ニワトリ
@miura
第1話
1
せんべろ親父が帰ってきた。
乱暴に玄関の扉を開け、リビングに入ってくる。
「なんや、理花帰ってたんか。たまには男とデートでも行ってこいよ」
「ほっといてっ」と言ってテレビの画面に視線を移す。
「また呑んできたんやろ」と母の友子が洗い物をしながらせんべろに言う。
「しゃあないんや、若い奴らが行こう行こうって言うから」
「ほんまいかいな、あんたみたいな人と呑みに行きたがる若い子なんかおるんかいな」
「アホ、こう見えても、結構、若いもんから人気あんねんぞ」
「おごってもらえるからいうて、ええ意味で利用されてるだけやん」
「違うって、ほんまに人気あんねんて。話もおもろいし・・」
「はいはい、わかりました。もう先に風呂入りや、汗かいたんやろ。安もんやけどマグロの造り買うてるから、風呂出てビール呑んで食べ」
「はーいっ、ダッシュで入ってきます」
まるで子供だ。間違いなく精神年齢は中学生レベルだ。
「お父さん出たら次入ってや。今日、見たいテレビあるから」
洗い物を終えた母に言われる。
「私、最後でええわ。また今日からお月さんやから」
言った途端にお腹に痛みを覚えトイレへと駆け込む。
それにしても毎月きっちりとやってくる。一度や二度パスしてくれてもいいのに。男にこの面倒臭さはわかるわけない。やっぱり男と女を比べれば、男の方が生きる上では楽に思えてしょうがない。子供を産んだことはないけど、かなり大変らしい。
リビングに戻ると母が入浴の準備をしていた。
「理花、お父さんちゃうけど、なんか話しってあんのん?」と聞かれる。
「話って男のこと?」と言って親指を立てる。
「そう。あんまり聞いたら嫌がるか知らんけど・・」
「まあ、何もないことはないけど・・」
「知ってるやろうけど、従妹の捺美ちゃん、もう二人目生まれてんで」
「あーっ、あのヤンキーの子やろ。時代が変わってもヤンキーはみんな結婚も出産も早いから」
「そんな言い方しなや」
「だってほんまやもん」
洗面所の閉まった扉の向こうから浴室の扉が開く音が聞こえた。
「また、なんかあったら言うわ」と言って自室へと向かう。せんべろとはもうかかわりたくなかった。
「一人でええから、生きてるうちに孫の顔見させてな」
背中からの母の声に「コウノトリがやってるウーバーイーツないか調べとくわ」と返す。
2
同期入社の伸子にランチに誘われた。
「どしたん?今日はお弁当ちゃうの?」
「だんなが有休やから、子供らの弁当はお願いして、私は久しぶりの外食、もうええ加減、お弁当は作るのも食べるのも飽きたわ」
会社の近くのイタ飯屋に入る。
先に出てきたサラダを食べていると伸子が口を開いた。
「またできてん」
「できたって・・子供?」
「そう。うち二人とも女の子やんか、だんながどうしても男の子が欲しいって、ワンチャンお願いって言われて・・」
「そうなんや、それはそれはおめでとう。元気なお子ちゃん産んでや」
「ありがとう。けど、結局、又、女の子やったりしてな」
「そしたら、もうワンチャン?」
「ないない、もう今回で打ち止め、終~了」
「で、いつから産休入んのん?」
「二人目を産んだ時よりは明らかに体力が落ちてるから、六カ月目に入ったら。周りの人らにはほんまに申し訳ないんやけど」
「そんなん気にせんでええやんか。立派な権利やねんから」
メインのスパゲッテイが出てきた。
「ところで、理花はその権利を行使する日はどうなん?」
伸子が粉チーズをはらはらとスパゲッテイの上に散らしながら聞く。
「まあ、何にもないことはないんやけど」
嘘だった。
全く何もなかったというか、まだ“男”を知らなかった。
そう、所謂“処女”だった。
男と女があまり交わらなくなった昨今ではそれほど珍しいものではなくなったが、ついこの間までは“絶滅危惧種”とある意味もてはやされ“有形文化遺産”としてユネスコに登録されていたかもしれなかった。
自分で言うのもなんだが、学生時代はそこそこもてた。
合コンメンバーの中ではいつも二番手で、必ずと言っていいほど、電話番号を聞かれ、後日、二人で呑みに行ったことも何度かあった。付き合った男も何人かいて、唇も交わしたが、体を預ける勇気がなかった。
時代が変わってきたとはいえ、結婚で女の人生は大きく変わる。一種の“ギャンブル”だ。つまらない男に捕まると一生が台無しになる。せんべろと一緒になった母を見ていると切実に思ってしまう。だから、どのスロットマシーンにBETしようかと二十五セントコインを握りしめ、手のひらを汗でびっしょりと濡らせたままこの齢を迎えてしまった。
「どしたん、理花?」
伸子の声で我に返る。
「あっ、ごめんごめん、ちょっと昼からの仕事のこと考えててん」
デザートの小さなジェラートを食べ終えると「懐妊祝いやから」と勘定をもって二人で社に戻る。
午後からの業務が始まり、一息ついたところでリフレッシュルームで紙コップのミルクティーを飲んでいると、新入社員の西原君が「少しいいですか?」とやってきた。
「どしたん? もう会社辞めたいん?」
「違いますよ。
週末の仲村さんのお祝い会の件で少し相談に乗って頂きたいと思いまして」とつまらない冗談には一切からまず真顔で言った。
西原君は東京の私立大学を出て、大阪採用になった新入社員で、色が白く、おとなしく、言葉はもちろん標準語を話した。
一方、仲村さんは入社五年目の女の子で、来月に結婚することが決まっていた。
「私、まだ大阪の街がよくわかっていないんで、どこかいいお店を教えて頂けないかと思いまして」
「あぁ、そういうことね。幹事するんや」
「そうなんです」
「何系を考えてるのん?」
「和食がいいかなと。皆さん年齢層も幅広いので」
「場所は?」
「皆さんが帰りやすい梅田がいいかなと・・」
「予算は?」
「部長五千円、課長四千円、他の方は一律三千円で考えています」
「もちろん飲み物込みやね?」
「はい」
「オッケー、そしたら、ちょっと心当たりあるから、仕事終わってから、その店に行って予約取れるか確認してくるわ」
「ありがとうございます。
山本さん、僕もその店に一緒に行っていいですか?」
「いいよ。
そしたら、六時に一階のエントランス集合でいい?」
「はい、よろしくお願いします」
一体いつ以来だろう、男性とのデートが成立する。
店に入るとマスターが一瞬えっ!?という顔をして「いらっしゃい、理花ちゃん久しぶりやね」と言って迎えてくれた。
「マスター、ご無沙汰しています。ちょっと今日は会社の若い子と一緒で」
「ゆっくりしていってください」とマスターは奥のテーブル席に案内してくれた。
この店は何年か前に友達に連れてきてもらい、お料理の美味しさ、家庭的な店の雰囲気、リーズナブルな価格設定、そして、マスターと奥様の人柄に惚れて、月に一度は必ず訪れていた。
テーブルに着くと、すぐに奥様がおしぼりをもってやってきてくれた。
「相変わらず繁盛してますよね」
十人ほど座れるカウンターの席は全て埋めつくされ、四つある四人掛けのテーブルも残り一席だった。
「奥さん、急な話で申し訳ないんですけど、来週の金曜日、七、八人なんですけど予約って取れます?」
「多分大丈夫やと思うんですけど、主人に聞いてきます」
奥さんが戻っていくと、すぐにマスターが来てくれた。
「大丈夫ですよ。で、予算は?」
今日の昼間に、リフレッシュルームで西原君から聞いた言葉をそのまま伝えた。
「承知しました。ただ、週末なんで二時間でお願いできますか」
「はい。大丈夫です。よろしくお願いします」
「こちらこそ。で、今夜は何を呑まれますか?」
「私は生ビール頂けますか。西原君もいっしょでいい?」
「いえ、僕はウーロン茶でお願いします」
ウーロン茶!?
