第4話 欠席

 瞭はこれまで一度も学校を休んだことがない。少なくとも花が記憶しているかぎりでは、瞭も自分も学校を休んだことはないはずだった。

 だから花も瞭が学校を休むことなんて、考慮にさえ入れていなかった。そのため担任の女教師が朝いちばんの出席確認をとったあと、今日いちにち瞭が腹痛で休むことを告げたとき、花の意識がぱちんと弾けとんだ。

 靄のような乳白色の混濁から、はっきりした意識がようやく抜け出すと、花はもう自分が心のなかで叫ぶ悲鳴以外には、なにも聞こえなかった。いろんな思いがいっきに噴出してきて、考えがまとまらない。ないと思っていたお菓子が、学習机の引き出しの底から見つかったときのような至福感が、花の小さな身体を貫いた。顔の神経がひたすら緩んで、にやけてくる。隣りの席の男子が気味わるそうに目をそむけた。

 よし。いったん冷静になろう。花はせわしなく踊っている自分の身体の全細胞にそう呼びかけた。瞭が学校を休んでいる以上、悠は穴ぐらに行かない選択肢を選ぶだってある。あそこはあくまで男子ふたりがメインの場所なんだもん。悠だって当然そう考えてるはず。――でもちょっと待て。だったらあたしが机の角を叩けばいいんじゃないの。

 しかし花はこれまで一度だってそんなことをしたことがない。瞭だってそうだ。それを実行する権限があるのは、暗黙のうちに悠だけということになっている。悠だって自分以外の人間が合図を送ってくるなんて想定さえしていないかもしれない。瞭が休んでいればなおさらだ。

 花にはべつの考えが頭に浮かんだ。やっぱり悠に判断を委ねたほうがいいかも。というのも、そこには、悠がそもそも花とふたりきりになりたいかどうかという、危険かつ甘美な試験的役割が含まれているからである。

 もちろん悠がなんの深い意図もなく花を誘う可能性だってあった。うん。それでもいいんだ。花は素直な乙女の潤んだ目になる。悠とふたりきりになれるんだったら、もうそれ以上の贅沢なんて、なんも求めないよ。この願いが叶うんだったら、それと引きかえに死ぬまでポリンキーを食べられなくなってもぜったいぜったい文句なんか言わない。

 花は姿勢を正して、悠が合図を送ってくるのを辛抱づよく待った。授業なんて完全にうわの空である。ふだんなら神経に障る、小世のちょこまかとした動きも、今日はまったく気にならない。それどころではなかった。花は耳を澄ませて待った。

 しかしついずるずると穴ぐらでの悠とのふたりきりの時間に思いを馳せてしまう。その誘惑に抗えなかった。花はそのたびに自分にびんたを喰らわせ、眠けを払うように、目をおおきく見開いた。だがしばらくすると花はまた雅な白昼夢にとらわれてしまう。その繰りかえしだった。気がつくと六時限めの授業が終わっていた。

 やべえ。聞きのがしたか。悠のこと考えすぎ。それで悠の合図聞きのがしてたらもとも子もないよ。ばかじゃないの。見ると、悠は椅子から立ちあがって帰ろうとしていた。しかし花には本人に直接尋ねるだけの勇気がない。いや。合図なんてしてないよ。瞭が休んでるんだし。なんて言われたら花はそれこそ口から泡をふいて倒れてしまいかねない。花にもそれはわかっていた。

 悠は自分のリュックを机の端のフックに引っかけてる。あわてて花は教室の後ろの荷物棚に置いてあるリュックを取りにいった。花はいちばん後ろの席だったから、それはほんの一瞬のことである。しかし振りむけば、そこにはもう悠の姿はなかった。花は泣きそうな顔になる。もう。なんでそうなんのさ。

 しかし泣いている場合ではない。花は急いで廊下に出た。すでに廊下を曲がろうとする悠の背中が見えた。向こうから走ってくる下の学年の子たちを避けながら、花はその子たち以上の速さで廊下をひた走る。だが廊下をまがった階段に悠の姿はもうない。花は手すりから身を乗りだして目を細める。手すりの隙間から、悠の頭が一瞬だけ見えた。

