第3話 家庭の事情

 丸い輪郭のなかの空を小さな飛行機が横ぎってゆく。飛行機はひどくのんびりと音もなく静かに空を横ぎっていった。まるで窓ガラスを這う虫みたいに。

 瞭は去年の夏休みに一家で沖縄に遊びに行った。生まれてはじめて空港に行き、待合ロビーに面したガラス越しに飛行機を間近で見て、そのおおきさに度肝を抜かれた。あんなおおきなものがこれほど小さく見えるのだから、空の広さというのは実にたいしたものだ。

 しかしその空もいまは小さく切りとられている。防空壕の入り口のサイズにまでぎゅっと圧縮されている。それが瞭には悲しかった。

 瞭はあいかわらず地面に寝ころがって携帯型ゲーム機に熱中している悠を恨めしそうに見た。太陽がゆっくり移動して、外から日の光が射すと、悠は眩しそうに寝がえりを打つ。悠のその仕草は瞭の目にいささかアイロニカルなものに映る。自然のなかにいながら、自然そのものに背を向けている感じなのだ。

 悠の「家庭の事情」を察してはいるものの、やはり瞭だって生身の子どもなわけだから、一日のなかで感情の波みたいなものも生じる。感情の波が高まると瞭は心のなかでぶつくさ文句を垂れはじめる。もう。いい加減にしろよな。狭い穴ぐらのなかでふたりの子どもが教科書を開いて勉強する。――これじゃ戦争中にここに避難してきた小学生がやっていたこととぜんぜん変わらないじゃないか。

 それに悠は自分にゲーム機を貸してもくれない。ちらともそういう素振りをみせない。たしかに瞭はゲームなんて興味なかった。悠の家に遊びに行ったときだって、瞭もやるか、と聞かれたが首を振った。どこか自己完結していて、延々と誰かの手のひらのうえで転がされつづけている気分がするようなものに、瞭は幼い頃からずっと興味を持てなかった。

 実際に瞭はいまだってゲームをやりたいなんて微塵も思わない。瞭のほうからそれを言い出したことはないし、物欲しそうな目でゲーム機を見たことだって一度もない。だから悠はぼくがまったくゲームに関心がないと判断したのだろう。そうだよ。ぼくはゲームなんかまるで興味がない。だけどさ。ゲームをやるかやらないか、ちょくちょく折りを見ては、何度でもこっちの意見をうかがうのが礼儀ってもんだろ。こんなに暇そうにしてんだから。

 たまにはこっちの遊びに付きあえよ。機嫌のわるい日には、瞭の心もその領域まで踏みこむ。瞭には自分が悠のゲームに付きあってやっているという意識がどこかにあった。そのため、たまにはこっちの遊びにも付きあえ、という不満が募るのである。

 そうした思いが沸点に達したときには、瞭もさすがに口に出してそれを言う。

「たまには外で遊ばないか?」

 悠はこちらのほうを見もせず、短く低く唸って、それで終わりとなる。絵に描いたような生返事だ。こちらの言ったことをきちんと理解したかどうかさえ疑わしい。

 もっとも、瞭はこうした響きの声に身におぼえがあった。自分の部屋でユーチューブを観ていて、母親に夕飯を告げられたときの返事の声と実によく似ているのだ。そういったときの自分の心理と、この悠の返事の響きを照らしあわせて翻訳すると、いまそういうのどうでもいいんだよ、といったところか。瞭は聞こえよがしに鼻を鳴らす。

 いいよ。悠がそういうつもりなら。瞭は拗ねて、花の肘を小突くと、以前みたいにふたりで森の散策をしようと、顔の表情と手つきで促してみる。ふだんはほとんど会話しないものの、それだけに長年連れそった老夫婦みたいに、瞭と花はちょっとした仕草で気が通じあう。少なくとも瞭のほうではそう思っている。

 しかし花は動かない。ぴくりとも動かない。教科書から顔をあげたまま、視線のさきが瞭を突き抜けている。なに言ってんのかわからない、という防御の姿勢だ。

 もっともそれは、行きたくない、という明確な意思表示ではない。微妙にニュアンスが異なる。なんで悠と離れてあんたなんかといっしょに行動しなきゃなんないのよ。花は若干とぼけてはいるが、表情でつよくそう訴えていた。瞭にはそれがわかる。それがわかるだろうから、花もあえてそういう表情を浮かべているのだ。

 瞭は溜め息をついた。以前あれだけ花とともに森を散策していたのが、まるで夢のなかの出来事だったように思えてくる。銀杏の葉っぱをもぎっては互いの顔をたたき合い、野道で行列をつくるムカデの群れに遭遇して悲鳴をあげ、川でザリガニを踏みつけそうになっては騒ぎ、遊びすぎてあたりがすっかり暗くなり、花の手をひきながら帰ったりした日々が、現実にあったこととは思えなくなってくる。瞭は泣きたくなってくる。そして、なんでこうなっちゃったんだろう、と思う。

 こうしていつも悠と花のあいだに腰をおろして、国境線を監視する警備隊のように、これ以上は花の心を悠に近づけまいとする自分が、いじましすぎてかわいそうに思えてくる。


    *


 花は瞭の存在がじゃまで仕方がなかった。

 悠に夢中になりすぎて、頭がぱんぱんになりすぎて、こうして穴ぐらの狭い空間に三人でいても、花はふだんあまり瞭のことを意識することもなかった。けれど、すぐ傍らで貧乏ゆすりをはじめられたときなどは、さすがに意識せざるを得ず、そのたびに花は心のなかで瞭に悪態をつきだすのだった。

 あんたなんでいつもこうぴたっとあたしにくっついてんの。悠に誤解されるじゃないよ。花はよっぽど言ってやろうかと思う。そのかわり花は鼻息を漏らして、腰を少しずらしてみる。しかし、それじゃ教科書がよく見えないから、という感じで、瞭はこちらに身体を傾けてくる。花は露骨に嫌そうな顔をする。だが瞭の位置からは花の顔は見えない。瞭はあくまで花が同じ姿勢でいるのに疲れただけだと思っている。

 ほんと鈍いよね、瞭って。花は嫌そうな顔をしたまま思う。そもそもあんたとあたしってたんなる幼なじみじゃない。小一から小六までずっとクラスが同じだったってだけ。しかも運命的にそうなったってんじゃなく、もともとクラスの数が少ないからそうなったってだけじゃない。あたしがちょっと男っぽい性格だから、女子と遊ぶより気が楽なんで、あんたと遊ぶほうを優先してたってだけなの。

 でも悠と友だちになっただけでも、こいつのこと褒めてやりたい。花はいつもこのことに思いを馳せるたびに顔がにやけてくるのだった。瞭の存在がなきゃ、悠にとってのあたしなんて、いつまで経ってもおおぜいのなかのひとりだったんだもん。頭なでなでしてやってもいいくらいだよ。しないけど。もっともその瞭の存在がネックになって、いまだにちゃんと悠と話したことはないけど。

 悠をここに連れてくるのは花にとって一大仕事だった。そもそも花はそれまで悠とまともに話したことさえなく、学校でも口をきいたことがない。悠をここに連れてくるまで、悠はあくまで瞭だけの友だちだった。だから瞭を通じて、悠と自分がこうしていっしょに遊んでいることなど、クラスの女子たちは誰ひとり知らない。想像すらしていないはず。知られたらどんな目に遭わされますやら――花は震えながらいつも思うのだった。

 もっとも、学校では瞭ともほとんど話さない。花が避けているのではなく、これは瞭の照れだった。低学年のときからずっとそうだった。花と遊んでいることすら周囲に知られたくない感じ。放課後や休日にクラスメイトの男子たちとはまるで遊ばないのだから、瞭は当然、教室ではひとりぼっちになる。

 君たちとは外でいっしょに遊ばないけど、学校では仲良くしてくれ。なんて虫のいい話が、子ども相手に通じるわけがない。瞭はそんな現状にひそかに軌道修正を図ろうとしていたのだろう。転校してきたばかりの悠は、言葉はわるいが、また瞭にもそんなつもりはなかっただろうが、格好の餌食だったわけである。

 教室でしだいに距離をつめていく瞭と悠を、弾む心で眺めながら、花はてっきり瞭がそのうち悠をこの森に連れてくるのだと思っていた。しかしいっこうにその兆候がない。

 おい。どういうこった。花の目が日ごと死んでいく。以前はそれなりに楽しかった森の散策も気が抜けたようになり、鈍感な瞭でも気づくように、さもつまらなさそうな顔をしながら、こういうのってやっぱり、ふたりきりじゃちっとも面白くないよね、という態度をとった。