「かしこまりました」と言ってマスターが戻っていくとメニューを開く。
「ここはなんでも美味しいけど、特にお魚と煮物がええんよ」
「そうですか、わかりました」
奥様が生ビールとウーロン茶を持ってきてくれ「さぁ、今日はなにされます?」と聞く。
「えーっと、じゃあ、お造りの五点盛りと、スルメイカと里芋の煮物をお願いします。西原君は何にする?」
「僕は焼きそばをおねがいします」
人の話聞いとったんかいっ!この店は魚と煮物や言うたやろっ! 何いーっ、焼きそば? いきなり締めにいってどないするんやっ!
「あと、ごはんもお願いします」
ご、ごはんって、定食屋ちゃうぞこの店はっ、それに関東の人間のくせして、なに、焼きそば定食食っとるんじゃっ!!
心に蓋をして、ジョッキとグラスで乾杯する。
「西原君はあんまりお酒呑まへんのん?」
「いえ、そんなことはないんですけど、あまり呑みたいと思わないんです」
「友達と呑みに行ったりはせえへんのん?」
「たまには行きますよ」
「そんな時は結構呑むの?」
「いえ、生ビール一杯とハイボールを一杯か二杯呑む程度です」
「そうなんや」
頼んだ料理がテーブルにやってくる。
しかし、西原君は頑なに自分が注文した焼きそばとごはんを黙々とかきこむ。
お造りと煮物を勧めるが、けっして箸を伸ばさない。
何か一人お酒を呑んでいるのがバカらしく感じる。
そして、生ビールのお代わりを奥様にお願いした時、西原君は“焼きそば定食”を食べ終えた。
「西原君もちょっと呑んだら」
会話もなく、ほぼ一人呑みの状態だったので生ビール一杯で少し酔いが回り出していた。
「いえ、いいです。ウーロン茶のお代わりをもらいます」
「そうなん」
「それより、山本さん、呑み会の食事なんですけど、何か前もって頼んでおいた方がいいんですかね」
「大丈夫。マスターが予算内でうまくやってくれはるから。もちろん呑み放題やし、本番は西原君もちょっとは呑みや」
パワハラ。お酒の強要。
「西原君は家帰ったら毎日なにやってんのん?」
「パソコンとか、あと洗濯したり、たまに料理なんかもします」
「料理するんや?」
「はい。外食は滅多にしません。無駄なお金は使いたくないんで」
「ご飯炊いたり、カレー作ったりしてるんや」
「はい。自分で言うのもなんですが、僕のカレーは結構美味しいんですよ」
カレーなど生まれてこの方、作ったことなど一度もない。いまだに料理は母に作ってもらっている。
二杯目の生ビールが空になる。
「西原君っ、カノジョとかおらんのん?」
逆セクハラ。酔いが完全なものになってきた。
「はい、今はいないです」
「今はって、昔はおったんや?」
またセクハラ。
「ええ。学生時代から付き合っていた人がいたんですけど私がこっちに来て遠距離をやっているうちに、ある日急に向こうから別れてくれと言われちゃって」
「あっ、そうなん・・ごめんごめん、嫌なこと聞いてもうたね」
「いえ、事実ですから。そんなことより、そろそろ終わりにしませんか。今日は帰って洗濯をしないといけないんで」
「あっ、そうなん、ちょ、ちょっと待ってね。料理まだ残ってるんで」
洗濯なんかもいまだに母に全部やってもらっている。西原君の方がよっぽどしっかりしている。酔いとは別のほてりを頬に感じる。
自宅に着くと、せんべろが珍しくリビングで“二次会”をしていた。
顔を見ると「おっ、呑んできたんか」と早速からんできた。
「デートデート、一回り下の男の子とやで」
「マジかっ! いよいよ待望の・・・」
「そんなわけないやんか。飲み会の幹事やるんやけど、東京からこっちに来ていい店知らんから教えてくださいって、ただそれだけ」
「なんや、そうなんか」と言ってせんべろは少し残念そうな顔で缶ビールを傾けた。
「せやけど、今の若い子らはほんまにお酒呑まへんわ。居酒屋に行っていきなり焼きそばとごはん頼んで、飲み物はウーロン茶やから」
「酒も呑まんような男はあかんよ」
あんたは呑み過ぎ。
「せやけど、さっき新聞読んでてんけど、この国はどんどん人口減ってんねんなぁ。去年だけで三十万人、三十後年には一千万人以上減るって書いてあったわ」
「他人のこと言われへんけど、私の周りもええ齢した独身がうじゃうじゃいるもんなぁ。もう昔みたいに結婚への憧れなんかないんやろなぁ」
「お前もか?」
「わたしはまだあるよ」
「そうか。
せやけど確かに男は結婚してもそんなに生活は変わらへんけど、女は違うもんなぁ。それにしょうもない“はずれ”掴んだらえらいことになるもんなぁ」
あんたが言うな。
「私も子供は欲しいから、精子バンクにでも登録しよかな。
この間テレビでやってたけど、どっかの国の精子バンクに日本の女性が結構な数、登録してて、実績もあるらしいで」
「登録すんのに結構な費用かかるんちゃうんか」
「多分な」
「精子提供する方もいくらかは報酬もらえんねやろなぁ。言うてみたら競馬の種馬と一緒やもんな。俺も登録しよかな。今はこの有様やけど、種馬としては結構ええ馬やと思うんやけどなぁ。小遣い稼ぎになるか一回ネットで調べてみよ」
確かにせんべろは、今でこそこの有様だが、入るのにはかなり難しい国立大学を出ていて、他にも絵を描いたり、楽器の演奏も得意だと母に聞いたことがあった。
「無理やって。一応、審査とかあるんやろうから素行の悪さで落とされるって」
洗面所の扉の向こうから浴室の扉が開く音がした。
「まあ、そのうち、子孫繁栄の危機感から人間の染色体変異が起こって、ニワトリみたいに交尾せんでも子供ができるようになるんちゃうか。人間が卵を産むようになったりしてな」
言うと、せんべろは缶ビールと鮭缶を持って立ち上がった。
「孫の顔って見たい?」
「俺は自分の子供は欲しかった。お前の顔を見たかったけど、孫はそんなに思えへんなぁ」
「そうなんや・・」
「せやけど母さんはどうも孫の顔を見たそうやで。ほなな、おやすみ」
言うとせんべろは少し足をふらつかせながら自室へと帰って行った。
3
仲村さんのお祝い会が始まった。
西原君は手際よくやっている。
始まりの挨拶を部長に振り、終わると、乾杯の音頭を課長にお願いした。
今日、お昼ご飯を食べているときに会の進め方について聞いてきて、教えてあげたとおりに遂行している。
まさかウーロン茶のグラスを持っていないだろうなと見てみると、ちゃんと生ビールのジョッキを持っていてほっとする。
課長の掛け声でみんなでジョッキを重ねる。
拍手が収まると西原君は、今日の会が二時間制であること、呑みものはグラス交換の呑み放題であることをみんなに説明した。
暫くすると、料理が次々と運ばれてきた。
マスターと目が合い軽く会釈する。
まさか、自分だけ焼きそばを注文して食べていないだろうなと西原君を見ると、前菜のサラダをつまんでいたのでもう一度ほっとする。
目の前の部長のジョッキが空になる。
西原君に目配せしようと思ったが、彼は「あっ、次は何にされますか」と部長に聞いた。
なかなかやるじゃないか、この若者。
手にしていたジョッキが空になったので「西原君、悪いけどハイボール頼んでくれる」とお願いする。
彼の顔はかなり赤くなっていた。
手にしているジョッキを見ると半分も減っていなかった。呑みたいとは思わないですよ、ときざなことを言っていたが、実はあまり呑めないのではないか。
二杯目のハイボールが半分ほど空いたころ、今日の主役の仲村さんが隣の席にやってきた。
「今日はありがとうございます」
透明な飲み物が入ったグラスを手に、少し赤くなった顔で彼女は言った。
「いえいえ、この度はおめでとうございます。またまた後輩に抜かれ、心中は複雑でございます」
「そんなーっ」と彼女は顔をくしゃくしゃにする。
「冗談っ冗談っ、せやけど、仲村さん、彼とはどこで知り合ったん?友達の紹介?それか学生の時からずっと付き合ってたとか?」
「いえ、今はやりのマッチングアプリなんです」
「そうなんや。あれって結構ええのん?」
「いえ、それがなかなかうまくいかなくって、たまたま合う人と出会えて。だけど、始めてから二年かかりましたから」
「へぇーっ、お相手は会社員?」
「はい。一応、一部上場企業なんで、まあ、いいかなと思って・・」
「若い人らやってる人多いねんてねぇ」
「ええ、私の友達も、とりあえずは登録しとけっていうノリでやってますよ」
「私も一回やってみよかなぁ」
「理花さん、やりましょやりましょ」
「どうやってやんのん?ちょっと教えてくれる」
「スマホ貸していただいていいですか。私、登録しますから」
仲村さんにスマホを渡すと彼女は食い入るように画面を見つめ、名スケーターが氷上を滑るがごとく指を液晶画面の上で躍動させる。
「理花さん、できました。あとは理花さんのプロフィールと希望の男性の条件を打ち込んでいってください。わからないことがあったら言ってください」
名前、年齢三十五、え?ほんまに?そんなに生きてきたっけ、まだ中学生くらいの気分やねんけど、趣味、映画鑑賞、この間二人目の子供ができた従妹の捺美ちゃんの上の子を連れて何年か前にアンパンマンの映画を観に行って以来、銀幕からは遠ざかっている。希望条件。年齢、上は四十五まで、下は三十三、と入力しかけて後ろの三をゼロにする、年収、月並みで五百万、ほんまはもっと欲しいけど、間口拡げとかなあかんからなぁ、と心の中で呟く。
「全部入れ終わった。この“送信”をタップしたらええねんねぇ?」
「はい」
暫くして“登録完了しました”の文字が画面に映る。文字の一つ一つが躍っているように見えた。
「仲村さん、ありがとう。期待して待ってるわ」
仲村さんに言った時「あれーっ、婚活ですか」と真っ赤な顔をした西原君がやって来た。
「僕もそれやっているんですけど、登録して一週間くらいは結構“いいね”が来るんですけど、その後はさっぱりですよ。新参者の情報に、みんな、その時は食いつくんですけど、すぐに一回りしちゃう。後はどこかのタイミングで登録している情報を更新して人の目を引くことですよね」
「で、西原君は成果はどうなん?」
「まあまあです。あせってもしょうがないんでじっくりとやります。
あっ、そうだ、僕、あとで山本さんに“いいね”しますから」
「ブーっ、残念ながら、対象年齢の下限に達していないんで無理です」
「山本さん、それはダメですよ。もっと間口を拡げないと。言葉は悪いですけど、下手な鉄砲も・・」
「はいはい、もうわかったから」と仲村さんが割って入ってきて「そろそろお開きの時間やろ、ちゃんとMCやりなさい」と続けた。
「ラジャー」と言って西原君は少しふらつきながら自分の席に戻る。
「かなり酔ってますよ、あの子」と仲村さんが言った時、西原君が自分の席で立ち上がった。
「それでは皆さん、お時間の方が参りましたので、最後に本日の主賓の仲村さんにお言葉を頂きたいと思います。
仲村さん、よろしくお願いいたします」
仲村さんは立ち上がると、みんなに頭を垂れ、自分の為にこのような席を設けて頂いたことのお礼を述べた。
