き「あなたは私が好きだったころのディオスに似ている。でも、あなたは私の王子様になれない」と述べ、暁生に従うことを選ぶ。
ウテナの前提としていた共依存的な関係は既に破綻していたが、それは、アンシーを守る王子様をあきらめた暁生の存在が既に示唆していた。ウテナの「王子様ごっこ」では、アンシーは救われないのだ。
王子様による「革命」は既にあらかじめ失敗している。子供たちは私たち全てを含みこんで社会を統治する「大きな物語」や、目標に向かって前進あるいは漸進していく「歴史の精神」のようなものは共有していない。私たち全てを救うメシア=「王子様」は失敗の運命にある。
私たちは、私たち自身を束縛する神の律法のようなものに縛られていない。故に、神の代弁者や神授によって成立する正統性を受け入れることはできない。それらが成立するのは、単に超越的な何者かを敢えて措定している小さな共依存の世界だけである。
アンシーはウテナや他の誰かとの二者関係の中では薔薇の花嫁として王子様を受け入れられる。しかし、二人の関係が壊れる出来事が発生した時には「王子様」としてのウテナを受け入れることはできなくなってしまう。
それは、この小さい範囲の共依存の物語の外部、つまり社会である。社会はあまりにも広い。
雛鳥が破るべき殻であるこの共依存の世界は、ウテナとアンシーの「王子様とお姫様」=「守る/守られる」=「支配/従属」の物語を中心に回る。アンシーの尊厳を守るために戦おうとする一方で、ウテナはアンシーを守ると称して、彼女の胸から剣を引き抜く。ここには、一つの所有、被所有という関係が現れているのだ。所有者であるウテナに従うアンシーという関係である。しかし、その外側にはもっと多様な物語が待ち受けている。
故に、暁生はウテナよりもアンシーにとって近しい存在たりえるのである。しかし、それは、もう一つの共依存の関係である。「王子様とお姫様」という一つの幻想物語の中で互いに互いをあるがままに認めようとするウテナとアンシーの関係のネガティブなもう一つの現れである。暁生とアンシーの関係とは要するに、「王子様でないこととお姫様でないこと」の選択によって成り立っている。裏返された関係もまた、共犯的な所有者と被所有者の関係に似る。暁生はアンシーを使役することによって「革命」と呼ばれる儀式を遂行できるし、それを遂行することによって「革命」の失敗を繰り返すことができる、即ち、「王子様でないこと」を証明できる。逆にアンシーは暁生によって使役されることによって同様に失敗を経た「お姫様でない」ことの確認を果たすのだ。
薔薇の花嫁につき従うはずの存在であるアンシーが、ウテナではなく暁生を選ぶというルール違反がそこにはある。このルール違反の正体こそ、そして、暁生の誤りの全てが「慰め」という言葉に集約される。つまるところは、「王子様」の物語からの逃避に他ならないのだ。逃避によって成り立つ従属関係はあっさりと「主人と奴隷の弁証法」に陥る。奴隷は主人なしに奴隷ではないが、生きる手段を独占する主人の前で奴隷とならざるを得ない。奴隷は主人にかしずき、日々の生活を調えることで主人の生活の手段になるが、故にこそ、奴隷が奴隷であることをやめれば主人は生きることができなくなる。こうして主人と奴隷の関係は逆転する。従属するアンシーがいなくなれば、暁生の「成熟」への志向は破綻に陥る。つまるところ「王子様ではない」ことによる「成熟」は同様に「お姫様ではない」ことをもとにして従属する存在なしには成立しないのである。
それはどこまでいったところで「慰め」をもとにした「お姫様ではない」者の支配、「王子様ごっこ」でしかない。そのことに気付きアンシーは暁生を拒絶する。旅装に身を纏うアンシーによって物語は終わる。それは、ウテナを探す物語の始まりでもある。
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