 だが瞭は傷ついた表情を浮かべながらも、けっして悠を連れてくることはなかった。その気配さえ見せなかった。とうとう花はしびれをきらした。腹をきめた。煮えきらない瞭の態度が花の心に火をつけたのだ。お前がそういうつもりなんだったら、こっちだって出るとこ出てやっかんな。

 ある日の放課後、瞭に用事があるのでさきに森に行くよう告げてから、悠を帰り道で待ちぶせた。待っているあいだ、花は心臓が口からとびでてきそうだった。吐きそうになるくらいだった。

「案内したいところがあるんだけど」

 悠に放った自分の声がかなりぶっきらぼうに聞こえて、花は耳をふさぎたくなった。しかもなに。この男みたいな声は。声の調整を完全に誤った。それに日本人じゃないみたいに抑揚すら怪しい。んもう。悠をどこに案内しようってんのよ。取りつくろうために浮かべた笑顔が引きつる。悠は不思議そうな顔で花を見る。

 花は頭が真っ白になった。もうそれ以上なにも考えられず、ぱっと思い浮かんだことを言った。

「そこで瞭が待ってるんだ」

 悠が、ああ、そういうことか、という表情をした。嘘をついたことよりも、とりあえず危機を回避できたことにほっとして、花は愛想もへったくれもなく、くるりと振りむいて歩き出した。それからあとのことは花もよくおぼえていない。

 あともうひとつ、花は瞭に感謝しなければならないことがあった。瞭が前から自分を下の名前で呼んでくれていたことだ。花は一度、悠から下の名前で呼ばれたことがあった。この穴ぐらで遊んでいるとき、悠が花になにかの用事があって、なんと呼んでいいのかわからず、とっさのことだったらしく、瞭にならって、下の名前で呼んだのだ。しかも呼び捨てだった。

 花の小さな身体に電撃が走った。そのときのことを思い出しただけでも花は口の端からよだれが出てくる。ビーフの匂いを嗅いだ犬のように、手の甲で拭ってもあとからあとからよだれが出てくる。

 花はうっとりと思い出す。なんだろう、あれは。神様のような絶対的な立場の人がとつぜん目の前におりてきて、ビンタ食らわされてたちまち雲に乗って帰っていった、みたいな衝撃的な体験は。花の耳にはいまもその声の響きの感触が残っている。耳がまだじりじりと痛いぐらいだ。でもその痛さが絶妙に心地よい。もしシャワーを浴びてその響きまで洗い落とされるぐらいだったら、花はきっと死ぬまで風呂に入ることを頑なに拒んだだろう。

 花は片方の耳に手をあてる。それから貝殻に潮の満ちひきの音を聞くように目を閉じて恍惚の表情を浮かべる。何時間経ったのだろう。三分も経ってない。ふと目を開けると、瞭がこちらを覗きこんでいた。花はびくっとする。心のなかまで覗かれていたような不快感を花は感じる。腹が立つ。

 なんか文句でもあんの、とでも言いたげに瞭の顔を見返してやる。そして花は瞭の顔をまじまじと見ながら思う。――ほんとこいつ人を現実に呼びもどす顔してんな。


    *


 悠はゲーム機の画面から目を離して、静かにじっと見つめあうふたりを横目で見る。そして端整な顔をしかめる。まただよ。あのふたりまた仲良さそうにじゃれついてる。

 あくびをしながら、悠はふたたびゲームに集中しようとする。だがひどく気が散る。指はてきぱき動いていたが、意識は紐がほどけたように散漫だった。何度かつまらないミスを繰りかえしたあとで悠は思う。ようするに、あのふたり、おれのこと利用してんだな。ふたりきりだと照れるから。

 たぶん花のほうが照れるんだろう。花がここにおれを連れてきたわけだし。はじめて花にここに連れてこられたとき、瞭はおれを見てちょっとびっくりしてた。悠はその日のことを思い出した。花は頬を上気させながら、悠のさきを小走りに歩いていた。まるで悠のことなんかどうでもよくて、穴ぐらにいる瞭にいっこくでも早く会いたがっているみたいだった。

悠はこんな占有空間をこのふたりが持っていることに心底驚いた。屈辱されたような気さえして、柄にもなく感情が昂ぶってしまったほどだった。気が動転して、なにを喋ったか、悠はほとんどおぼえていない。――たいしたことじゃなかったとは思うんだけど。

 この防空壕が、自分の部屋よりも落ちつく場所であることは、悠も最近うすうす気づいてはいた。その原因が母親の不在からくるものであることにも悠は気づいていた。といっても、母親のことが嫌いなわけじゃない。悠は母親のことが大好きだった。母親にとって悠が自慢できる存在であるのと同じように、悠にとっても母親は自慢できる存在だった。小学六年生の息子の目から見ても、母親は若くて美人だった。

