第23話

 マーガレットが箝口令を敷いてはいたが、エルピス島でクーデターが起きたことは王宮のアンリの耳にも届いていた。

 自分の誕生日の祝いとして配られたライ麦の菓子が、全ての元凶である。そんな噂を耳にしたアンリは思い悩んでいた。

【マーガレット姉さまはそれは誤解だとおっしゃっていたけれど、あんな陽気にはしゃいでいた自分が今は実に恥ずかしく思える。シャーリーとコーネリア、両手に花の王子などと冷やかされて、いい気になってけらけら笑って踊っていただなんて、そのころ国民たちは、毒に侵された食物を口にしていたんだ。王宮から配られた菓子の原料であるライ麦は、厳しく検査されていて菌に侵されていないことが判明したとはいえ、国民たちはそんな検査などされていないライ麦のパンを食べていたんだ。私は甘えていた。女王になるのは姉さまなのだと、自分はこの王国の政治の表舞台に立つことはない、姉さまを支えていけばいいと。でも、それは油断だったんだ。こんな時に姉さまの役に全く立てていない、あまつさえこのクーデターについて、姉さまの口から直に訊くことはできなかった。高官たちの立ち話で知ることになるなんて】


 アンリは国民の苦悩、そして姉であるマーガレットの苦悩を想って胸を痛める。

【あぁ、シャーリーもきっと悩んでいるだろうな、あの子はとてもやさしい子だもの。こんなことになってしまったら、パーティーのこととか後悔しているに違いない】

 そんな時でも、やはりシャルロッテのことは胸を大きく占めているのだったが。


 しかし、どんなに心配であったとしても、アンリは離宮へとシャルロッテを訪ねようとはしなかった。

 今までのアンリであったら、いの一番に彼女の元へと駆け付けていたであろうに。


【本当はシャーリーの顔が見たい、一目でいいから、そして一言声を掛けたい。君は何も心配しなくていいんだよ。私が君を守ってあげる、だから、安心していてって】

 しかし、出来なかった。

【けれど、私にそんなことを言う資格があるというのだろうか。私はこの十七年間一体何をしてきたというんだ。幼き日は姉さまの影に隠れ、田舎でもシャーリーに守ってもらっていただけだった。それで彼女を守るだなんて、この口で言えるのか?図体ばかり大きくなって、弱虫のままじゃないか】


 ウドの大木、はたしてアンリ王子へのまわりの評価はそうではなかった。

 確かに子供のころは虚弱ではあったが、王都に戻ってからの彼は別人のように剣術の稽古に励み、その腕前はひいき目なしに見ても士官学校の誰よりも優れていたのだ。

 それは、いずれ再会した時にシャーリーに弱虫だった自分のイメージを払拭したい、強い男だと思って欲しい、彼女を守りたい。などといったやはりシャーリーへの恋心ゆえの努力であり、鍛錬だったのだが。


「ふむ、平和なこの世では腕を揮う機会もないかもしれませんが、この腕前は世が世なら勇猛果敢な猛将として、歴史に名を残したかもしれませんな」

 士官学校の校長の忌憚なき意見も、お世辞だと思っていたアンリは自分の強さに気づいていなかった。

 しかし、今のこの状況になって見ると、あの言葉がまざまざと脳裏に蘇ってくる。


【校長のあの言葉は真に心から出たものだったのだろうか、私は本当に戦場でシャーリーの、姉さまのいるこの国を守ることができるのだろうか、もし、あの言葉が本当なら…】


 アンリの胸からはいつの間にかいじうじとした苦悩の灰色の雲が消え去り、お日様のようににこにことしたシャーリーの笑顔が浮かんでいた。


【あの笑顔を守るためなら私は何だってできる。シャーリーが笑っていてくれるなら、私は…】


「マーガレット姉上、いえ、摂政殿下、私をエルピス島へと行かせてください。一兵士としてで構いません、きっとクーデターを鎮圧してこの国に平和を取り戻してみせます!」

 今までになく力強い弟の声、そして凛々しく凛とした表情、背が伸びすぎたのを気にしてかいつもどこか猫背気味だったのにぴんと伸びた背筋、そのどれもがマーガレットを驚かせた。

