KAC2024第3回『箱』

所クーネル

KAC2024参加作品

 郊外の、小さな通販会社の小さな倉庫だった。


 私はそこでピッキングという軽作業のアルバイトをしている。注文書通りに棚から商品を取り出して、社員に検品してもらったら、緩衝材と一緒にダンボール箱に詰める。一介のバイトでは宛名を管理できないので、そこから先の発送まではまた社員の管轄だ。


 厳しいノルマもなく髪型も服装も自由だが、立ちっぱなしと時給の低さで人気がない。人気がないから人の入れ替わりも激しい。


 淡々黙々とした単純作業を好む私には天職でも、全人類に適しているとは限らない。だいたい、こんな孤独な人間は、地球上に私一人で十分だ。


 大学在学中、家から近いという理由で選んだいっときのお小遣い稼ぎだったはずが、なぜかしょうにぴたり合ってしまい、卒業後も継続して働いている。


 指示書どおりに物がピチッと揃った時の快感。検品が一発で通った時の達成感。それらは、私のような性分に生まれなければ理解できない感覚だろう。親にまで「あんたいつまでそんなところで」と嘆息されている。


 ある日ライン長に呼ばれ、新人教育を頼まれた。入れ替わりの激しい職場で、私のような長老は珍獣でありOJTの標的だった。ペースを崩されるのは心地悪いが、同僚が増えるのは悪いことではないし、人に言われて知ったのだが、教えるのも下手ではないらしい。


 私は人付き合いの悪さを自認しているが、社会性に欠けるわけではない。要するに、パワハラ上司の餌食にならないコツは心得ていた。そういうわけで、快く引き受ける。


「今日から入った四ツ角よつかどさん。頼んだよ」と紹介された若い女性は、箱に入っていた。


 実際、一見しただけでは若いか女性かもわからなかった。だって箱に入っているから。


 頭から腰までがひとつのダンボールで、脇の穴からニョッキリ生えた二本の腕は黒い長袖着用だ。膝まで別のダンボールが継がれていて、黒ズボンと真新しい白いスニーカーが覗く。


「よろしくお願いします」と挨拶されたが、そんな恰好なのでお辞儀もしにくそうだ。声もくぐもっている。


「よろしくお願いします」と、私も微笑んだ。たぶん彼女も箱の中でそうしているだろうと踏んで。


 箱の前で遠慮がちに組まれた指は、ほっそりしていて形がいい。

 じろじろ見るのは失礼だろう。


「じゃあ、こちらへ」と、さっそく注文書を発行するカウンターへ。


 ピッキングカートを引き寄せながら聞いてみた。


四ツ角よつかどさんは、こういったピッキングのお仕事の経験はありますか?」

「いいえ。これが初めてのバイトなんです」


 受け答えはハキハキしていて好感の持てる話し方だった。


「仕事の流れは説明したとおりシンプルなんですが、いくつか取り違えそうなややこしい品番があったり、特定の注文書によって発生する作業があったりと、イレギュラーに注意するのが大変です。あとは繁閑の差もあるので、日によってはかなり動き回らなければいけないんですが」


 話しながら商品棚の森へ移動していく私は、はたと気づいて足を止めた。小さな倉庫にひしめくスチールラック。高さ一五〇センチ、奥行き三〇センチからまちまち。それが大柄な人ひとり分ほどの間隔で並んでいる。小柄な人なら背中合わせにスルリとすれ違える幅なのだが。


「うーん」と伸びをして、両手を広げて振り返る。「たまにこうして、ストレッチするといいですよ」と、自然な流れて身幅……いや、箱幅をチェック。よし。難なく通れそうだ。


 次はその肩周りで高いところの商品が取れるかどうか。

 注文書の見方を説明し、おあつらえ向きのひと品を指す。


「はい。これですね」

 彼女が、頭より少し高い位置の商品に手を伸ばす。肩の動きに合わせて箱が少し持ち上がる。


 み……、見える……?