日本全国どこに行っても、同級生の母親たちというのはたいてい、干からびたミイラみたいな感じだった。そうでなければ、こってりと脂ののった、まんまるとした塊まりであった。少なくとも悠の目にはそう映った。そのなかに自分の母親が立てば、いやでも自分がいかに恵まれているか、思い知らされることになる。クラスメイトの男子たちに羨ましがられるのだって、けっしてわるい気分じゃなかった。

 しかしそれと母親の依存体質とはまた話がべつである。各地を転々とすることで他者と持続した関係を築きにくく(本人の性格にも原因はあるが)、そうでなくとも、もともと友だちの少ない彼女は、深い思慮もなく、息子が話し相手の年頃になるやいなや、べったりと悠の背中におんぶしてしまった。瞭はたまたま一部分を切りとってその日常を垣間見ただけだが、休日などには、それが朝から晩までのべつまくなしにつづく。仕事で忙しい父親は、あまり家にいるわけでもないのに、好都合とばかりに、彼女の世話をまるっきり息子に託してしまった。

 数分おきに、ノックもなしに母親が部屋に入ってくる潜在的ストレスというのは、本人の想像さえ超えたものがある。それは背負っているあいだはまったく重みに気づかない種類の荷物だった。この穴ぐらに来て、荷物をおろして、悠はようやくそのことに気づき、しばらく呆然としていた。やがて、悠らしく、飛びちった心の破片をひとつのこらず丹念に拾いあつめて、糊でくっつけて、冷静を取り戻すと、このことについてはもう、なるべく考えないようにしたのだった。

 悠は退屈そうにしているふたりに物憂げに目をやる。花は教科書をくずした膝のうえにおいて、あくびしながら、穴ぐらに入りこんできた一匹の黄色い蝶々を目で追いかけている。瞭は穴ぐらの外に目をやってひたすら思索に耽っている。

 もうしわけなく思わないわけではなかった。なんだか「家庭の事情」にふたりを巻きこんでいるような気分になるのである。でもふたりにこの悩みを打ち明けたところで、どうなるというのだろう。相手は大人じゃない。自分と同じ小学生だ。気の効いたやつら。というわけでもない。それに、彼らが親身に考えてくれて、結論が出そうになったところで、こっちが時間切れということになるかもしれない。父親のつぎの転勤が決まれば、またいやおうなく引き剥がされるのだ。いままでの友だちと同様に。

 そのことを考えただけで悠は息苦しくなる。自分だけぽつんとひとりでプールの底に身体を横たえているような気分になる。身体は動かない。口と鼻からとぎれとぎれに水泡が漏れ、水面に昇っていくのだが、悠は半分目を開けてただそれを眺めているだけだ。なんとかしなきゃ、と思う。でも身体がいうことをきかない。いろんな思念が頭を巡る。このまま死んでしまうかも、と思う。しかしあらゆることから意識を閉ざすことで、悠はふたたび楽に呼吸できるようになる。なぜそんなことになるのか、悠には理由がわからない。

 さっきまで身体が動かなかったのが嘘のように、すいすい泳いでいって、がばと水面から顔を出す。深く息を吸うが、思っていたより空気が薄い。だが悠はすぐその空気の薄さに馴染む。

 だいいち、と悠はゲームする手も止めず、苛立ちながら思う。おれがふたりをここに縛りつけてるわけじゃない。瞭が外に出ようと言っているのを反対したことは一度もないのだから。ただ花が出たがらないってだけ。ゲームに熱中しているふりをしながら、悠はふたりのそういうやりとりをちゃんと見ていた。

 花が拒んでいるのは、やっぱりふたりきりだと照れるからだろう。瞭はそういうとこが鈍い。仕方がないやつだ。悠はものを考えていても考えていなくてもいつも同じ表情をしている瞭ののっぺりとした横顔を眺めた。妙に狭いおでこ、薄い眉と細い目をして、唇だけが厚くて腫れぼったい。耳のわきに小さなほくろがある。他に特徴らしい特徴もなく、正直どこにでもあるような顔だった。一瞬のあいだ目を閉じただけでも忘れそうになる。

 こうやって毎日のようにいっしょに遊んでいても、転校したら瞭のことも忘れるんだろうな。そう考えると悠の心のどこかが少しだけ痛む。あちこち転校してきて、いまも記憶に残っているクラスメイトは、とても性格のいいやつか、とても性格のわるいやつだけだ。それか頭のいいやつ。担任の先生の顔だって何人かは忘れてしまった。

 瞭がどこか悩ましげに短い髪をかきあげる。悠はそんな瞭に同情めいた視線を向ける。話しているかぎりじゃ、けっして頭のわるいやつじゃないんだけど。まあ‥‥そのていどだ。


    *


 小世は教員室で退屈そうにあくびした。向かいの席に座っている男性教諭が咎めるような目つきで見たが、小世は意に介さない。

 赴任して間もない頃は、鈍重な牛のような同僚の教師たちに、小世もおっかなびっくりという感じで接していたのだが、やがて実際のところ、彼らが尻尾をふって蠅一匹叩き殺すわけでもないことがわかると、もう遠慮しなくなった。体裁を取りつくろうことさえしなくなった。はいはい。いまわたしはあくびしましたよ。それがどうしたんですか。なんか文句でもあるんですか。

 しかしよくあくびが出る。定時まであまりすることがないのだ。

 都会の学校では一日に一回はかならず保護者から電話があった。保護者たちは、子を持つ親の日々の煩悩を、かなりダイレクトに小世にぶつけてきたものだった。小世は懐かしく思い出す。子どもが家に宿題を持ってかえってくるのを忘れた。はい、残念ながら、わたしたち教員はいっさいデリバリー業務はおこなっておりません、子どもが塾に行っているのなら、ご足労ですが、お母さまが学校まで直接取りに来てくださいね。片方の目だけが妙に赤くなっている。そういったことに的確な判断を下せるなら、教師じゃなくお医者さんになっています、わたしなんか相手につべこべいってないで、速やかに病院に連れていきましょう。口うるさく言っても勉強しない。お前の子だからだろ。腕にアザがある、たしか朝はなかったはず。こっちを疑っとんのか、おんどれは。そっちがその気なら、こっちだって出るとこ出んぞ。

 小世はテストの答案用紙を採点していた。きれいに整頓された机左側にまだ採点の終わっていない解答用紙の束があり、右側に採点済みの用紙が薄く重ねられていた。生徒の数が少ないから、これだって三十分ほどで終わる。なんせ一学年が三組しかないのだ。ひとクラスにそれぞれ二十人ずつ。

 ほとんど機械的な手つきで答案用紙を採点しながら思った。財政破たん一歩手前の、ガチで過疎化した町は、一学年が五人を割る、という話も耳にしたことがあるから、これでもマシなほうなのかなあ。だいたいそういうところの先生は定時までいったいなにしてんだろ。小世は本気で知りたいくらいだった。

 小世はいつも、成績のいい子の答案用紙を、最後にまとめてチェックする。上位はつねに三人。だからいつもその三人の答案用紙が束の最後になる。

 出来のいい生徒の答案用紙にすらすら丸をつけていくのはほんとうに気持ちがよい。この快感を味わうために教師なんて柄にもないものを目指したのではないかと小世は思うくらいだった。――ほんとうは安定した公務員になりたかっただけなのだけど。

 今日はたまたま悠が最後から三番目になる。あいかわらず字が汚い。千々に乱れてる。だがお気に入りの子はなにをやっても許せる。小世は見るからに浮き立った手さばきでチェックを入れていく。

 惜しい。二十問中、たった二問だけミスってる。しかも不正解の答えの漢字を間違えてた。その箇所に正しい漢字を書いてやり、赤ペンのまま線を引き、「間違えてるぞ!」と書いて、その横にスマイルの絵を描いた。本人と話していても楽しいけど、こういう間接的なやりとりも楽しい。なんたって本人があとで目を通すんだもんね。

 でも堂々の九十点。イケメン、たいしたもんよ。他の生徒よりもひと際おおきな字で「90」と書き、丸枠をつけようとしたところで、手を止めた。ハートマークで囲んでやろうかという大胆な発想が小世の頭をよぎる。

 いやあ。それはさすがにまずいっしょ。保護者さんに見られたらどうしよう、という保身的な考えも、小世の手にブレーキをかけつづけた。小世にだっていちおうはそういう防御装置が働くのだ。でもあのお母さんだし。小世は据わった目をしてアヒル風に口を尖らせる。べつにいいんじゃね。でももし旦那さんに見られたら。小世はそう思ったが、ああいう奥さんを貰った男性は、あんまり細かいことは気にしないんじゃないかという気もした。