「仲村さん、どうもありがとうございました。それでは最後に山本さんより、ささやかではありますが、みなさんからのプレゼントを贈呈させて頂きます」
なによっ、そんなん聞いてないでっ、と目を向けると、西原君は足元に置いてある自分の鞄から、リボンのついた小さな小箱を取り出した。
「それでは、山本さん、お願いします」
何やお前っ、と目で訴えながら西原君から小箱を受け取ると、みんなの拍手に包まれ仲村さんに手渡す。
仲村さんは少し瞳がうるんでいるように見えた。
会がお開きとなり店を出ると西原君をつかまえる。
「なかなかのサプライズやんか」
「そうでしょ。ひょっとしたらプロデユーサーの才能があるかもしれないです」
「で、あの箱の中身はなんなん?」
「少し気が早いですけど、おしゃぶりです」
「ははっ、面白いやんか。彼女、家帰って箱開けてびっくりするんちゃう」
言いながら、さっきのマッチングアプリに、“子供はできれば欲しい”とプロフィールに記したが“最低一人は欲しいです”に書き換えようかと思った。
4
「ええやんか、一回会うだけ会ったら」
ボーナス支給日で買ってきたショートケーキを頬張りながら母が言った。
「うーん、どうしょうかなぁ、四十六でバツイチやしなぁ」
「ええやん。一部上場企業で働いてるし、年収も八百万やったら十分ちゃう。
前の奥さんとの間に子供さんもおれへんし。ちょっと頭が寂しいなぁ。五十までにはいってまいそうやなぁ」
母は自分の手を前頭部から後頭部に滑らせた。
「せやけど、もしうまくいってほんまに結婚するとなったらバツイチでもかまへんのん?」「もう、この際、かまへんよ」
「この際って、どの際よっ」
「まあ、ええやんか、とりあえず一回会ってみたらええやん」
「そうやなぁ・・」と言って、ショートケーキのイチゴを口に含んだ時、玄関から、解錠する音が聞こえた。
せんべろが帰ってきた。
「おっなんや、ケーキなんか食べて、日取りでも決まったんかいな」
あいかわらず赤ら顔だ。
「そうそう、誰呼ぼうかお母さんに相談しててん」
マッチングアプリのことはせんべろにも母を経由して伝わっていた。
「まぁ言うてみたら、集団お見合いみたいなもんやなぁ。俺らの若い時は“結婚は絶対に恋愛結婚、見合い結婚はなんかダサい”言うて、周りの人間で見合い結婚のやつなんか一人もおれへんかったもんなぁ。逆に俺の親父の世代はほとんどが見合い結婚。時代背景が違うとはいえ歴史は繰り返されるんかなぁ」
「せやけど、理花、あんたの会社にも結婚してない男の人ようさんおるんやろ。その辺の人らはどうなんよ?わざわざこんなたいそうなことせなあかんのん?」と母がフォークについた生クリームを舐めながら聞く。
「おることはおるけど、私が言うのもなんやけど、残るべくして残ったっていう感じの人ばっかりやもん」
「そいつらも可哀そうなんや。俺らの若いときと違うて、今の女の子らは結婚しても会社辞めんようになったやんか。子供出来てもサラっと産休とって、二年くらいしたら“女の権利”とばかりに復職してきよる。だから、まったく女の子が循環せえへん。言うたら怒られるけど、俺の周りの女子社員言うたら子供のおるお母ちゃんばっかりやもんな。昔のことをあんまり言いたくないけど、女の子らは結婚したら“寿退社”言うてみんな辞めていったんや。それで次にまた若い女の子が入って来る。それを若い男子社員がものにする。せやから周りのほとんどが社内結婚やったもんな。今でも抜け目のない奴は数少ない若い女子社員をかっぱらっていくけど、それはほんの一部にしかすぎへん。ほとんどのやつが一種の生存競争に敗れてどんどん独身が増えていく。
それに今の若い男の子らはみんなおとなしいわ。尖った奴がほんまおらんようになった。ええ子はええ子なんやけど、競争相手を掻き分け好きな女の子を手にするような男はほんまおらんわ。まあ、長い間不況が続いたんも原因の一つなんやろなぁ・・以上、さっ、風呂入ろっ」
言うとせんべろは自室に戻ってスーツを脱いでくると「幸あらんことを・・」と言って洗面所に入り扉を閉めた。
5
待ち合わせの場所に着くと、四十六バツイチはすでに来ていた。
一目見て「写真触っとんなぁ」と心の中で呟く。
額の干上がり具合が写真よりひどく、とても五十歳までもちそうになかった。
シティホテルの喫茶店に入り一杯千五百円の珈琲をすすりながら色々と話す。
会話のテンポが合い、沈黙の間が一度もやってこない。
「山本さん、子供が欲しいと書かれていましたが・・」
「ええ、やっぱり自分の子供って見てみたいなぁと思うんで」
「私も子供は大好きなんです。前妻のあいだに子供はいなかったんですけど、すごく欲しくて。実のところ不妊治療もうけていたんです」
「そうなんですか」と言って一口珈琲に口をつける。
「原因は、私でした。こんなところで言うのもなんなんですけど、精子が普通の人と比べると非常に少ないと・・」
「そうなんですか」としか言えない。
「前の妻とは三十六の時に一緒になったんです。妻は偶然にも山本さんと同い齢で、私はすぐにでも子どもが欲しかったんですけど、妻はまだいい、そのうち作りましょうと呑気なことを言っていたんですけど、いざ、作ろうとなるとこれが出来ないんですよ。それで妻が二十九、私が四十の時に不妊治療を始めたんですけど、先ほど言ったことが原因で結局コウノトリはやってこなかったんです。そして、それだけが原因ではなかったんですけど二年前に別れました。あっ、すいません、つまらない話をしてしまって・・」