 しかし商品は難なく彼女の手の中に納まり、他にはなにも見えなかった……。


「すごい!」

 思わず声が出てしまって、慌てて誤魔化した。


「……あ、これが、あなたの初めてのピッキングですね!」

「ありがとうございます! 私、この商品のことはもう覚えました!」


 バイト初体験の彼女も喜んでいる。よかった。どうやら誤魔化しきれたようだ。彼女が素直な人のようで助かった。


「それじゃあもう一度、間違っていないか商品番号を照らし合わせて、カートに入れてください」

「はい!」


 教えるうちに、私は別の種類の、多幸感に包まれてきた。小さな会社の小さな倉庫の、取るに足らないピッキング作業だ。今までの同僚ときたら、手より口が動く年配女性や、タバコ休憩ばかりの同年代、膝が人工関節で腰より下の商品が取れないシルバー人材の男性……。


 それに引き換え彼女はどうだ。意欲に満ちている。


 だが最下部の棚はどうだろうか。地面スレスレだ。おいじちゃんバイトと同じ道を辿るのだろうか。


 不安はすぐに払拭された。しゃがむ時は下の方が蛇腹に折れて邪魔にならない親切設計だったのだ。いったいだれがこのダンボールを組み立てたのだろう。水濡れしたりぶつかって凹みがついたら取り替えるのだろうか。どこかで売っているのか。自分で作るのか。


 トイレはどうしているのだろう。

 いかんいかん。女性の手洗い事情を想像するなんて失礼すぎる。

 私は自分の邪推を頭から追い出し、以来二度と考えることはなかった。


 それから三日の研修中、彼女は仕事の覚えも良く、勤務態度も真面目だった。


 淡々黙々とした作業の合間、ちょうどいい塩梅の世間話をする社交性もある。


「私、高卒なんです」

「そうなんですか」


「中高一貫の女子校出身で。世間知らずもいいところですよ」

「いやいや、しっかりしているじゃないですか」


「ありがとうございます。……父がね、過保護なんですよ。いまどき珍しい化石みたいな人で。『世の中は怖いところなんだぞ』って」

 彼女は箱を揺らして笑った。


「家事手伝いしかしたことないんじゃ将来が不安だ、って説得してなんとかバイトさせてもらえることになったんです」

「それは、大変でしたね」


「私、箱入り娘なんです。わかります?」

「……わかります」


「え! 古い言葉なのに、知ってるなんて凄いですね!」

「四ツ角さんこそ、お若いのに」


 ダンボールがカサコソ音を立てる。照れているのだろう。


 三日もつきっきりで接しているので、だんだん彼女の喜怒哀楽が感じられるようになってきた。


 不思議だ。他人の感情にこんなに疎い自分だったのに。人間に興味がなかったと言ってもいい。それが、まさか箱を被った、顔の見えない少女の感情に、ここまで敏感になれるなんて。


 もしかしたら、箱を被っていて、顔が見えないからこそいいのかもしれない。余計な仕草や表情に惑わされることなく、彼女の言葉それ自体が意味を持つ。情報が少ないからこそ、こちらから汲み取ろうと寄り添うのだ。


 他の人はどうしているのだろう。

 彼女は他の同僚たちと、会話できているのだろうか。


 休憩室を覗き見たら、社員を含めて他の人たちはみんな、彼女から距離をとっていた。ほとんど機能不全のような空気が漂っている。


 人と関わるのが苦手な連中が気軽に働ける場所だ。こんなイレギュラーには困惑して当然だ。かくいう私だって、教育係に任命されていなかったら、同じような距離感だっただろう。


 退勤時間に「お疲れ様でした。今日も色々と教えてくださってありがとうございます」と、私に深々頭を下げて――いるように感じられるが実際には直立のダンボールがちょっと傾いただけで――帰宅していく四ツ角さんを見送りながら、もったいないと私は思った。


 彼女を避けている人々に、もったいないと言いたくなったのだ。


 彼女はいい人だ。彼女と話すと気持ちがいい。爽やかで、明るく善良な気分になれる。一日が良いものに思え、生活の、他の部分にまで良い影響を与える。人生を前向きに捉えられる。


 彼女と距離を取り、彼女と関わらないでいるなんて、彼女に対して失礼だし、なにより損をしている。


 しかし、私ごときが周囲に注意できるわけでもないし、みんなよそよそしい態度なだけで、いじめなどの目に見えた実害が及んでいるわけでもない。彼女自身がやりづらさを訴えてきたわけでもないのに、いきなり彼女との積極的な交流を求めても、今度は私が立場を悪くするだけだろう。