 花は全速力で階段を駆けくだる。その勢いのまま、校庭に面した玄関口まで出た。外はぽつぽつ雨が降っていた。数人の子たちがグラウンドを通って校門に向かっていくのが見える。灰色に染まった風景に、色とりどりの傘が咲いていた。なぜか花は悠が今日どんな服を着ていたのか思い出せない。空想のなかの悠に夢中になりすぎて、現実の悠どころではなかったのだ。

 みな傘で首からうえが隠れている。いちばんの目安は身長だ。しかしさっき授業が終わったばかりの六年生だらけだったので誰が悠だか見わけがつかない。悠はとくべつ身長が高いわけではないのだ。ピンボールの玉のようにあちこち視線を走らせてから、花はようやくリュックのことを思い出した。

 ところが誰も悠のリュックを背負っていなかった。なんてこった。悠はもう校門から出たっての。どんだけ足が早いのさ。花ははっとする。そうか。雨が降ってるから一目散に帰った可能性もあるな。

 ひょっとすると傘を持ってこなかったとか。やだ。相合い傘の可能性だってあったんだ。顔がにやけてくるのを花は必死に堪える。ばか。そんな妄想している場合じゃないよ。花はすばやく学校のブロック塀の向こうの道に視線を走らせた。だがそこにも悠の姿はない。

傘立てから自分の傘をとり、足早にグラウンドに出て、雨に濡れながら傘を開いた。恋する乙女の目はあくまで鋭い。

 花は迷うことなく森へと向かっていった。


    *


 雨が本降りになってしまった森の道は、いかに男っぽいといえど、小学六年生の女の子にはなかなか険しい。何度もぬかるんだ地面に足をとらえられかけ、持ちまえの運動神経のよさで、あわやのところで姿勢を立て直した。しかし、また滑ったときに手をつこうとして蛙の存在に気づいて、あわてて手を引っこめてしまい、花は泥だらけの地面に思いっきり顔を打ってしまった。

 額が痛い。おそるおそる指で触ると、一文字の傷の感触があった。ちょうどカッターですーっと切ったような感じ。指に泥と血がついていたが、手から傘がとんでしまったので、じっと眺めているうちに雨に洗い流されてしまった。花は泥もかまわず地面を這って傘を拾うと、あらためて自分の服を見た。

 ズボンも泥だらけだ。母親になんて言おう。うるさく言われるんだろな。花は舌を出す。もちろんズボンについた泥はお風呂場で自分でごしごし洗う。忘れてはいけない。じゅうぶんシャワーで洗い落としてから、お母さんを呼んで点検してもらう。無事に洗濯機のなかに投入できるのはそのあとだ。洗濯が終わったときに小石でも転がっていようものなら、そのことについて死ぬまで嫌味を言われかねない。

 なんてことを考えながら歩いていたから、また滑って尻もちをついた。花はさすがに泣きそうな顔になる。泥がついたままの顔の中央に目と口を寄せる。しかしぐっと堪えた。傘の柄の部分を、頭と肩のあいだに挟んで、背負っていたリュックから絆創膏を取り出し、傘の外にしばらく突き出した手でそれを額に貼った。花はなにごともなかったような顔をしてふたたび森を歩いていく。

 背後でばさっという音がして花は振りかえる。しかしそこには誰もいない。大量の雨の滴にひたすら打たれてじっと堪えしのぶ薄暗い陰気な木々の茂みがあるだけ。なんの音だったんだろう。行ってたしかめてみたい気になる。だが花はそのまま道を進んだ。

 またばさっという音がした。かすかな足音が響く。花は肩を震わせた。後ろを振りかえるが、そこに生き物の影はない。いま通ってきた道の果てしない向こう側は、深い穴を覗きこんだように真っ暗だった。花は恐怖にすくみながら、ふたたび歩きはじめた。そのあとも足音は一定の間隔をおいて背後から聞こえてくる。花はもう振りかえらない。

 足音がしだいに近づいてくる。花は足を早めた。はげしさを増してきた雨が傘を打つ音と、暗さのせいで、見なれた風景が重苦しく歪む。森林の道を抜けると足音はぴたりとやんだ。動物の足音だよ、きっと。花は自分に言い聞かせる。雨宿りする場所を探して移動してたんだ。それがたまたま自分の歩いている方向と同じだったってだけ。