「いえいえ、本当のお話を聞かせて頂いてありがとうございます」
その後、三十分ほど話をして四十六バツイチと別れた。
電話番号を交換し、連絡はこっちから取ることにした。
家に着くと、リビングで母がキリンのように首を長くして待っていた。
「ええ人やったよ。額は登録の写真よりは干上がってたけど話のテンポも合ったし、いろんなことも包み隠さんと話してくれはったから」
「良かったやんか。で、もう一回会うの?」
母は興奮していて、手にしていた煎餅が二つに割れた。
「いちおうな」
「良かったやん、今度は晩御飯でも食べに行くん?」
「まだ考えてへん。
ただなぁ、前の奥さんとの間に子供がおれへんかってんけど、ほんまは欲しかったみたい」
「でけへんかったん?」
「そう。それも原因は自分やってん」
「種なし?」
「その言い方やめなさい。せやけど正しくその通りやねん」
「そうなんや・・」
母は二つに割れた煎餅の片方をゆっくりと口に運ぶ。
せんべろが自室から出てくる。
しかし、リビングには来ず台所の冷蔵庫を開け缶ビールを取り出すと「あっおかえり」とだけ言って、赤い顔をして部屋へ戻っていった。
6
コンビニ弁当で昼食を済ませ、リフレッシュルームで美容院の予約を取り終えたとき、伸子がやって来た。
「だいぶ目立ってきたなぁ」と言って彼女のお腹をなでる。
「そうやん。もう重くてさぁ、歩くのもしんどなってきてん」
「どしたん、今日は?」
「産休に入る日が決まってん」
「いつから」
「再来週。せやから、来週の金曜日に三回目の“一時送別会”しようかと思って」
「ええよ。どうせなんも予定ないから」
「そんな寂しいこといいなや。あの件、どうなったん?」
「うーん、どうしょうか迷ってんねんけど」
伸子には四十六バツイチのことを話していた。
「まあ、上から目線でごめんやねんけど、結婚して子供がおるから幸せって限らへんで。子供おらんかっても楽しく幸せに暮らしてる夫婦なんかいくらでもおるし。逆に子供おってもうまいこといってない夫婦もたくさんおるし」
「そうやんなぁ、それはわかってんねんけど」
「理花はやっぱりどうしても子供欲しいんや」
「うん。自分の子供の顔、見てみたいなぁと思って・・」
「了解しました。で、来週の金曜日はどこ行こ?」
「私はどこでもいいけど、伸子は?つわりとかは大丈夫なん?」
「それがな、今回、無茶苦茶食欲があんねん。自分でも怖いくらい食べてしまうねん」
「ひょっとして、お腹の中の子供ちゃん、男の子なんちゃう?」
「あれ?理花に言うてなかったっけ。この子男の子やねん」と伸子は自分のお腹を指差して言った。
「聞いてないよーっ、せやけど良かったやんか、ご主人むちゃくちゃ喜んではるんちゃう」
「もうアホみたいに喜んで、大きなったらキャッチボールすんねんいうてもうグローブ買ってたわ。何年先やって、ほんまに」
西原君が仲村さんに送ったおしゃぶりを思い出した。
「子供ちゃんおって思いっきり幸せしてるやん。さっき言うたこととちょっと矛盾してるで」
「はは、まあ、それは・・・」と言って伸子は顔を少し赤くする。
「そしたら焼肉にしよか。元気な男の子がお腹の中で口開けて待ってるやろうから。店決まったらまたラインするわ」
伸子がゆっさゆっさと去っていくとスマホを手にする。
四十六バツイチにショートメールを打つ。
“連絡が遅くなりすいません。誠に申し訳ございませんが、今回はご縁がなかったということでお許しくださいませ”
美容院に着くと、予約してあった時間までまだ少しあったので待合室のソファに腰を下ろし、スタッフの方が出してくれたアイスティーでのどを潤す。
スマホが着信を知らせる電子音を発する。
“承知いたしました。山本さんにいいご縁があることをお祈りいたします。昨日、別れた妻から久しぶりに連絡がありました。再婚した男性との間に子供ができたということです”
返信しようと思ったが、言葉が見つからなかったのでスマホを鞄に戻す。
「お待たせいたしました」
いつものリエちゃんがやってきた。
「ご来店いただきまして、ありがとうございます」
言ってリエちゃんが席までエスコートしてくれる。
そして鏡の中の私に笑顔を向けてくれる
リエちゃんは、この店に初めて来たときに、偶然にも彼女のデビューの日で、初めてのお客が私だった。
それ以来、予約を取るときは必ず彼女を指名してきた。
「結構伸びてますよね」とりえちゃんが髪に触れながら言う。
「そうやね、いつもより一カ月ほど間が空いたもんね」
「今日はどれくらいにされます?」
「そうやねぇ、いつもより短めにしてくれる」
「かしこまりました」
リエちゃんは花柄のシートを掛けてくれると、ピカピカに光る鋏を髪に絡ませる。
そして、鋏が前髪にやって来た時「婚カツはその後どうですか?」と小さな声で聞いてきた。
リエちゃんにはプライベートのことも話していた。何か気楽になんでも話せる数少ない存在だった。
「あかんあかん、結婚でも決まってたら髪なんか短く切らんと逆に伸ばすやんか」
「そうですよね、すいません、気が利かなくて」
「ええよええよ、事実やねんから。そんなことよりリエちゃんは彼氏おんのん?」
「はい、いちおう・・」
「それ、今はやりのマッチングアプリってやつで知り合ったん?」
「いえ。友達の紹介って言うか、みんなで呑みに行ったときに、いい感じのこやなぁと思って電話番号を教えたら後から連絡があって、それからです」
「へぇーっ、リエちゃん、やるやんか。可愛い顔して実は肉食女子なんや」