 最悪、でしゃばりだと思われて彼女にまで嫌われるかもしれない。

 私はとうとうそれを恐れはじめていた。


「仕事はどうですか?」

と、それとなく聞いてみた。


「教え方がうまいので、基本的なことはだいぶわかってきたと思います」

「いいえ、それは四ツ角さんの覚えが早いからですよ。それに、基本どころか応用も問題ないと思います。そろそろ独り立ちでもいいかもしれません」


「え?」

と、彼女は動揺した。


 ダンボールはなにひとつ変わっていないのだが、動揺していると感じ取れた。


 一人ではまだ不安だといいたいのだろうか。


 私は薄茶色のボール紙の向こうからそれを察した。


「大丈夫ですよ。一人といっても、倉庫に一人きりになるわけじゃありません。私はすぐそこにいますので、何かあればいつでも、小さなことでも聞いてください。独り立ちしたからって、いきなり質問を受け付けなくなるわけじゃないですから」


「あ、そ、そうですよね。すみません。私、そういう初歩的なことも知らなくて」

「いえいえ。誰にだって初めてはありますから。今みたいなことも、全然聞いてくれて構いませんので」


「ありがとうございます」

と、お辞儀をして――いるように見え――、彼女はぽつりと続けた。聞こえるか聞こえないかのくぐもった声で。

「ちょっと寂しいな、と思ってしまって……」


 私がそれを聞き返すより早く、彼女は「休憩時間です」と、去っていってしまった。


 今のは……どういう意味なんだ……?


 意識して妙な空気にしてしまってはまずいと、深く考えそうになる思考を追い出して、私も休憩室へと向かう。


 私にはある作戦があったのだ。みんなの前で積極的に彼女に話しかけることで、彼女を輪の中へ入れていこうと思っていたのだ。こうなっては実行するのにためらいが出てしまうけれど、でもやろうと決めたことだ。


 ちょうど話せる社員さんがいたのをいいことに、彼の趣味の話題から「ねぇ、四ツ角さん」と、名前を呼んで振ってみる。


 彼女は戸惑いながらも、嬉々として乗ってきた。


 そんなことを繰り返して数日、職場は和気藹々とした楽しい雰囲気に変わっていった。彼女の頑張り屋さんで気配り上手なところが、小さな会社全体に浸透しているようだった。老若男女問わず、みんなすっかり気を許している。老若……、男女……、特に独身の、彼女なしの、若い男……



「四ツ角さん、もしよかったら、今度ロングで入る日が被ったとき、お昼一緒に行きませんか」


 思わず誘ってしまってから、盛大に後悔した。


 断られたらどうしよう。いや、断られるに決まっている。急にお昼に誘うだなんて、変な意味に取られたらどうするんだ。私たちはただのバイトの同僚。しかも教える側と教わる側。立場上、彼女は圧倒的に断りにくい。パワハラじゃないか。


 やっぱりなんでもないですと、適当な言い訳を作って撤回しようと思った時だった。


「いいんですか?」

と、彼女は瞳を輝かせた。


「いいもなにも、こちらから誘っているんで、四ツ角さんこそいいんですか」

「はい。私、ロングシフトにはまだ入ったことなかったんですが、そのときはお弁当にしようって思ってたんです。でもそれは節約というより、この辺でどこへ食べに出ていいかわからなかったので。お店を教えてもらえると、今後のためにも助かります」


「じゃあシフトが決まったら、ぜひ」

と、別れてから〝食事〟で、よかったのだろうかという不安に苛まれた。



 美には基準がある。

 そうじゃなかったら、ミロのビーナスやミケランジェロのダビデが〝美しい〟なんて、誰も思わなくなる。


 シンメトリーであったり黄金比であったり、美しさは数学的で、普遍的なのだ。


 だから私を含め、美の基準から離れている人間は〝不細工〟と言われる。それぞれのパーツが美しいだけでは足りず、大きさや位置も大事だ。要するに、バランスだ。


 さて四ツ角さんは、完璧なシンメトリーだ。そこは確かに美しい。いつも折り目正しく、角も曲がっていない。使い古されてしなしなになったのとは違う。


 しかしそれはあくまでもダンボール。彼女を覆う箱にすぎない。


 中の顔を、私は見たことがない。

 中身がものすごい美形で、あまりの可愛さに両親が心配して箱を被せたのではないだろうか。


 知りたい。

 もっと彼女のことを。彼女という人間そのものを知りたい。


 無味乾燥な箱じゃない、生身の彼女のことだ。


 そして勤務時間中に少しずつ彼女を知っていき、知れば知るほど私は、彼女を……

 続く言葉に戸惑った。


 けれども、認めざるを得ない。


 私は彼女を、好きになっていく。


 あの薄茶色の四角を取り払ったとき、そこにいるのが見るに耐えない化け物だったら、この気持ちは消えてしまうだろうか。見えないからこそ期待して、美化させているのではないか。人は、全て見えている状態よりも、部分的に見えているものの方が好ましく感じてしまうのではなかろうか。


