1.世界と社会、そして、子供たち

 「卵の殻を破らねば、雛鳥は生まれずに死んでいく」、「卵は我らだ」、「卵は世界だ」、「世界の殻を破らねば我らは生まれずに死んでいく」、「世界の殻を破壊せよ」、「世界を革命するために」これは『ウテナ』における鳳学園生徒会の言葉である。

 ここには、自分たちの環境をとらえるための枠組みが「世界と個人しかない」という感覚が現れている。作中から離れて、私たちの現実には、個人の集合である社会というものがある。そもそも革命とは洋の東西を問わず社会の変革を指すものであったはずだ。

 世界と社会を同義に捉えることは言葉を疎かにするものでしかない。にもかかわらず、世界という言葉を用いることには演出上の意図があるのだ。

 本作について、現代の子どもたちが個人的な水準と世界のような大きな水準でしかものを見ることができず、社会という間にあるものが抜け落ちている、といった幾原監督の意図を指摘されることがある。

 生徒会の者たちはまさに、この現代の子供たちなのである。


 作品の各小話は、告解室、決闘といった「一対一の人間関係」という二者関係、様々な恋愛模様という「一対一の人間関係とそれを阻害する存在」という二者関係に第三項を加えた人間関係を中心に構成される。

 あらゆる場面の中で、人間が小さな人間関係の中で生み出され、それが集団へと昇華されない形でコントロールされて表現されている。

 そして、登場人物である子供たちは「独立した個人」といえるものではなく、他の登場人物との間に例えば依存的な関係性を築いている。


 その一方で、登場人物を映さない影絵での多声的な発話という演出が行われている。これは背景へと埋没してしまった社会である。影絵の発言は「かしらかしらご存じかしら」と噂話を行う。噂話は、集団のそこかしこで、さまざまな主体が同じような事柄について、思い思いにしゃべって構築されていくものである。噂話は、社会の言説を鸚鵡のように繰り返すことであると同時に、社会の言説を構築するプロセスに参与しているという側面もある。

 人間は意識できるかどうかは別問題として、社会という環境で生きざるを得ない動物である。噂話に関与するのは、社会という環境に順応する行為である。様々な社会的な機制の中で私たちは生きざるを得ない。それと同時に、環境を構築しているパズルの一つであるために、その環境を変えられるかもしれないし、変えられないかもしれない。たまたま変えてしまうきっかけになることもあるだろう。


 本作品の子供たちは社会的な力を感受する能力が破綻している。それでも彼女らは人間であるという意味で、社会を構築するピースになっている。しかし、その感受する能力が破綻しているがために、変革するという能動性は失われてしまっている。


 

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