 どうにか穴ぐらにつく。花は深呼吸してから暗い穴ぐらのなかを覗きこむ。悠はまだ来てない。花は溜め息をついた。嘘つくな。自分に嘘ついちゃだめだよ。あたしよりさきに学校を出たのに、悠が来てないなんてわけないもん。花は穴ぐらに入って傘をたたむ。

 なんだか悠にふられた気分。そんなことない。花は何度も首を振る。はっきりと答えが出るのは、はっきりと聞いたときだけ。諦めんのはそんときなの。

 花はリュックから教科書を取り出した。せっかく来たんだから、いつものように勉強してから帰ろう。悠や瞭ほどじゃないけど、あたしもここ気に入ってるんだ。妹に邪魔されずに勉強できるし。穴ぐらのなかは少し暗いが、文字が読めないってほどじゃない。それに今日は瞭がいないから気が散らない。


    *


「ケガでもしたの」

 学校で悠に話しかけられたことはこれまで一度もなかった。しかし表情がへなへなとふやけてしまわないのは、日頃からの鍛錬の賜物である。

 花はあたりを見まわした。だが不思議と悠と話した女子に向けられる、刺すような視線は誰も向けてこなかった。花は額に手をあてる。わかった。この絆創膏だ。これが。なんていうの。そう、免罪符みたいな役割を果たしてるんだ。

「うん‥‥妹とケンカして」

 花は嘘をついた。

「妹いるんだ。いいな」

「ほしかったら、あげるけど」

 悠は困ったように微笑む。花はなぜかその頬っぺたをつねりたくなってくる。思いっきり。ぎゅっと。沈黙。花はいちかばちかで訊いてみる。

「きのうは来なかったよね」

 悠はきょとんとしている。

「穴ぐらだよ」

「ああ‥‥だって雨降ってたから」

 その理由がいちばんにきたのが花は嬉しい。顔がほころぶ。

「瞭も休みだったし。今日もらしいけど」

「え、そうなの」

「さっき教員室の前で先生が教えてくれた」

 花は小さく舌打ちする。たくもう。話のなかまでしゃしゃり出てくんなよな。腹が立ったついでに妙な勇気が湧いてくる。花は思いきって訊いてみた。

「今日はどうすんの」

「どうするって?」

「穴ぐらのこと。今日は晴れてるじゃない」

 悠はじっと花の顔を見た。とくにこれといった表情の変化はなかった。

「行きたいの?」

 花は少し顔が赤くなりながら無言で頷く。

「じゃ、行こう。あ、きのう帰りがけに花のこと見たよ」

 同時にいろんなことが花の脳味噌を力づよくぴんと弾いたので、花は頭がぼんやりして深くものを考えることができなかった。

「どこでよ」

「一階のトイレ出たとき。急いでた感じに見えたけど、なんかあったの」

 ありましたわよ、と花は心のなかで呟く。――いろんなことが。


    *


 ふたりで穴ぐらに行くことになっても、悠はあいかわらず、自分ひとりでさっさといつもの車道の脇を歩いていくのだった。しかし花に不満はない。穴ぐらのなかでふたりきりになるのは、すでに揺るぎのない確定事項になっているのだから。悠の踊るような足どりを、花もまた踊るような目つきで、にたにたしながら後ろからずっと眺めているのであった。

 森のなかは前日の陰気さは見る影もなかった。木々の茂みに多少の薄暗さはあるものの、しかしもはやそこには昨日あったような陰謀の気配などはまったくなかった。嗅ぎなれているはずの、雨あがりの森が放つ香ばしい匂いが、これまでになく花の鼻腔をくすぐる。森じゅうの木々がふたりの訪問を心から歓迎してくれているように思えた。数羽の鳥が頭上を飛んでいく姿さえも、花にはふたりのこれからの蜜月のひとときを祝福してくれているように見えるのだった。

 穴ぐらに来ても悠はやはりゲーム機を取り出す。花もいつものように定位置に腰をおろしてリュックから教科書を取り出した。瞭が不在でも距離はつめない。いくら花でもそんな度胸はない。

 今日は差しこんでくる日射しが優しい。空気も乾いていた。平和を謳歌するように遠くで小鳥たちが囀っている。花は教科書の同じところを何度も何度も読みかえしていた。なにひとつ頭に入ってこなかった。