 私はちょっとした引っ掛かりを、彼女の神秘性に惑わされて、見ないふりしているんじゃないだろうか。


 そもそも箱を被っている女性を好きだなんて、どうかしている。

 まさか私は、箱に恋をしているのだろうか。

 箱。

 四角い箱。

 どこにでもあるダンボール。

 毎日のようにバイトで触れるそれ。

 あまりにも私の生活に馴染んだ、薄茶色の頑丈な紙の箱。

 箱に恋だって?

 馬鹿馬鹿しい。

 間抜けな考えにも程がある。



 その日が、ついにやってきた。


 先週、シフトが決まってすぐに彼女から声をかけられ、火曜日にランチということになっていた。


 時間になると、四ツ角さんは小走りに私のところへやってきた。その足取りや音に、転ばないか心配してしまう私は、まだまだダンボール初級者もいいところだ。こんなことで、彼女ともっと親しく、仕事を超えた付き合いなんかできるのだろうか。


 ……ダンボール初級者ってなんだよ。


 自分の考えに、つい自分でツッコミを入れてしまう。

 こんな自分は珍しい。

 人生は、毎日淡々と進んでいただけだったのに。


「お昼、連れてってください!」

 その頼み方は、いかにも愛らしい。

 これがの女性だったら、上目遣いにこっちをうかがってくる感じだろうか。


 しかし私は、もはやダンボールの中にその姿を見出しているわけではなかった。現実にいない、想像の中の少女を、その薄茶色のスクリーンに映し出しているわけでもない。


 私はただ、この現実をもってして「可愛らしい」と感じたのだ。これこそがまさにだった。


「近い和食とちょっと歩く洋食、どっちがいい?」

「えーと」と彼女は首をかしげた。「和食の気分です」


「和食だと、焼き魚が売りの定食屋なんだけど」

「うわー、おいしそう。私、家でも和食派なんです」


「了解」

 私たちは並んで住宅街へと足を向けた。


 よもや昨晩眠れなくなるほど頭を悩ませた、『彼女はどうやってご飯を食べるのだろうか』という疑問は、晴れた空の彼方へ吹き飛んでいた。


 よしんば、パンやおにぎりならある程度想像がついていたものの、和食をチョイスされたことも。もしも昨日までの私だったら、ド肝を抜かれていたことだろう。


 和食だ。

 ご飯と味噌汁。そして魚。おしんこ。


 いったい……どうやって……。


 しかしその疑問は解消されなかった。


 店の戸を開けて「二人」と告げると、こちらを凝視した店主が首を振ったのだ。


「!! ……すいませんねぇ、あいにく満席で」


 戸を閉めてから、目の端に空いた座敷席が見えていたことを思い出した。シナプスが繋がるのが、ほんの一秒遅かった。あの最初の驚きの表情からの一拍は、つまりそういうことだ。


「そうですか。じゃあ……、他に何かありますか」

「じゃあ、洋食の方に行こうか。方向は同じだから」


 僕らは平気なふりをして歩き始めた。何もなかった。何も言われなかった。

 和食屋の店主は、明らかに彼女の姿を見て首を振ったのだ。


 ダンボール被った人はお断り。


 そのセリフそのものを言われたわけじゃない。はっきりと、ひどい言葉を投げつけられたわけじゃない。


 だけどは確かにそこにあった。


 店主は彼女を見て、一瞬のうちに驚いて、戸惑って、考えて、判断した。消極的で保守的で保身的な選択をした。それがどれほど我々を、彼女自身を、ひどく傷つけるかなんて思いもしないで。


 これが、マイクロ・アグレッションってやつなのか……

 やはり世間は恐ろしい。四ツ角さんのお父さんの言うとおりだ。

 いや、元はと言えば、お父さんが箱入りにしたせいじゃないか?