「そんなことないですよ。たまたま気が合っただけで・・」
カットが終わり洗髪のため違う席へ移る。
しかし、洗ってくれるのはリエちゃん。
自分の髪を触らせるのはリエちゃんと将来の伴侶にだけと決めていた。
リエちゃん、末永くよろしくお願いします。結婚してもこの美容院は辞めないでね。
「あれっ」
髪にシャワーをあて始めたリエちゃんが声を出す。
「どしたん?まさか白髪・・」
「いえ、白じゃなくて赤なんです」
「赤?」
「ええ。
カットしているときは気が付かなかったんですけど、トップのところに三、四本あって。
カラーリングされました?」
「そんなんせぇへんよ」
「浮気は許しませんよ」とリエちゃんはいたずらな笑顔を向けた。
「リエちゃん、もし彼氏が浮気したら絶対に許さへんタイプなんちゃう?」
「ええ。大当たりです」
家に着くと、リビングで母とせんべろが向かい合ってテーブルについていた。
「おかえりっ」と相変わらず赤ら顔のせんべろが顔を向ける。「おっ、むちゃくちゃ髪短かなったやんか、出産を控えた妊婦さんみたいやな」
日本という国が法治国家でなければ、たとえ親とはいえ、マシンガンをぶっ放しているところだった。
「お父さん、もう部屋に行っとき。冷蔵庫に缶ビール一本買ってきてあるから」
母が言うとせんべろは小学生のように「うん」とうなずき、立ち上がると台所の冷蔵庫から缶ビールを取り出し、いつもながら赤ら顔で自室に入っていった。
「晩御飯食べてないんやろ?」と母が聞く。
「うん。もう遅いからお茶漬けかなんかでいいわ」
「鮭茶漬けでええ?」
「うん。ご飯もちょっとでええから」
出来合いの鮭茶漬けですら、生まれてこの方ずっと母に作ってもらっている。ご飯の上に袋を破って振りかけ、お湯をかけるだけ。
「あの話、どうすんのん?」
沸騰した薬缶の火を止めながら母が聞く。
「断ってん」
「そうなんや」
「男なんて腐るほどおるから・・」
「腐ってない男に出会えたらええんやけどなぁ・・」
言うと母は台所から湯気を立てたお茶碗をお盆にのせてやって来てテーブルの上に置いてくれた。
お茶碗の鮭茶漬けには、焼いた鮭のほぐし身が盛られていた。
7
「いやーっ、むっちゃ短かなったやんか。よっぽど私より妊婦らしいで」
待ち合わせの時間に少し遅れて店に入ると伸子が開口一番に言った。
「父親と一緒のこと言わんといて」
同期入社のあとの二人も笑う。
「理花、生ビールでいい?」と伸子が聞く。
「うん、ありがとう」
その生ビールがやって来て四人で改めて乾杯となる。
「せやけど、男の子でほんまに良かったやんなぁ」と一人の同期が焼肉に箸を伸ばしながら言う。
「そうやねんけど、今まで女の子やったから、男の子ってどうやって育てたらええんか、ちょっと不安やねん」
「そんなん、楽勝やって」ともう一人の同期が言う。
二人の同期はもちろん結婚していて、二人とも男の子の子供がいて、もちろん二人ともまだ会社の正社員として君臨していた。
「男ってほんまに単純やから簡単簡単。おだてて、ちゃんとやったらほめる、あかんときはバシッと怒る。アメとムチ。ただそれだけ」
それは、せんべろを見ていてもよくわかった。
「そうなんかなぁ、まあ、もし壁にぶつかったら相談させてもらうわ」
「OKっ」と二人の同期が声をそろえて言った。
その後四人で猛烈に焼肉を喰らい、特に伸子は二人分を食べる必要があるからか、網まで食べてしまいそうな勢いだった。
その網を店員が取替に来た時、一息ついた伸子が隣から「あの件はどうなったん?」と小さな声で聞いてきた。
「断ってん」
「そうなんや、まぁ、しゃないやんなぁ、男なんか腐るほどおるからなぁ」
「母親と同じこと言わんといて」
「あせってしょうもないの掴んだら後々後悔するからな」
思わずせんべろの顔を思い出す。
伸子は店員に手を挙げ呼ぶと、カルビ二人前とピビンバを頼み、同期の二人はクッパを注文した。
伸子が「理花はシメはええの?」と聞いたので、もうお腹はいっぱいだったのでハイボールをお願いした。
暫くしてハイボールとカルビ二人前がやって来た。
同期の二人はスマホを見せ合いながら笑って何かを話している。飛び交う単語から自分たちの子供の映像が映し出されているのだろう。
伸子はピカピカの網の上に満面の笑みを浮かべカルビを並べる。
「理花、聞いた?」
自分の子供の成長を見るように焼けてくるカルビを見つめながら伸子が聞いてきた。
「何を?」
「あんたんとこの、この間結婚した女の子。もう子供出来てんてぇ」
「嘘っ!」
「あっ、これ言うたらアカンやつ?知ってると思ってた」
「知らん知らん、初耳よ」
「そうなんや。うちの部署の人らみんな知ってるからてっきりオープンにしていいのかと・・」
「絶対に言うたらアカンでぇ」の伝言ゲームのなれの果てだろう。
「まあ、でもおめでたいことやからええやんか」
それにしても西原君の先見の明というか、予知能力というか、今度、ウエディングドレスでも送ってもらったら結婚できるかもしれない。
三人のシメがテーブルに届くと、伸子も同期二人のコミュニティに入っていった。
やはり、スマホの画面に映っている、おそらく子供だろう、を二人に見せて嬉しそうに何かを話している。
ハイボールを呑みながら残っていたキムチをつまむ。
スマホを覗いても子供の写真などもちろんない。
待ち受け画面は三年前に母と花見に行った時の大阪城の桜の木だった。
突然、スマホのショートメールが飛んできた。
“聞きました?”
西原君だった。
“何の話?”