 悠がゲームをしながら言った。

「瞭って、いいやつだよな」

 なんで瞭の話になんのよ。花は教科書から顔をあげると、悠がまるで瞭であるかのように睨みつける。

「先週さ、休憩時間に、なにか悩み事があったら、ぼくに遠慮なく相談してくれ、って言ってきたんだ」

 この学校に転校してくる以前の話だが、いかにも友だち、という顔をして、こっちが安心してべらべら喋っていると、翌日にはクラスじゅうに話が知れ渡っている――こういう罠をしかけてくるやつが、学年にひとりくらいの割合でいた。悠にはその意図がまるでわからない。

 そんなことをして、なんの得になるのかがわからなかった。懲りずにべつの人間にたいしても同じことをやって、最終的にクラスのみんなから無視されるようになっても、そいつはなんで自分がそんな目に遭うかわからない、といった感じでけろっとしていた。ただ単に善悪の区別がつかないだけなのだろうか。

 他の人間はたぶん一生のうちにひとりくらいしか出会わないのだろう。しかしあちこち転校を繰りかえしてきた悠は不運にも何度かこの手のタイプに出くわしてしまった。その経験もまた悠の心の周囲に築かれている壁を頑丈なものにしてしまっている要因のひとつだった。

「あいつ、昔からそうなのか」

 悠としては花に探りをいれているつもりだった。瞭が相談相手にふわさしいのかどうか。

「知らない」

 つきあってるみたいな言い方しないで。花は念を押すように横に首を振った。

「でもよく遊んでるんだろ」

「友だち、だもん」

 友だち、の部分を強調した。

「まあ、いいやつっちゃ、いいやつよね。抜けてるけど」

 悠はにっこり笑う。それは否定できない。

「‥‥あれはたしか、四年生のときだったかなあ。二年生と共同で、体育祭の飾りものをつくることになったんだ。瞭が四年の代表になって、二年の代表の子と、作業の日程とかスケジュール組むことまでやらされてさ。どの曜日の放課後の何時にみんなであつまるとか、事前にその子と話しあって決めることになったのね。あたしも瞭に頼まれて付きあってあげることになった。自分だけじゃ心もとないからって」

「うん」

「ちがった。最初のときだけ二年も四年も数人来ることになったんだっけ。‥‥そんで待ちあわせる時間を決めることになって、その二年の代表の子は、自分のほうから、三時にしよう、って言ったの。あたしもはっきり聞いた。でも当日になるとその子は他の二年の子たちといっしょに三時半に来た。ところがその子はあくまで三時半て言ったって言い張るのね、顔を真っ赤にしながら」

 花はとつぜん笑い出し、笑いながら話しつつづけた。

「上級生相手に堂々とそんな嘘つくんじゃないよって、あたしが瞭の立場なら言ってた。ていうか、瞭のかわりに言ってあげてもよかったんだよね。でもあたしはそのやりとりを聞きながら黙ってた。だって面白いじゃない。瞭がなんて言うのか」

 悠はただ頷く。

「でも瞭は困ったような顔してるだけだった。他の四年の子たちもいるから、あっさりと引きさがるわけにもいかなかったのね。なんか言おうとするんだけど、いつものように思慮ぶかくそれを呑みこんで、そこにだけすぽっとはまるような言葉の組みあわせを探してるんだけどなかなか見つからないっていう、あの感じでただ黙ってるの」

 なにがそんなにおかしいのか、花がにやにや笑いながら話すのを、悠は少し苛立ちながら耳を傾けていた。

「そのうちその子もはっきり思い出したのか、それとも罪悪感を感じはじめたのか、もしかしたら三時って言ったかもしれない、とか言いはじめて。そこまではまあいいんだけど、瞭が、まちがいは誰にでもあるよ、みたいな甘いこと言うから、相手もだんだん図に乗ってきちゃうわけ」

 花は楽しそうに丸い目を細めて言う。ほんとうに夫婦みたいだな、と悠は花の話を聞きながら思った。

「しまいにはその子、そういうのは年上のひとがしっかり確認してくれなきゃ困る、とかぬけぬけと抜かしやがったの。瞭は頭をぺこんと下げて、ごめん、って謝った。低学年の子に言い負かされるやつなんてそうそういないよ。ばかでしょ」

