◆間違いなく天使

 抱き合って見つめ合うような距離感。

 自然とそうなった。


 顔が熱い。呼吸も熱い。目頭さえも沸々とした。


 心臓が狂うほど激しくなるのは人生で初めてだ。

 俺はこんなにも三沢さんが好きだったのか……。知らなかった。



「……三沢さん。俺」

「キスしたい?」

「ああ……」

「マラソン大会で勝ったらね」


「だよな」


「でも、抱くのはいいよ……」



 抱きついてはいいのか。

 意外な発言に、動揺と喜びが交じり合った。三沢さんが許容してくれるのなら、俺は遠慮しない。

 だって、好きだから……。


 ためらわず、俺は三沢さんの小さな体を抱きしめた。


 本当に小さくて、柔らかくて、良い匂いがした。


 ただ抱き合うだけの時間。

 それだけなのに泣けるほど幸せを感じた。


 ずっと。


 できれば、ずっとこうしていたい。


 三沢さんは嫌がる様子もなく、むしろ体に腕を回してきた。俺の胸の中に顔を沈め、目を閉じて安心しきっていた。


 ……ああ、天使だ。間違いなく天使だ。



 ◆



 ずいぶんと遅くなった。

 三沢さんを駅まで送り、俺はまた家へ戻った。


 その道中だった。



「…………!」



 またもや違和感を感じた。

 これは以前に感じた“気配”にソックリだ。


 ま、まさか……そんな。馬鹿な。


 異界駅?


 いや、そうじゃない。

 これは人間だ。

 決して幽霊だとか妖怪の類ではない。



 ――思えば。



 ずっと俺は見られていたと思う。

 毎日この道を通る度に。


 最初は古賀さんや瀬戸内さんかと勘ぐった。でも、そうじゃない。これは別人だ。


 そして、ようやく正体が分かった。



『…………』



 そうか。

 そうだったのか。

 君が俺をずっと監視していたんだな。



「黒部さん……」

「…………バレちゃった」



 暗闇から現れる黒髪の少女。

 同じクラスの黒部さんだ。どうして彼女が俺をつけているのか……。事情は分からない。



「ずっと俺をつけていたんだな」

「うん、そう。必死に気配を殺していたんだけどなー。ダメだったかー」


「なんでこんなストーカーみたいなことを……? 君ほど可愛い女子なら、他の男だって寄ってくるだろうに。俺はほら、三沢さんがいるし……」


「私は熊野くんが好きなんだよね」


「え……」


「昔から好きだった。好き……好き、好き、好き……大好き」



 口元を歪ませ、狂った瞳で俺の方へ歩み寄ってくる黒部さん。明らかに様子がおかしかった。


 ――まて。


 右手になにか持っている……?



 ギラギラと銀色に光る鋭利な刃物。あれは“包丁”で間違いない。



 え……なんで……。そんな凶器を……?


 まて。

 俺に向けてきている……!



「ちょ、黒部さん! どういうこと……!」

「どうせ私の望みは叶わない。三沢さんが邪魔だから」

「だ、だからって何をする気だ」


「熊野くんを……この包丁で……」



 いきなり包丁が目の前に飛んできて、俺はビックリした。辛うじて回避して距離を取った。……う、嘘だろ。


 あと少し半のが遅れていたら、心臓にグサリだったぞ。


 くそ、黒部さん……まさかそんな昔から俺をつけていたとは。


 ここは上手く乗り切るしかない。



「まて、黒部さん!」

「なに? 命乞い?」

「そうじゃない。マラソン大会だ」

「それがどうしたの?」


「もし、君が一位になったら付き合ってあげよう」

「え……」


「でも俺が一位になったら諦めてくれ」

「ふぅん。足の速さで決めるわけ。いいよ」

「いいの!?」


「こう見えても私は陸上部だよ。覚悟してね」



 な、なんだって……!?

 そうだったのか……。いやでも、今の俺なら陸上部に勝つ自信があった。あの三沢さんに鍛えてもらったんだぞ。

 そう簡単には負けない。


「分かった。じゃあ、決まりでいいよな」

「私が勝ったら本当に付き合ってもらうから」

「あ、ああ……約束だ」

「嘘ついたら包丁で刺し殺しちゃうからね!」


「……ああ」



 返事をすると黒部さんは納得してくれた。どうやら、自信があるようだな。でも、俺だって負ける気はない。


 勝って絶対に三沢さんを彼女にするんだ。

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