第2話

 次の日の朝、目を覚まし瞼を開けると昨日よりも物が鮮明に見えるようになった。眼鏡もいらないだろう。

 この劇的な視力の回復に、俺は喜びを隠しきれなかった。

 うきうきと白杖を手に外に出かける。

 昨日よりもいろいろなものが見えて、新鮮な気持ちになった。

 大きく息を吸い込む。

 俺は生まれ変わったのかもしれない。そう思える程の、衝撃的な出来事だ。

 かつんかつんと、点字ブロックの上を歩き、白杖で地面を叩く。もうその必要はないのだが、つい癖でやってしまう。

 小さな子がこちらを見て母親らしき女性に「あの人、目が見えないの?」と聞いた。

「そうよ。だから点字ブロックを遮らないようにしようね」

 俺はもう目が見えるんだ! そう言いたくなったが、事態が混乱することは目に見えていたのでやめておいた。

 癖で白杖を持って歩くのも、そろそろやめた方がいいのだろうか。

 俺はもう視覚障害者じゃない。


 ふと目を向けると、喫茶店がある。

 硝子越しに見る食品サンプルはどれも美味しそうだ。

 そういえば、ふわふわのパンケーキが流行っているとテレビで聞いたことがある。一度でいいから、食べてみたい。

 どうやらこの店でもパンケーキはあるようだが、ふわふわ、なのだろうか? 疑問を残したまま、気づけば俺はドアの取っ手を押し、ドアを開いていた。

 カランカランと、ベルの音がする。

「いらっしゃいませ」

 店員が俺の手元を見て、焦ったような顔をした。

「いらっしゃいませ。お一人様でしょうか?」

「そうです。ああ、これは気にしないでください。目は少し見えます」

 その言葉で店員はほっとしたような表情を浮かべ、席へと案内してくれた。

「ご注文お決まりになりましたら、こちらのベルでお呼びください」

 さあ、メニューを見てみよう。

 いつもは介助者がいないと出かけることすら億劫だったが、こうして目が見えるようになると外に出て、ましてや喫茶店でメニューを見るということが、こんなにも楽しいということに気づかされる。きっと元々目が見える人は、そんなこと考えたりなどしないのだろうが。

 メニューにはパンケーキと書いてあった。写真を見ると、ふわふわというわけではなさそうだったが、このパンケーキと、あと何か飲み物を頼みたい。いつもは緑茶を飲んでいるのだが、どうやら緑茶は喫茶店にはないらしい。

 メニューをぱらぱらと捲る。すると目に飛び込んできたチャイティーというものが気になった。チャイティーとは一体どんな飲み物だろう。

 未知との遭遇に、胸を躍らせながらベルを鳴らした。

 ピンポーンと間の抜けた音の後、すぐ店員が俺のところにやって来た。

「ご注文お決まりでしょうか」

「パンケーキと、このチャイティーを一つください」

「かしこまりました。少々お待ちください」

 店員は決まり文句を言って店の奥へと去って行く。

 俺は窓から外を眺めた。

 サラリーマン風の男や、キャリアウーマンであろう女が道を歩いていくのが見える。不思議なものだ。皆黒いスーツを着て、まるで軍隊のような、そんな感じがした。

「お待たせしました。こちらパンケーキとチャイティーになります」

「ああ、ありがとうございます」

 店員が去って行くのを見送ってから、テーブルに並べられたパンケーキとチャイティーを見る。

 パンケーキは丸くて、茶色い。そしてバターだろうか。少し黄色いものが乗っかかっている。

 チャイティーは香辛料が強い匂いを発していて、辛そうだ。

 まずはチャイティーを一口飲んでみる。すると確かに辛いというか、独特な香りと、甘さがあってとても美味しかった。これは当たりだと思い、パンケーキも食べてみる。

 パンケーキは、以前食べたことがあるホットケーキと同じ味がした。それでも、不味くはない。むしろ美味い方だと思う。

 全てを食べ終えると、俺は喫茶店で会計をする。初めてしっかり見る硬貨、紙幣に少々感動を覚えながら、お金を渡して店を出た。

 店を出ると道に植えられている木の影に、何か不自然な黒い影があるように見える。瞬きをするとそれは消え、やはり見間違いだったようだ。


 今までウィンドウショッピングなどしたことがなかったが、この機会にと思い切って駅まで足を延ばすことにした。駅にはビルが直結している。これは楽しみだ。

 ああ、それよりも、この白杖を家に置いてから心置きなくウィンドウショッピングした方が良いかもしれない。

 そう思って一度家に帰ることにした。

 家に着いて白杖を玄関に置き、俺は笑みを浮かべる。

 もうこんなものは必要がない。

 浮足立った気分で、俺は家を出た。

 駅に着いてウィンドウショッピングをすると、なるほど、服の色一つで印象というものは大分変わることがわかった。

 服屋でいろんな服を見ていると、女の店員が俺に向かって「こちらご試着なさいますか?」と笑顔で聞いてくる。買うつもりはないから、正直、迷惑だった。

 俺は店員に「見ているだけだから」と言って、店内を見回った。

 しかし、色があるというだけで、どれも似たようなものに見える。一体何が違うというのだろう。

 他にもいろいろな店を回ったが、左程代わり映えがなく、疲れてしまった。

 ここらで一休みしようとアイスクリームを食べに行く。種類が豊富で、色もいろいろとあり、まるで宝箱のようだった。

 オレンジとレモンを選び、食べてみる。柑橘系のさっぱりした味が、俺は好きだ。

 冷たくひんやりとしていて、美味しかった。


 ウィンドウショッピングに飽きると、俺は家路につく。

 夕方だからだろうか。街中の影が大きく見えた。それがとても恐ろしく感じ、早く家に着けと思いながら、やっとの思いで帰宅した。

 灯りを点けると、無数の影が部屋から出て行く。

 まるで、蛇のようなそんな影だった。

 俺はあまりの気持ち悪さに、その場にで立ちすくんでしまった。

 今のは一体何だったんだろう。


 時間を置いて、変な影がないかを確認してから晩ご飯を食べることにする。

 今日は卵かけご飯を食べることにした。

 一人で食べるのはどうにも味気ない。つまらない。そう思いながら、黙々と食べた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る