第3話
次の日、俺は白杖をいつものように持って散歩に出かけた。
家から出て白杖を置いてくるべきだったのかもしれないと思ったが、もう出てしまったからと、そのまま出かけることにした。
視界は開けている。しかし、よく見てみると、人々の肩や首に変な影がかかっているのが見える。
うずくまっている女の人の肩に、黒いインクを垂らしたような影がついている。
俺はそんなものが健常者には見えるのかと思って、周りにいたおばさんに聞いてみた。
「あの黒い影って見えます? あれって何なんですか?」
おばさんは俺の白杖を見て、いぶかし気な表情を浮かべながら、「影なんてありませんよ」と冷たく言い放った。
そして極めつけは「視覚障害者に何が見えるって言うのかしら」と、皮肉めいたことを言われた。
俺はもう視覚障害者だろうが、どうだろうが気にせず女の人に話しかけた。
「大丈夫ですか?」
「いえ……少し、気分が悪いだけです。ありがとう」
その時だった。女の首にいる影が俺に気がついて、手のようなもので俺の顔にぺたりと触ってきた。
ひんやりとしていて、おぞましい。こんなもの、今まで体験したことがない。
すると女性は「急に気分がよくなった」と言ってどこかへ去って行った。
俺に纏わりつく影は、にたりと気味悪く笑って言う。
「お前見える。決めた。ずっとお前を食ってやる」
俺はそんなのごめんだと体をねじり、影を振り落とそうとしたが、影は張り付いたままだ。
「無駄、無駄」
その影は手のようなものをぱちぱちと叩いて愉快そうだ。俺はちっとも愉快ではないが。
家でこんなやつと一緒にいるよりは外に出た方がマシだと白杖を持たずに家を出た。
するとどういうことだろう。街中の人に影が付いていることに気がついた。
影同士が目を合わせると、これまた愉快そうに手のようなものを叩き合っていた。
「いい加減にしてくれ!」
俺はたまらず大声を上げた。
周りの人はひそひそと話し、その口からは黒い煙が出る。そしてそれを影が食べていく。
異様な光景に吐き気を催し、家に帰った。
俺に付いている影は「俺、楽しむ。お前、苦しむ。これ友情」などと言って笑っていた。
冗談じゃない! 誰がこんな気味の悪い影と友情など感じるものか!
ありったけの大声で叫んでやりたくなった。
だが、騒いだところで状況は変わらないだろう。
俺は落胆した気持ちでテレビを点けた。
ニュースキャスターが淡々とした口調で、ニュースをやっていた。
そのニュースキャスターは、昨日見たどの人よりもはっきりと、黒い影を吐き出している。
そしてそれを、別の影が食べる。
俺は嫌になってテレビを消してリモコンをテーブルに投げつけた。
目など、見えない方が良かったのかもしれない。そんな思いさえする。
おどろおどろしい世界を見るくらいなら、いっそのこと、この視力がなくなってしまえば……。
俺についた影が言う。
「無駄、無駄」
耳障りな笑い声を上げるそいつは、俺はどうしても好きになれない。
「お前見える。俺、食う。これ友情」
影はそう言っていた。だが、俺は友情など感じはしない。
耳障りな声が、頭に響いた。
見えことが嫌ならば、いっそのこと見ないようにすればいい。そう思った俺は、目を閉じた。
すると信じられないことに、影がどこにいるのか、外の様子はどうなのかといったものが見えるようになっていた。
これでは目を閉じたところで何の意味もない。
むしろ事態は悪化しているではないか!
俺はむしゃくしゃしてテレビを壊した。
がしゃんと大きな音を立て、画面が割れた。
肩にいる影が、雑音のような耳障りな声で大きく笑っていた。
その日は結局何もせず、家からも出ないで一日を終えた。
次の日から、俺は視界がさらにクリアになっていることに気がついた。もちろん、影もしっかりと見える。
恐ろしいことに、影も知能を上げていた。
今までは一方的に声を上げることが多かったが、いつの間にか俺に話しかけるまでになった。
「彼女か。なあ、彼女いいな。お前、女になれよ」
そんな無茶を言うなと心で思うと、影は手を叩き笑う。
「冗談、冗談。俺、お前のこと好き」
影に好かれてもちっとも嬉しくも何ともない。
冷蔵庫を見て気がつく。もう食品が残っていない。
買いに行かなければならない。そう思うとどんよりと心に黒いもやがかかった。
外に出ると街中のあちらこちらで影がうようよと蠢いているのが見る。
影は俺が見ていることに気がつくと、肩にいる影に向かって「お前、いいな」と耳障りな雑音のような声で言った。
俺についている影は「いいだろ。お前にはやらん」とまるで、俺が玩具か何かのような扱いをした。思わずムッとすると、影は「お前の思考は読めてる。お前の負の感情は美味い」とまたもや気に食わないことを言われた。
おぞましい影も、慣れてしまえば可愛いものだ。
人間よりも、余程純粋で、欲に忠実。
それこそが影の本質なのだろう。
俺も、いつか食われてしまうのだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます