第9話

 コーネリア・グィネヴィア・スノーブは努力の人である。

 生まれながらの美貌、頭脳明晰、そして気品に満ち溢れた立ち居振る舞い、由緒正しい家柄の持ち主、銀のスプーンをくわえて生まれた来たような恵まれた完璧な女性だと王都の皆々は誉めそやしたが、家柄以外はすべて自らの努力で手に入れてきたのだ。

 コーネリアの漆黒の流れるような美しい髪は、赤子の頃は鳥の巣のようなくしゃくしゃ頭だった。

 その上食べることが大好きだったため、よく食べる初孫に気分を良くした祖父母にさんざん甘やかされ、そのまんまるとした頬だけではなくひじやひざにもえくぼができるほどパンパンに膨れ上がっていた。

 外務大臣に任命されあちこちを飛び回る父と産後の肥立ちが悪く海辺の保養地に行ったっきりの母、両親不在のスノーブ屋敷では思う存分甘やかすだけ甘やかす大人しかおらず、もちもちぷっくりの丸々した子供を叱る人など一人もおらず、彼女はやりたい放題にくしゃくしゃ頭を振り乱してごろごろと屋敷を転げまわるように動き回っては野放図に暴れまわっていた。

 そんな生活が一変したのは、八歳になった春のとある日のことだった。

 海辺のゆったりした生活と新鮮な魚料理ですっかり元気を取り戻した母のリズベットが屋敷に舞い戻ったのだ。

 やっと待ち焦がれていた母に会える。

 抱っこしていい子いい子ってしてもらえる。

 コーネリアはワクワクして転がるようにして馬車を下りた母のもとへ向かった。

 けれど、リズベットは我が子をよけるようにして体をそらし、コーネリアが思い描いていた陽だまりのような優しい微笑みとは全く違う冷たい背筋が凍りつくような視線をぶつけ苦々しそうに眉をしかめた。

「なんですかこのまん丸は。近所の子供ですか」

 すらりとしてまるで王都の百合のようと謳われた自分の娘が、目の前の丸々とした子豚のような子供だとはちらりとも思わなかったらしい。

 コーネリアはショックを受けて、それから祖父母がどんなにちらつかせてもよだれがたれそうになっても大好きなスコーンやビスケットを我慢し裏庭でこっそりウォーキングをして、半年後にはほっそりとした体を手に入れた。

 けれど母の視線は少しも暖かくはならなかった。

 コーネリアは勉強、とくに算術が苦手だったのだ。

 父であるスノーブ卿は学者になるわけではないのだから、別に必要ない。

 侯爵令嬢なのだから礼儀作法をきちんと身に着けてしかるべきところに嫁に行けばよいのだと。

 しかし、天文学を得意とし数多の論文を発表し海の向こうでも評価されるほど学問に優れた家に生まれたリズベットにとって、それは我慢ならないことだったのだ。

 コーネリアは今度は寝る間も惜しんで勉強し、わからないところは何度も何度も家庭教師のルッター先生に質問して年長の子供でも難しいとされる公式を紙にも書かずにそらですらすらと解けるようにまでなった。

