第21話

「ねぇ、とうちゃん、もあもあした黒い影が見えるんだ」

「何バカなことを言っているんだ。もう夜更けだぞ、お祭りはもうとっくに終わっただろう。菓子はもうないぞ、ふざけていないで早く寝なさい」

「わー、わー、黒い影が来るよ。怖いよ、こわいよぉ、わぁ、足元まで近づいてきた、大きいお口を開けて、ガバっと僕を食べようとしてる。ひぃぃ、ひいー」

「おい、おい、ポーキー、どうしたんだ。しっかり、しっかりしろ、おい母さん、早くこっちへ来てくれ、ポーキーが泡を吹いて倒れちまった。あぁ、あぁ、手や足がぶるぶる震えている、一体どうしたんだ、あぁ、早く医者に、ムル先生に見てもらわなきゃ」

「あなた、もうこんな夜更けなのよ!ムル先生のところに行っても、診てもらえやしないわよ」

「じゃあ、どうしろって言うんだ。お前は、このままポーキーを見殺しにするのか!それでも母親か!」

「なんてこと言うのよ、このままになんてしておけるわけないじゃない、でもあたしだってどうしたらいいかわからないのよ」

「とにかくムル先生のところに連れて行くんだ。話はそれからだ」


 西の大陸で最初の麦角中毒者が出たのは、アンリ王子の17歳の誕生日パーティーから一週間と三日後のことだった。

 当日振舞われた菓子を食べた子供たちが次々に幻覚症状を引き起こし、あるものは腹部に激痛があると訴え、またあるものは手足が痙攣しひぃひぃぴゅーぴゅーと息を漏らし、呼吸困難となった。

 大人にもその症状は現れ、子供とともにパンケーキとクッキーを食べた妊婦は、お腹の中にいた新しい命を失い、その夫である漁師は壊死してしまった右腕を失った。

 子供たち、そして大人たちに共通していたのは、程度の差はあったものの手足がインクをかけたように黒ずむといった症状だった。

 そして、ひどいものになるとまるで腕や足が焼け焦げたようになり、腕や足を失うといった事態にまでなってしまったのだ。

 多くの患者を診た国境付近の港町の町医者であるムルは、これは町の人々が共通して食べたライ麦に毒が含まれていたものと考えられると国中の高名な医師たち、そして新聞社に手紙を送った。

「これは由々しい事態だ、私にはこのライ麦の食品に含まれた毒による中毒症状をどうすることもできない。高名な学者の皆様、どうかこの毒を何とかしてください」

 ろくに睡眠も取ることもできず疲弊しきっていたムル医師は、この時大きな過ちを起こしてしまった。

 ライ麦自体が侵されてしまった毒と言えば良かったものを、食品に含まれた毒と記してしまい、そのことが首都新聞により国中に流布されてしまったのだ。

『サンセット連合王国の王子の誕生日を記念して振舞われたライ麦の菓子に、毒混入の疑い』

 しかして、新聞にはそう書かれていただけだったのだが、共和国の国民にはまるで伝言ゲームのように、それが誤って伝わっていく。

 フリフワ共和国の国民の半数以上を占める農民たちは新聞というものがあることも知らず、そのほとんどが字も読めない。

 けれど、まず初めに農民に新聞の記事を伝えたものがいた。

「なぁ、俺街の新聞を読んだんだけどさ、港町、サンセット連合王国との国境付近で毒の混じった菓子を食わされた子供らがバタバタと倒れているらしいぜ、腹の大きい女は赤ん坊を失ったそうだ。新しい毒の実験なんて話も出てるぜ、恐ろしいよな、実に恐ろしい。王族やら貴族ってのは我々庶民を家畜扱いしてるってことだろうな」