“仲村さんにお子さんが出来ました”
“そんなんとっくに知ってるよ”と返そうと思ったが彼のプライドを考慮し“そうなんや! 初耳っ”と返す。
“僕のおしゃぶりですよ。予知能力があるかもしれません、ウフフフ”
なにがウフフフだ。
“そうかもしれませんね。明日、仲村さんに祝福のお言葉を進呈します”
ショートメールを終えると、他の三人の会話の花は待ち受け画面の桜のようにまだ満開だったのでもう一杯ハイボールをお代わりする。
8
リビングで遅めの朝食をとっていると、せんべろが部屋から出てきた。
すでに顔が赤かった。
「よっ、妊婦さんの割にはお腹大きなってけえへんなぁ」
本当に一日だけでいい、一日だけ法律が無い日を作ってくれ。間違いなく仕留めて見せる。
開いた扉の向こうからは競馬中継のアナウンサーの声が漏れてくる。
齢を取るにつれ益々眠れなくなった、土日もおかまいなし、朝の六時になると勝手に目が覚める。やることがないから酒を呑み、競馬の始まる十時ごろにはベロベロになる、と母に聞いたことがあった。
冷蔵庫から缶チューハイを手に取ると「ほなな」と手を挙げ、せんべろは自室へと戻っていった。
母は「呑み過ぎたらあかんで」とは言わない。もう諦めているのだろう。
「十時になったら出よか?」
「うん、仕度するわ」
今日は久しぶりに母と近くの商業施設に行って、映画を見て、昼食をとることになっていた。
地下鉄とバスを乗り継ぎ、商業施設に着くと、土曜日とあって家族連れの客たちで、かなり混みあっていた。
エレベーターに乗り、映画館の階で降りる。
母が指名してきた映画は、韓流の中年アイドルを主人公にしたもので、よく似たツルリとした顔の男ばかりが出てきて、始まって十分もしないうちに買って入った缶ビールとポップコーンを飲食することに専念した。
映画なんか久しぶりだなと思った瞬間、趣味に“映画鑑賞”と書いたマッチングアプリを思い出した。
四十六バツイチとの話が流れてから“いいね”は一つも来ていない。
西原君が言っていたように、情報を更新して、人の目を引かないといけない。
何を更新する? 髪型? あかん、逆効果や。「妊婦がマッチングしてんぞっ」と言われるのがおちだ。対象年齢を拡げようか? 下を三十から二十五? 一回り近い年下の男の子と結婚て・・。
映画が終わると母が「良かったなぁ」と言ったので、うわの空で「そうやねぇ」と答える。
同じ階の和食屋に入ると、客の大半が家族連れだった。小さい子供に絶大の人気を誇るアニメ映画が上映されていたのだ。母が周りの小さい子供たちを目を細めてみる。
中年女性お決まりの天ぷら定食を食べ終えると、夕ご飯のおかずを買いに食料品売り場へと行く。
「お造り買うて帰ったろ」
母は、値引きシールの貼っていないお造りのパックをレジ籠に入れる。せんべろにどうしてそんなに優しくしてあげるのだろう。
洗剤が買いたいと母が言ってフロアーを変わる。途中、生理用品の前を通った時、「あんのん?買うといたら」と母が、セルフサービスのうどん屋でトングを手にして「とり天食べる?」と聞くようなノリで言う。色気も何もあったもんじゃない。
しかし、脳というか体は単純で、急にいつもの下腹部の痛みが襲ってきた。
母に断りトイレに向かい空いていた個室に入る。
毎月毎月真面目に来なくてもいいのに、たまにはパスしてくれてもいいのにと思い便座に腰を下ろす。
が、お月さんではなかった。
トイレを出ると母と商業施設を後にする。
自宅に着くと、せんべろは酔いつぶれて寝ているのか自室から出てこない。
「昼間ご馳走やったから晩御飯はおかいさんと漬けもんでええなぁ?」
「うん」と頷くと洗面台に行き手を洗い、うがいをする。
そして何気に前髪をかき上げるとぎょっとした。
美容院でリエちゃんに言われた赤い髪が結構な量で黒い髪に混ざって幅を利かせていた。
9
前回のお月さんから二カ月がたった。
下腹部にずっと変な痛みというか、ずーんとした重みが続いた。
しかし、太ももの間から便器内を覗いたが、お月さんは来ていなかった。
お月さんが来なくなるような行為はもちろんやっていなかったし、まさか、昔ドラマで見たことのある“想像妊娠”ではないか?
伸子の懐妊、そして、同僚の仲村さんの結婚&懐妊。羨ましい気持ちがつのって・・・アホらしい、水を流すと席に戻る。
金曜日のせいかお客様からの電話が多い。週をまたぐ前に確認だけしておこうか、といったところだろう。
一息つき、リフレッシュルームへ行こうとした時、何気なくコピー機の前に立つ仲村さんに目が行く。
少しお腹が目立ってきたのかなと思い、何気なく自分のお腹をさする。
少し大きくなったっけ!?
まさか本当に“想像妊娠”?
な、わけない、昼ごはんにオムライスの大盛を食べたから一時的なものだろう。
リフレッシュルームに入り紙コップのコーヒーを飲んでいると西原君がやってきた。
「山本さん、さっき仲村さんのことじっと見てたでしょ」
「あんた、なに人のこと見てんのよ、ちゃんと仕事しいよ」
「だって山本さんの目つきがすごかったから僕も吸いつかれるようにして・・」
そんな目つきをしていたのか?
「お腹大きなってきたかなぁと思って」
「そうですか。
順調らしいですよ、母子ともに」
なんでお前がそんなこと知っとるんや。
「そうなん、それは良かったやんか」と言ってたいして美味しくないコーヒーをすする。
「そんなことより、山本さん、髪、染めました?」
「染めてへんよ」
「何か全体的に赤っぽく見えるんですけど」
「嘘っ!」
慌てて髪に手をやる。
「実は週末にバンドなんかやってんじゃないですか。それもビジュアル系で赤髪のボーカルとかやっちゃってたりして」
「アホ、そんなん興味もないし、やる元気もないわ」
定時で会社を飛び出ると、自宅の最寄駅の近くにあるドラッグストアーに駆け込む。
すぐにヘアカラーのコーナーを見つける。
しかし、種類が多すぎて何が何だかわからない。
そもそも、白髪を黒髪に戻すのと、赤髪を黒髪に戻すのに、同じ商品を使っていいのか。
白衣を着た店員を見つける。
「あのう、劇団員をやっているんですけど、役柄赤にカラーリングした髪を元に戻すのにはどれがいいですか?」
「そうですねぇ」と言って白衣の店員は一つの商品を手に取って差し出してくれた。
「こちらがいいと思います。ただし、必ずパッチテストは行ってください」
「パッチテスト?」
「あっ、ご使用になられたことはないですか?染められるのはお客様ですよね?」
「いえ、同僚なんです」
どうしてそんな嘘をつく必要がある。
「そうなんですか。パッチテストは使用される前にアレルギー反応とかが出ないかを調べるもので、実際に腕にこの商品を塗布していただいて反応が出ないかを確認するんです。
やり方を書いた説明書が中に入っていますんで」
「わかりました、ありがとうございます」
商品を手に自宅に駆け戻ると夕食を咀嚼せず胃に流し、自室に飛び込む。
説明書を読み、右上腕部に商品を塗布する。
それにしても、すごい臭いだ。中学生の時、初めてマニュキアをした時に嗅いだあのシンナーのような臭いに近い。せんべろが「あいつグレてシンナー吸うとんちゃうかっ!」と大騒ぎしたことを思い出す。
と、突然、猛烈な吐き気が襲ってきて、部屋を飛び出しトイレに駆け込む。
便座を抱え激しく嘔吐する。
ヘアーカラーの臭いが原因か、空腹にほとんど咀嚼せず胃に食事を放り込んだからか・・まさか本当に“想像妊娠”ではあるまい。
続いて第二波が襲ってきた。
と同時に、玄関の扉が開く音が聞こえた。せんべろが帰ってきた。
激しく嘔吐し、目から涙があふれる。
「おっ、理花、つわりかっ、髪型だけやなかったんや」とせんべろの声がトイレの扉の向こうから突き刺さる。
もう法律があってもなくてもいい、誰か私に銃を・・。
そして、吐き気が少し収まったかと思った瞬間、今度は下腹部に強烈な痛みが襲ってきた。
慌てて便座の蓋を下ろし、その上に腰を下ろす。
暫く下腹部の痛みに耐えていたところ、その痛みが段々と下に降り始め、やがて、淫唇に強烈な痛みを感じたと思ったら、ポチャンと水の跳ねる音がした。
いったい何だっ!