 私は歩く方向を間違えてしまっていた。


「あ、ごめん、ずいぶん手前を曲がらなきゃいけないんだった。ちょっと考え事しちゃってて……」

「あ、ケバブです」


 彼女の声に顔をあげると、普段は通らない道にキッチンカーが止まっていた。


「ケバブにしちゃいます? なんか運命的ですし」

 四ツ角さんのイタズラっぽい声に、私は思わず笑みがこぼれた。


「そうだね、そうしよう」

 私たちはなんだか浮かれて、小走りにキッチンカーへ近づいた。


 小麦色の肌をした爽やかな異国の青年は、私たちになんの躊躇もなく大盛りのケバブを差し出してくれた。


 あまつさえ、「Nice」と親指を立てて白い歯で微笑む。一体なにがどうナイスだったのかはわからないが、あんな目に遭った後のその微笑みは、心にじんと染み渡り、ケバブの味を最大に引き上げてくれた。


 彼女がどうやって食べたかなど、どうでも良くなっていた。


 おおかた、予想どおりではあったが。




 その日以来、私と四ツ角さんは一気に距離を縮めていった。


 残念ながら彼女はスマートフォンはおろかガラケーも持たせてもらえていないので、連絡先を交換することは叶わなかったが、昼食はお互い持ち寄ったお弁当を、みんなが使う休憩室ではない場所で一緒に食べたり、午前中で退勤する彼女と、午後のために昼食を取る私とで、またケバブを食べにいったりと、まるで学生のような初々しい〝デートもどき〟を重ねた。


 それは私にとって、とてもすばらしい時間だった。

 そういう時間が積み重なっていけば必ず、次の展開を考えてしまう。


 いつだったか、『最近の若者は〜』から始まる嫌味っぽい記事で「告白」や「お付き合い」というものの質が変わってきていると見たことがある。


 今の若者たちは「好きです付き合ってください」という〝契約〟をして初めて、デートや手を繋いで歩くというような親密さの領域に入るのだという。そこには友情と愛情の明確な線引きがなされるのだと。それを読んで驚いた。それじゃあ逆に、前時代における〝お付き合い〟には、どんな付き合い方があったのかと不思議に思った。


 答えは同じ記事にすぐ書いてあった。二世代ほど前のバブルな頃には「なんとなく好きかも」「ちょっとキスしてみた」なんていう曖昧な関係があったのだという。それでお互いに反応を確かめ合ったりして、いけそうだと感じたら告白する。いわば告白は最終確認で、どちらかといえば「俺たち、これは付き合ってるでいいよね?」というようなものだったのだそうだ。


 驚愕だ。

 それって、大丈夫?

 だって曖昧な状況のときに、他の人とデートしたりキスしたら?

 それはアリなの?


 記事は続く。


 今の人は〝告白=契約〟ありきではっきりとした境界線を設けてから付き合い始める。それが故に、互いが互いを所有しているような感覚に陥り、だから〝浮気=大罪〟になりえるのだと。


 契約が緩い、あるいはないのなら、たとえ浮気をしたところで「お目とは別に付き合ってるつもりじゃなかった」がまかりとおる。


 私は、そういった齟齬やトラブルを避けるためにきちんとした契約的告白が必要なのだと思っていた。いわば告白はリスクヘッジだ。だがそれが、互いを縛る足枷となってしまうのなら……?


 四ツ角さんは、もちろん最近の若者だ。


 私はそれより少しばかり年上なので、どちらの感覚にも驚きながら理解できないというわけではない。


 今の若者には、「今日から恋人同士という契約を結んでください」とはっきり告げるのがよいという。


 それならもしかしたら、四ツ角さんも私たちのこの曖昧な関係を快く思っていないのではないだろうか。


 世代で区切るなんてナンセンスだが、やはり同世代の常識というのは染み付いているものだろうし。



 そんな回りくどいことを悶々と考えてしまうほどに、私は彼女に本気になっていた。


 告白が契約なのだとしたら、その枷の中に、ダンボールは含まれるのだろうか。付き合っているのなら、あのダンボールを外してくれと、俺は言えるのだろうか。


 これが曖昧な関係の積み重ねなら、どうだろうか。


 だけどもう、結論はずいぶん前から出ている。


 告白が契約だろうが確認だろうが、私の答えは一つだ。


 彼女のいいようにしたい。


 彼女がダンボールをかぶっていたいというのなら、それでいいと思う。苦労はあるだろう。だけど、あの和食屋の店主のような人々の、細かくて小さくて、まるで微弱な電流が一瞬だけ流れるような、痛みとも取れないような、しかし確実に傷となってそこに残る痛みを、私でよければ彼女と分け合いたい。