 それでもリズベットは微かな微笑みもくれない。

 コーネリアの鳥の巣頭が気に入らないのだ。

 コーネリアは祖父母にもらって貯めていたお小遣いをすべてはたいて大陸で開発されたばかりのヘアアイロンを取り寄せた。

 熱く熱した鉄の板は加減が難しく初めは内側の髪を少し焦がしてチリチリにしてしまったが徐々に扱いを覚え、十代になるころには美しい黒髪を手に入れた。

 このころになると母が自分の気に入らない面を見るときに少しだけ右目を上げる癖も察知し、先回りしてすべてを直していけるようになった。

 美しい黒髪、白すぎる肌に頬紅を少しだけ差して赤みをつける、母と違い薄すぎる唇の形は紅筆で細工して上品にぷっくりと。

 算術だけでなく天文学も学び、子供向けの大会で論文は佳作になった。

 勿論淑女のたしなみである茶会での振る舞いやダンスなども祖父母に頼んで王都から教師を呼び寄せ、すべてをトップクラスにできるようにそろえた。

 それでも母は満足してくれない。

 コーネリアが初めて母の満面の笑みを見たのは、王都で士官学校に通っている兄が夏の休暇で家に帰ってきたときだった。

「まぁ、ヨハン、お母さまあなたの帰りを待ちわびていたのよ」

 武門に入るには線が細く、百合の花のような品がありけれど華やかな自分の容姿をそっくり受けついた息子のことをリズベットは溺愛していた。

 静養している海辺の屋敷にも兄はたびたび呼ばれていたが、コーネリアはついぞ呼ばれることはなかった。

 祖父母はまだ小さいからだとぐずるコーネリアを慰めたが、成長したコーネリアには自分は兄のように母の愛を受けていないのだとわかってしまった。

 それでもコーネリアは母に微笑んでほしかった。

 百合のように顔る笑顔を自分にも向けてほしいと願っていた。

 研鑽、研鑽、研鑽、そんな毎日を送りながら十七歳になったコーネリアのもとに朗報が舞い込んだ。

 次期女王になられるマーガレット王太女のメイドオブオナー候補に選ばれたのだ。

 上機嫌の父にいつもより少しだけ柔和に見える母の顔、候補ではなく正式なメイドオブオナーに選ばれたなら、マーガレット新女王が戴冠されるときに御裾持ちを任されたなら、今度こそ母は心から喜んでくれるかもしれない。

 あなたを産んでよかったと、優しく微笑んでくれるかもしれない。

 頑張らなくちゃ、候補なんかで終わらせやしない。

 わたくしは王都で一番になる。他のどんな令嬢にもまけやしないわ!

 ちやほやされて育った甘ちゃんなんかに、絶対に負けやしない。

 王都一の女官になって女王陛下の下で学びつくしてそしていつか両親が胸を張れるような立派な家にお嫁に行くわ!

 静かに闘志を燃やし王都への準備を進めていたコーネリアのもとに、またしても新たな朗報が届く。

 どこで手に入れたのか普段乗らない蒸気自動車に乗って慌てて帰宅した父の顔は、見たことがないほど上気していて今にも湯気が立ち上りそうだ。

「大ニュース!大ニュースだ!」

 こんな大きく張った声も一度も聞いたことがない。

「あなた、どうしたのうるさいわよ」

 普段は父の出迎えなどしたこともない母が、居室から面倒くさそうに出てきたほどだ。

「それがな、あっ、メイドオブオナーの候補には断りを入れておかないとな」

「はぁっ、何故ですの」

 リズベットの右目が吊り上がる。

「それどころじゃない良縁が舞い込んだんだよ!」

「えっ、どこですの。先代王妃の御縁戚であらせられるブリスベン公爵家の御長男とか?」

「そんなもんじゃない!王子、王子、アンリ王子だよ!」

「えっ!我が家から王子妃が!」

「ふむ、王子妃だ。レオリオ王には御子がお二人、アンリ王子は王位継承権第二位だ。次期女王にはマーガレット王太女と決まっているがまだ独身だ。初代女王のセラフィナ殿下のように生涯独身を貫かれたらその次の王はアンリ王子だそうなれば」

「うちの娘が王妃に!」

 両親の声がぴたりと揃うのを、コーネリアは生まれて初めて聞いた。

 おそらく自分がこの世に生まれ落ちたその瞬間でも、この二人の気持ちはこんなにそろっていなかったであろうことは容易に想像がつく。

 結局、自分は家名を上げるための駒でしかないのだ。

 コーネリアの胸には一抹の寂しさが芽生えたが、それでも目の前の両親の嬉しそうな姿を見るのはことのほか幸せだった。

 やはり兄に向けるような優しいほほえみとは違ってはいたが、あんなに大はしゃぎして飛び跳ねるように喜んでいつもは蚊の鳴くような母の声が歌うように弾んでいたからだ。

【良かった。アンリ王子とは父に連れられて行った王都のパーティーで遠巻きにお目にかかっただけだし会釈しても気づかれていないのか何も返してくださらなかったけれど、婚約をご承知なさったということは嫌われているわけではないのよね】




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