 しかし、一番驚かなければならないのはその言葉の内容だ。


「何を寝ぼけたことを言っているんだアンリ、お前は戦場になど一度も出たことが無いだろう」

「はいそうです。でも誰だって始めはそうですよね?勇猛果敢な英雄デセラ近衛隊長だって、最初はそうだったはずです。見てください姉上、私の目はぱっちりと開いているでしょう。今までにないくらいすがすがしい気分なんです、眠くなんてありません」

「そ、それもそうだが…」

 思いがけずウイリアム・デセラの名がアンリの口から飛び出して、マーガレットは少し動揺する。

 しかし、こんなことでひるんではいられない。

 大事な弟、マーガレット個人にとってだけではなく、自分に何かあったときにこの国の未来を担う弟の一大事なのだ。

「アンリ、エルピス島は小さな島だ。島民たちも正式な兵士の訓練を受けたものはいない、だから島に行ったデセラ近衛隊長を含め、島民を無駄に傷つけるような必要以上の鎮圧はしていない。けどな、以前からあの島を足掛かりに南方へと進出しようと狙っている北の大国、セプテントゥリオーネス帝国がこの機会に大軍を送り出す準備をしているとの情報が入っているんだ。これは小さな一地方のクーデターでおさまらないかもしれないんだぞ、お前に何かあったらシャーリーはどうなるんだ。この王都で守ってやらないといけないだろう。お前にとって誰よりも、何よりも大切な人だろう?」

「えぇ、シャーリーは私の命です!ですから、彼女を守るために私はエルピス島へ行くのです、シャーリーに平和な世界でずっと笑ってもらっているために!」


 いくらシャーリーのこととはいえ、ここまで頑として自分の意見を曲げない弟は珍しい。

 マーガレットは少々困惑する。

「けどな、お前に何かあったらこの国はどうなるんだ。いよいよ北の大国が兵を送り出したと情報が来たら、我がかの地へと赴くつもりなんだよ。元々は我が忙しさにかまけてかの地を訪れなかったのが此度の不審へと繋がっているという話も耳にしていてな、このクーデターはそもそも我の責任でもあるのだ。ライ麦の病にも事前に察知できず中毒者が出てしまったこともな、だからすべて我に任せろ、我なら戦場での経験も豊富とは言えないまでも幾たびもあるからな」

 しかし、弟を戦地へ送り出すわけにはいかないのだ。


「何をおっしゃるのです姉上、姉上がいらっしゃらねば誰がこの国の内政をするというのです」

「だから、アンリ、お前が」

「この私に政治ができるとお思いですか!」

 余りにきっぱりとしたその物言いに、マーガレットは思わず噴き出しそうになってしまうのを、なんとか堪えた。

「それは、大臣たちに教えを問うてだな」

「差し迫ったこの状況にそんな悠長なことはいっていられません!姉上がいなくなったらこの国の内部はガタガタになってしまう。それこそ、相手方の、敵の思うつぼです」

「しかし、我がいかねば誰が軍を鼓舞するというのだ、セラ女王ならば」

 そう、彼女なら国を空けても大丈夫なようにきちんと準備して、なおかつ戦地でも敵を華麗に撃退したはずだ。

「姉さまはセラ女王じゃありません!」

「そうだな、我など…」

【足元にも及ばないどころではない、彼女の影の端にすら我が足は届かないではないか】

「違います、ご自分を卑下なさらないで、確かにセラ女王は素晴らしい。けれど姉さまは姉さまにしかできない政治でこの国を安定させてきた。恋もせず一個人としての自分の全てを投げ打ってまで、私はそんな姉さまをずっと尊敬してきました。私が守りたいのはシャーリーだけじゃない。姉さまのこともなんです。私は行きます。大事な人たちを守るために」

 梃子でも動かないアンリの固い決意に、マーガレットは小さく頷くしかなかった。


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