 いいや、彼女が痛むくらいなら、私がそれを引き受けたい。


 そして彼女がダンボールを脱ぎたいのに、なんらかの事情があってできないというのなら、その支障を一緒に取り除きたい。


 同じことが自分にもいえた。


 私になにか難があるなら、それを炙り出して、昇華していく相手は、彼女がいい。

 彼女はどう思っているのだろうか。


 彼女は、私をどう思っているのだろうか……。



 思いは深く、強かった。

 けれど言葉は単純だった。

 シンプルなものを私は選んだ。


「四ツ角さん……、私は君が好きです」


 彼女は頬をあからめた。いや頬ってどこだよ。


 だいたいどこも赤くなってなんかいない。


「う、嬉しいです……」

と、彼女は、こちらこそ嬉しくなる返事をしてくれた。だが、続けて悲しい言葉も。


「でも、私、見た目に自信がなくて……こんな私で、いいんですか……?」


「大事なのは外身じゃない! 中身だ!」


 彼女のダンボールがカサカサと鳴った。


 照れている。


 私は次に、何を言えばいいのかわからない。


 告白したときって、そのあとどうしたらいいのか。するまでやお付き合いの実践についてはあらゆる指南があっても、この〝間〟の対処法はない。


 四ツ角さんが口を開くまでが、永遠のように思えた。


「あなたは、すごくいい人だし……、私も好きなんですけど、でもお父さんは私たちの交際を許さないと思う……」


 箱入りだなー。




 私たちは休みを揃えて、二人で出かけることにした。


 デートだ。


 お父さんは許さないとのことだったが、お母さんは応援してくれているそうで、うまく言い訳しておいてくれているとのこと。気苦労が絶えないが、そういう古風なところも悪くないと思えるようになっていた。良い面を見れば、それだけ両親思いだということだ。


「今日はデートだから、おしゃれしてきちゃった」

と、あれ以来いくぶん砕けた調子の彼女。


 上がみかんの箱になっていた。温州みかんだ。


 二人並んで歩く阿佐ヶ谷。みんなの視線が冷ややかに突き刺さる。


「箱が歩いてる……」


 聞こえてんだぞ! 箱がなんだ! 彼女はすごくいい子だ!


 私はさっと彼女の手を取った。

 四ツ角さんの緊張が伝わってくる。箱越しではない、リアルな、彼女の体温だ。

 ひそひそ声が増える。


「手ぇ繋いでる」

「デートか?」

「引率じゃないか?」

「新種捕獲?」


 聞こえない。なにも聞こえない。耳なんか持つか。


 私は今、最高に幸せだ。


 お前たちのようなうわべでものを判断するつまらない連中には一生わからないような、深い幸せを私は今味わっているんだ。


「本当に、私でいいんですか……、こんな……」

「はい。あなたがいいんです」


 そうして私たちは幾多の門前払いを乗り越えて、六軒目のファミレスで食事をとった。


 外はすっかり夜だ。


「今日はありがとうございました」

「こんなに遅くなっちゃって、大丈夫?」

「うん。今日は母が許してくれているから大丈夫」

「それもそうだけど、帰宅ラッシュの時間だから……その、せっかくのおしゃれが汚れちゃわないか心配で」


 箱がぐしゃっとならないだろうか……

 意図を汲み取ったのか、彼女はクスッと笑ってくれた。


「タクシーを呼ぶから大丈夫だよ」

「なるほど」


 ところがその時、思いもよらないことが起きた。


 ハイヤーのような黒塗りの車が駅前に滑り込んでくるや、後部座席から降りてきたのが、箱。


 角の綺麗な立派なダンボールが二つ降りてきたのだ。


 私の隣では、明らかに彼女が動揺している。


「お、お父さん! お母さんまで!」


「こんな遅くまで、何やってるんだ!」

と、父は娘の腕を掴み、母はそれを諌めようとしながらもオロオロしつつ、私の方へぺこぺこと頭を下げる。


 嵐のような一団が車で去っていくのを、私はぼんやり見送ってしまった。


 まるで蚊帳の外のようだった。


「あ、そういう種族だったのか……」 


 妙に納得してしまった。


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