【アニメ評】いかにして成熟を断念するか アニメ『少女革命ウテナ』のこと
とり
前談 個人の成熟と社会
成熟とは何か。
それは虚構である。近代において動員された「個人」という概念を確立させるために様々な思想家たちが言葉を変え、定義を変えてきた一つの虚構である。
「個人」の集合が「社会」であるとするならば、「成熟」とは、誤解を恐れずに煎じつめていくならば、その「社会」の生み出す不合理を受け入れて、その中でどのように生きていくか、あるいは、それを変えていくかという「個人」のモデルの総称である。
そして、「成熟」と同時に、様々な「大きな物語」が提示されてきた。それは、神であったり、共産主義であったり、あるいは自己責任であったりした「私たちの社会を秩序付ける根拠」を提示するものである。
これらは究極的な解決をもたらす物語であるが、そのような物語に生きられる存在はいない。存在しないにもかかわらず、「あえて」あるいは存在する「かのように」あるいは存在するもの「として」振る舞うのが「成熟」というものであった。
この振る舞いでしかないものが、「実在する状態」とされてしまうことがある。本来は、仮構でしかないし、その程度でしかないにも関わらず、である。「社会のために個人のうめき声を飲み込め」ということばが常態化されてしまうのである。
「成熟」は呪いにもなりうる。
社会を構想していく上で、「成熟」という概念に依拠しない道を検討する前段階として、実在する状態としての「成熟」をいかに断念するかについての足がかりが必要だろう。
『少女革命ウテナ』(以下『ウテナ』)最終二話、劇場版にその足がかりが置かれている。
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