「なんてことだ、このフリフワ共和国とサンセット連合王国はうまくいっていると思っていたのに!まさか、子供たちに配る菓子に毒を混ぜ込むとは!」

「そうだそうだ、わしらはあの王国の家来でも何でもないんだぞ、それなのにこんな目にあわされるなんて」

 そうして、サンセット王国がフリフワ共和国に対して毒を撒いたという話は、尾ひれに尾ひれがつきあっという間に国中に広がっていった。

 ムル医師がそのことに気づいたときには、もう時は遅すぎた。

 振舞われた菓子を食べていない、大陸の中央部の農民たちが次々と同じような中毒症状を引き起こしてバタバタと倒れ、あるものは狂暴になり商店を襲い、そしてライ麦の飼葉を食べていた馬たちが同じような症状を引き起こして命を失っても、もはやフリフワ共和国の国民たちは、これがサンセット王国の仕業である、悪意により撒かれた毒が引き起こした事態であるという考えを拭うことはできなかった。

 離れた場所で同じ中毒症状による病人が現れたことについては、毒には伝染作用がある、やはり人体実験なのだ、いや、これは呪詛によるものに違いない。

 女だてらに国王の代理を務めているあの王太女は魔女なのではないか、あの女がフリフワ共和国に呪いをかけたのだ。

 などと非現実的なオカルトめいた話をし始める者たちも出始め、いつ自分がその呪いにかかるかと怯えた周囲の者たちはその話を丸々信じてしまう。

 麦角中毒にかかっていない者たちまでもが、集団ヒステリー状態に陥ってしまったのだ。


 そして、混乱に陥った国の状態をほくそ笑んで見つめるものがいた。

 クレール・バスティアン、この菓子毒混入事件の噂の口火を切った張本人。

 安定したフリフワ共和国とサンセット連合国の国交状態で地下に潜っていたレジスタンスのリーダー、そしてマーガレット王太女による内政の安定で居場所を失いフリフワ共和国に密入国し、機会をうかがっていた、サンセット連合王国出身のうら若き十八歳の青年であった。


 クレールこと本名ベン・フッシュマンはサンセット連合王国の西方にある港町スルーキの漁師の六男として生まれた。

 幼いときから勉学に関心があり、たまに船に乗って港に現れるフリフワ共和国の学のある旅人にねだっては文字を教えてもらい、初等学校に行く年齢になる六歳のころにはすでに読み書きができるようになっていた。

 しかし、このスルーキにはそんな子供を神童と崇め奉ってくれる大人などいない。

 そんなことより、船に乗って魚の一匹でも釣り上げろとしなる木の枝で真っ赤に腫れあがってズボンも脱げなくなるほどに、容赦なく尻を叩かれる。

 マーガレット王太女の実質的な治世となり、庶民の子でも皆学校に通うことが推奨されたが、読み書きができても何の役にも立たない、一文にもならないという父親の考えからベンは学校に行くことが出来なかった。船酔いがひどいことから父親とも仲たがいし、魚のフライを包んでいた新聞から政治学に興味を持ったベンだったが、この国の政治は王族、貴族たちが牛耳っていて、いくら自分が独学で勉強に励んだところで政治家になるチャンスなど命が尽きるその時までないのだと思うと、はらわたが煮えくり返る思いだった。

 実際には王都には王家の奨学金で大学に通い後に学者となる農民出身のものや、平等院という平民による議会もあったのだが、王都から遠く離れた港町に暮らし学校に通うことができなかったベンにはそれを知る由がなかったのだ。

 そうしてベンは、幼き頃に字を教えてくれ、フリフワ共和国の王政を倒した革命軍の一員である口髭の紳士然としたピエール・バスティアンの導きにより、サンセット連合王国から出奔した。

 とうてい自分の門出を祝福してくれているとは思えぬような荒波に何度胃液を嘔吐しても、引き返したいとは思わなかった。

 自分に学がないのは国が悪い、政治家になる夢が叶わないのは、王侯貴族が悪い、その恨みつらみはあんなに焦がれていた平等の国であるフリフワ共和国の就学率、識字率が低いことを知っても何も変わらなかった。

 むしろ、フリフワ共和国の富をサンセット連合国が吸い取っている。不平等な関係だという養父となったピエールの言葉を信じ込んだクレールは、その逆恨みとでもいうべき感情を日ごとに募らせていったのである。


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