「たぶん瞭はその子に譲ってあげたんだよ」

 花は何度も首を振った。おおげさにしかめっ面をして悠の顔を見据える。

「そんな器のおおきなやつじゃないよ。ただ気が弱いだけ」

「そうかな‥‥」

 悠はぼんやりと花の瞳の向こう側を見るような目つきをして言った。明らかに花の意見にたいしてなにかもの言いたげな感じではあった。しかし議論するつもりもないらしく、悠はふたたび寝ころんでゲームをはじめる。そしてぼそりと呟いた。

「いいよな、ながいつきあいの友だちがいるのって」

「悠にはいないの?」

 悠はゲームの手をとめて花のほうを見る。まさか花を相手にこんな話をするとは思わなかった。

「父親の仕事にあわせて頻繁に学校が変わるから、どうしてもその期間かぎりのつきあいになっちゃうんだ」

「連絡先の交換とかしないの、最後の日とかに」

「するんだけど‥‥転校したあと、電話かメールしなくちゃって思っているうちに、いつのまにかタイミングを逃しちゃうんだよ」

「めんどくさい?」

 悠は唸った。

「転校するのって、けっこう気力がいるんだよ」

「向こうからは連絡ないの」

「あるんだけど、転校した学校で元気にしてるかとか、今度遊びに来いよとか、そんな当たりさわりのない内容だから、こっちも同じように当たりさわりのない返事になっちゃうし、そんなメールのやりとりをしているうちに、いつのまにか消えてしまうんだ」

「消えてしまうって、どういうこと」

「どういうことって‥‥それで終わりだよ。終わり。かわりに転校したさきのひとたちが心のなかに新しく入りこんできて、そのひとたちもおれがまた転校したら出ていってしまうんだ。ずっとそんなことばっかり繰りかえしてる」

「ふうん。そういうのって、なんか寂しいよね」

 感想はそれだけか。悠は力なく笑った。ほら。やっぱり通じない。そういいたげな表情だった。

 花は敏感にそれを感じとった。花はまるで主人に鞭で打たれた家来のようにすっくと身体を起こして座りなおした。ばさばさの髪も手で撫でつけた。まるでこれから悠に結婚でも申しこむような感じであった。

「でもさ、あたしは‥‥あたしと瞭はいつまでも悠の友だちだよ。悠が転校しても、床にケータイを叩きつけて、おい、この野郎、しつこいぞ、って言わせるほど、何度も電話かけたげるから。もし悠が転校することになっても、みんなで電車に乗って東京ディズニーランドとかUSJとか行こうよ」

「勝手に瞭を巻きこんでいいのかな」

 悠は笑いながら言った。

「いいのよ、あんなやつ‥‥」

 花も笑いながら言った。悠は視線をあわせたまま、腹のうえに寝かせていたゲーム機を手にとった。ふたたび悠はゲームの世界に戻る。

 死後の世界のように平穏な時間が流れた。これだけ悠と話すことができて花は満足だった。いまわの際に子どもや孫たちと思う存分語りあえたグランマのように、口元に静かに笑みを湛え、残りの時間をおおらかに、優雅な気分で味わっていた。煩悩が消え、勉強の手がはかどる。

 悠は自分が拾ったものが手榴弾であるとはつゆ知らずに大人に放り投げる五歳児のように唐突に無邪気な声で花に言いはなった。

「最近さ、休みの日になると先生が家に来るんだよ」

「先生って?」

 花の頭に浮かぶのは、一年から五年までかわるがわる担任となったおじさんの教員たちばかりだ。ぱっと区別のつかない茄子の群れ。あの賞味期限切れの茄子のような萎びたおっちゃんたちの誰かが、なんで休みの日になると悠の家に来るんだろうと花は思った。

「うちらの担任の先生だよ。いつのまにか母親とメル友になっててさ、ここんところ毎週のように家に来るんだ」

 花は教科書を膝のうえに置いて、不思議そうな顔で悠のほうを見る。

「べつにあの先生のこと嫌いなわけじゃないんだけどさ。でも休みの日まで学校の先生と顔をあわせるのって、ちょっと気分的にしんどいんだよな」

 休みの日になると担任が家に来る。なんだそれ。不意に背後から、自分の背丈よりおおきなボールを投げられたように、花はしばらくその言葉の意味が呑みこめない。残響つきで悠の言葉がぐるぐる渦まく。花の頭にようやく小世の顔が浮かぶ。あ。



                 あ。

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