2.幻惑する社会、共依存か支配への革命か
そもそも、本作では社会はどのように表現されているのか。そのヒントとなるのが、理事長室にあるプラネタリウムである。
プラネタリウムを、理事長鳳暁生は「永遠のものや奇跡の力が存在していてほしいという願望をもつものに、この装置はおとぎ話の幻を見せてくれるのだ」と説明する。プラネタリウムは美しい夜空の幻を見せる。社会も同様で、あたかも社会が美しいものであるかのように立ち現れるのだ。例えば、資本主義が私たち一人一人の望みを叶えてくれるように、あるいは、共産主義が歴史の先端であるように。社会は私たちを眩暈させて、自らの正統性を主張する。
社会を把握できない子供たちは、無邪気に幻灯機の見せる光と影に魅せられていく。彼女たちが「革命」という言葉を発するとき、この「大きな物語を映しだす装置」によって、その力が与えられているかのような演出が行われる。
手にすれば露と消える幻の力によって踊る彼女たちは、美しい社会と、そこで理想的な姿である成熟という個人の物語に絡めとられ、自分たちの目にできる環境を自分の都合のよい居心地の良い場所へと変えることにしか関心がない。
ウテナは、アンシーを守ることによって王子様になる。その時に、「世界を革命する力を」必要とする。王子様を目指した少女が、王子様になるために再び「大きな物語」のイデオロギーの力を纏うためにアンシーを求める。それは、協力関係というよりも、共依存的な関係がそこには前提とされている。アンシーを弱い存在としつつも、その弱い存在があることでウテナという強い存在が許されるのである。それを単純に美しいと述べてしまうのは、社会を美しいとする幻惑に囚われることである。
作中で、最も高い場所に存在しているのは理事長室である。暁生は、それを認めたくない者がプラネタリウムの映し出す空にさかさまに映る城に憧れる、と、ウテナ達を否定する。
そう宣告することで、鳳は自分自身がもはやウテナの「王子様」ではないことをも宣言する。
しかし、そのように語る暁生の目指すものもまた「革命」である。
暁生とは何者なのか。決闘の資格証明とも言える指輪、薔薇の刻印を授けて回る男であり、世界の果て、ウテナの王子様であり、かつて王子様を目指した男。
暁生の、王子様を諦めた王子様の成熟は優しい。彼が「王子様」となるとき、その敵対者であり道具でもあるウテナに、彼は「慰め」を与えようとする。もう、諦めていい、王子様にならなくて良い、と。
だが、それは、力を持たぬ者が誰かに依存せざるを得ないことを世界の理とし、力を持つ者が力を持たぬ者を支配する、その下での「慰め」でしかないのである。
ウテナの共依存と暁生の優しさという支配−服従関係、誰かを支配することを王子様とすること、つまり成熟とするモチーフは、いずれも期待のできない道である。
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