第25話

『気を落としておるのではないかと、心配している。一度会いたい』

 ほんの少し前までなら小躍りどころか王宮中を飛び跳ねて喜びながら二つ返事で受け入れていったであろうシャルロッテの申し出を、アンリは頑ななまでに固辞した。

「いいのか、アンリ、もうすぐ出立ではないか。一度エルピス島に行ってしまえば、しばらくの間シャーリーに会うことは叶わんのだぞ。お前にそれが耐えられるのか?しっかりと顔を見てから行けばいいではないか」

 マーガレットがそう言っても、アンリは頑として自分の考えを変えようとしない。

「いいえ姉上、今の私にはそのような心の度量がないのです。一目会ってしまえば、シャーリーと離れたくないというその気持ちで心が占められてしまうでしょう。しかし、それではいけないのです。私はシャーリーを、彼女を守るとこの胸に誓ったのですから!この先の何十年、いやできれば百年までもシャーリーと一緒に過ごすために、そのためにこの出立までの短い期間をすべて鍛錬に当てなければいけないのです」


【まったく、この弟ときたらシャーリーに対する愛情表現といい、此度のことといい、一度こうと決めたら梃子でも動かない意固地なところがあるな、田舎から帰ってからすっかり丈夫になりめきめきと剣術や馬術の腕を上げたが、普段はやはりふわふわとしたつかみどころのない、どこかぼんやりとした弟だと思っておったが、それは我の目が弟大事さに少々曇っていたようだな。しかし、そこまで大事に思うているのなら、むしろ顔を見てから出立した方が心構えができるのではないかと、我は思うのだがな】


 マーガレットのそんな思いをよそに、アンリは寝る間を惜しんで城に残った衛兵と主に剣術、そして来たるセプテントゥリオーネス帝国との決戦に備えて、騎乗しながら剣をふるい、槍を射る騎馬戦の特訓に明け暮れていた。

 遠征の度にサンセット連合王国の兵士たちに追い返されてはいたものの、セプテントゥリオーネスは古くから北の覇者であり、稲妻のように矢を射る騎兵たちは長らく恐れられてきたのだ。

 例え武芸に優れているとみなが認めるアンリであっても、十七歳の初陣、少しの油断も許されないことは本人が一番わかっていた。

【侍女伝えに渡ってきた手紙には一言も書いていなかったけれど、シャーリーはきっとあのライ麦のビスケットの騒動について私が気に病んでいるのではと思って、心配しているのだろうな。そんな理由であってもシャーリーの方から会いたいと言ってくれたのは、正直言ってスキップして国中を跳ねまわりたいくらいうれしいんだ。ビスケットのことだって、もう誤解は晴れたんだよ、心配してくれなくても大丈夫だよ。そう言って安心させてあげたい。でもやっぱり、今は会うわけにはいかないんだ。シャーリーを守るために、シャーリーのいるこの連合王国を守り抜いて、そうして強い男になってから。会うのはそれまで我慢しようってそう決めたんだから】


 そんな思いがあるのならば手紙でも書いて知らせればいいようなものだが、アンリにはそれができない理由があった。


「なぁアンリ、帰ってくるまで会わないとそう決めたのはわかった。我もお前の気持ちを尊重したいと思う。だがな、シャーリーはお前が戦地に立つということを知らんのだぞ、訳もわからず会えない、今は会えないと、侍女伝えに聞かされているだけだ。せめてお前がここから離れるということを文にしたためたらどうなのだ」

「それはできません、姉上!私が戦地に行くなどと知ったら、シャーリーはとても心配するでしょう。小さな胸が張り裂けんばかりに痛んでしまうかもしれません、そんなこと私には耐えられない、あの子には何も心配せずににこにこ笑って欲しいのですから」

「しかし、いつまでもお前が王宮にいなければ、シャーリーは何かあったのではないかと結局心配すると思うがな」

「そこは姉上が上手くおやりになってくださいよ。私はクジラを追って船旅に出ただとか、吟遊詩人としていくらだって言いようがあるではありませんかっ!」

「いや、それはそれでかなり心配するであろうよ」


 船旅、そして諸国を漫遊する吟遊詩人、どちらも体が弱く外出もままならなかった頃のアンリの夢だ。

 自由に世界を行き来する。幼心の夢とすれば可愛いものであり、マーガレットもそんな弟の夢を微笑ましく思っていたのだが、こんな状況で突拍子もなく言われると少々呆気に取られてしまう。