 しかし受けもちの男子生徒の答案用紙にハートマークを書きこむのはさすがの小世にも勇気がいる。勇気というか、それ以前に、犯罪でもおかすような気がしてくるのだ。前の小学校では気のあう女の子たちの答案用紙にさんざんふざけたことを書きこんだものだった。けれど悠は男の子だ。おまけに田舎町の素朴なひとびとに取りかこまれている。周囲から自分がどう見られてるか、あるていど把握している小世がそんなことをして、どんな騒ぎに発展するか、だいたい予想はつく。冗談でした、たはっ、では済まされないかもしれない。

 小世はもうすでにハートマークのかたちを描こうとしていた手を、もう片方の手で押さえつけ、理性で本能をむりやりねじ伏せる。小世は荒く息をついた。ああ。小世ちゃん。お主もしょせん小悪党よのう。肝っ玉が小さいから、ほんまにわるいことなんてようせえへんのや。小世は悠の答案用紙をひらひらと右側の束に重ねた。

 つぎは瞭の答案用紙だった。女の子が書いたような丁寧な丸文字に小世はいつも感心する。そして毎度のことながら、あっぱれ全問正解。あんなぼうっとした顔の子がねえ。ふだんもぼうっとしている感じなのに、変なところで隙がない。その逆が女子は弱いんやぞ。また据わった目をして小世はボールペンの反対側で鼻の頭をぽりぽり掻く。あのねえ。瞭くん。そんなんじゃ、いつまでたっても女の子にもてないぞ。勉強のこと以外にももっと興味を持ちなさい。ね。

 最後は花。あのいつも睨んでくる子。子どもが書いたとは思えない憎たらしいほど達筆な字で、これもかるがる全問正解。国語のテストではないので、ひらがなで書いても正解にしているが、花だけはすべて正確な漢字で書いていた。それがまるで採点する人間を挑発している気がして、小世はちょっとイラっとくる。

 悠が転校してくるまでは、たしかこんな達筆ではなかったはず。短期間にこんな上達したんだ。そんなわけあっか。これは当てつけなの。子どもなりの、それでいて巧妙なわたしにたいする当てつけなの。小世は軽いめまいがした。子どもでもやっぱり女は女なのよねえ。

 小学六年生の女の子が、すらすら問題を解けるため、そのぶん時間をかけて端麗な字を書いている、という事実に、うすら寒いものを感じながら、小世は答案用紙の左上にわざと小さめに「100」と書いて、投げやりに丸で囲った。それにしてもええ根性しとんな。あの太眉の子。

 点数の横に、「たいへんよくできました」とでも書いたろかいな、と小世は思う。これなら保護者さんに見られても、へっちゃら平気。だって変なこと書いてないんだもんね。

でもあの子は気づく。きっと気づく。これが小世ちゃんにできる精いっぱいの抵抗だってことに、あの子なら気づく。なんたって、賢い子なんだから。

 小世は首を振る。ダメ。大人にならなきゃ、ダメ。いつまでも高校のときや大学のときみたいに、やられたらやり返す、喧嘩上等、歯には歯を、みたいな戦闘態勢をとってちゃダメなの。しかも相手は子どもでしょうが。同じ目線に立っちゃダメ。わかった、小世ちゃん。うん。わかった。実際に小世は頷いた。

 花の答案用紙を束に重ねようと、腕を持ちあげたところで、右下の隅っこのほうになにやら絵が描かれていることに小世はいまさら気づいた。なんじゃこりゃ、と思いながら、答案用紙に顔を近づける。鉛筆を斜めに寝かせて描いたような淡いタッチの絵。黒く塗りつぶされた丸――。それは見まがうことのない、れっきとしたドクロの絵だった。

 小世は椅子から立ちあがり、すぐまた座った。

「先生、どうなされたんですか」

 向かいの席の男性教諭が、ずり落ちた眼鏡のうえから、心配そうに小世の顔を見あげる。

「いいえ‥‥なんでもありません」

 地方の子どもものっぴきならねえわ、こりゃ。小世は意識が遠くなりかけながら思った。向かいの席の教諭が出ていって自分ひとりきりになると、小世はぐずるように低く唸りながら、ぐったりと疲れたように机に突っ伏して、教員室の窓ガラスの外に力なく目をやる。

 一台の飛行機が音もなく優雅に空を横ぎっていった。

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