 シャルロッテシャーリーにとってもそれは同じだろう。


【こと恋に関しては朴念仁で疎いが、無邪気さに覆い隠されて分かりづらいがあぁ見えてシャーリーは人の気持ちの機微に我などよりよほど聡いところがあるからな、こんな言い訳はすぐに嘘だと見抜くだろう。まぁ、実際我がかわいい弟のアンリは、やれクジラを追って船に乗っただの、吟遊詩人として諸国を回っているだのそんなことを言わされたら、我は噴き出さずに言い切ることができる自信もないからな。アンリは剣術武芸の才は秀でたものがあり士官学校や王侯貴族の子弟たちの馬上槍試合でも負け知らずだが、文才においてはさっぱりだからな、シャーリーに告げる愛の言葉を聞いてみれば素直な言葉ではあるが、ロマンティックな誌的なものが一切ないからな、まぁ、そこのところは確かに我の弟といったところか】


 マーガレットは弟の気持ちを汲み、シャルロッテに彼が戦地に赴くことを告げることはなかった。

 しかし、アンリの出立のその日の朝に、彼女を王宮の執務室へと呼びだした。


「マーガレット王太女殿下、お招きいただきありがとうございます」

 深々と頭を下げるシャルロッテの肩を、マーガレットはポンポンと叩く。

「だから我の前ではそんな堅苦しいあいさつは無用だと、何度も言っておるだろう。さて、無駄な話は抜きだ。シャーリー、お前は我がここに呼んだ理由を気付いておるだろう?」

「アン、アンに何か起きてるんか!?無事だっぺか」

 大きな目をカッと見開き、今までに見たことのないような必死な形相を浮かべるシャルロッテ、彼女にこれ以上今のアンリの現状について隠し立てすることはできない。

 しかし、弟との約束もある。

 マーガレットは一計を投じた。

「シャーリー、お前は馬に乗るのが幼き日より好きだったな?」

「はぁ、昔ちんまい時にマーガレット殿下の馬に乗せてもらったことしかねぇけんど、アン時は楽しがったな」

「なら、今から我とともに来い、お前の大好きなあの白馬、レディスピードスターに久しぶりに乗せてやろう」


 何故今そんな悠長なことを?

 シャルロッテのそんな疑問は、マーガレットのきりりと真剣なまなざしを目にして吹き飛んだ。


【きっどこれはあたいにとって、何か重要なことに違いねぇ。こんなときにマーガレット様がふざけてこんなことするわけねぇ、まぁ、ふざけたことを言うこともあるけんど。この目は違う、迷っでる暇なんかねぇ】


「わがったす、乗せてくだっせ」


 レディスピードスター、その名の通りマーガレットの愛馬は疾風のように王宮を飛び出し、街の裏手の小道を駆け抜け、川辺の砂利道も難なく駆け抜け、そうして王族が諸外国へ出立するときに使われる港へとあっという間にたどり着いた。


「アンリはな、しばらく遠くへ行くんだ。どこへ行くかは我の口からは、まだ言えん。シャーリーの面会を固辞していたのはこれが理由だ。本当はお前からの文を読んだとき口元がだらしなく緩んでこころが跳ねておったのだよ。しかしな、やはり我はそのままにしておくことはできなかった」


 これから旅立とうとする故郷、その遠ざかる港をじっと見つめていたアンリの目には、早馬で駆け抜けてきた姉とその背中にしがみつく愛しい人の姿が見えた。

 どんなに遠めであっても、やはり太陽のように眩しく光って見えたのだ。


「シャーリー、シャーリー、私は必ずやり遂げるから、そして無事に帰ってきたらその足で君に会いに行く。今度こそ君にきちんと愛を告白するからー!!」

 精いっぱいの叫び声、その時豆粒のようなシャーリーがにっこり笑って頷いてくれたようにアンリの目には見えた。

 大きな汽笛の隙間から、果たしてその声は聞こえたのか、聞こえなかったのか。


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