恐る恐る太ももの間から便器内を覗く。
すると、そこには、白い球体、ちょうどニワトリの卵、所謂、普段食べている玉子を少し大きくしたものが嘔吐物の向こうに沈んでいた。
10
息を殺し白い球体に“5”と油性マジックで書く。
あの夜から毎週“出産”している。お月さんは来ない。
箪笥の一番下の引き出しの奥から四つの球が入っている布袋を取り出し、“5”をそっと入れる。
「海ガメかっ」と一人ごち、布袋を引き出しに戻す。
「理花、晩御飯できたで」と扉の向こうから母の声。
リビングに行くとテーブルの上に料理が並べられている。せんべろはもちろんいない。
「いただきます」と手を合わせると、豚足の煮物の横で鎮座する半分に割られたゆで玉子に目が行く。
あの球体の中はどうなっているんだろう。丸い卵黄がぷかぷかと卵白に浮かんでいるのだろうか。触った感じ、殻は結構堅そうだった。
「どしたん?なんか考え事してんのん?」
母に指摘され慌てて箸を動かす。
「なんもないよ。ただ、毎日毎日作ってもらって申し訳ないなぁと思って」
「どしたん、えらいしおらしいこと言うて」
「いや、ほんまに、生まれてからずっと作ってもらってるから・・」
「そんなんかまへんよ、親子やねんから」
「うん・・」
「そんなことより、その後、あの何とかマッチってどうなったん?」
「マッチングアプリなぁ、だ~れからもな~んにもけえへん」
「そうなんや。それやったら、お金払って入るやつあるやんか、あれいっぺんやってみたら。お父さんもお金出したるいうてくれてるで」
「ええわ。あれ誰かに聞いたことあるけど、確かに人はようさん紹介してもらえるけど、結構ええお金取られるんやって。そこまでして私・・・」
「せやけど、なかなか出会いの場って無いんやろ。社内なんかどうなん?」
四十前後の独身男性社員の顔を思い浮かべるがワチャーっといったところだ。
「前も言うたけど、ろくなんおらんねんて」
「そうやろ。それやったらお父さんに頼んだるわ」
「ええて、ええて、もうちょっとだけ時間頂戴」
慌てて食事をとると自室に逃げ込む。
スマホを手に取るとマッチングアプリにアクセスし“条件変更”をタップする。
“子供は最低一人は欲しい”を消して“できれば欲しい”と打ちこむ。
そして対象年齢の下限を三十歳から二十五歳に変更し“更新”をタップする。
「あーあっ」とため息をついて小さな鏡に顔を映す。
「齢取ったなぁ」と言った瞬間に鏡に目が釘付けになる。
右耳の上からピヨーンと水平に飛び出た髪の色が赤い。
まさかと思いサイドの髪をめくると、赤毛のアンだった。
左側のサイドをめくると同じく赤毛のアンだった。
染めて一カ月と少しでこの有様、いったいどうなっているんだろう、私はどこに向かっているんだろう・・。
改めて箪笥の引き出しから布袋を取り出す。
手を突っ込み球体を一つ取り出すと“2”と記されていた。
軽く振ってみる。中に何か液状のものが入っているという感じはしない。テーブルの角にコツコツと打ち付ける。思った以上に堅そうだ。
これを砂浜に埋め、数十日すると砂の中から小人がはい出てきて海へと、いや、人間だから陸に向かって・・そんなことはどうでもいい。
扉の向こうが騒がしい。
せんべろが帰ってきたようだ。
酔ってまたつまらないことを大声でしゃべっている。たまに“理花”という単語が混ざる。
と、突然、部屋の扉が開いた。
「よっ、理花!」
せんべろの突然の乱入に慌てて布袋を床に落としてしまい、中から四個の球体が飛び出し、コロコロと床を転がった。
「ワーッ、ギャーッ、こらっ、出ていけおっさんっ、今度はほんまに犯るぞっ!」
目を点にしているせんべろを部屋から突き出すと扉を閉め鍵をかける。
右手に握りしめていた“2”と床に転がった“1”“3”“4”“5”をそーっと布袋に戻し引き出しの奥にしまう。
リビングで大騒ぎするせんべろの声が扉を通して聞こえてくる。
「あいつ、部屋の中でゆで玉子いっぱい食べてたぞっ」
アホかっ。
「それも全部に数字が書いてあった」
老眼のくせによう見えるなぁ。
「あいつ、結婚でけへんストレスで過食症になったんちゃうか」
扉ごとぶっ飛ばすマシンガンを誰かくれっ!
「それか、あいつ、産卵したんちゃうか、きっとそうや。子孫を残さない人間に危機感を感じた遺伝子が突然変異して、ニワトリみたいに無精卵を産むようになったんや」
扉を蹴り破ろうと立ち上がった瞬間、ハッと脳みそが反応した。
ニワトリ・・ニワトリ・・卵・・球体・・ニワトリ・・ニワトリ・・トサカ・・赤い髪・・。
鏡の前でサイドの髪をめくる。
「トサカ・・?」
気を失いそうになった時、スマホが小さなテーブルの上で震える。
マッチングアプリの“いいね”が届いた。
捨てる神あれば拾う神あり、ルンルンで“いいね”を覗きに行く。
“チーすっ、西原です。門戸拡げましたネ。すごくいいことです。また今度デートでもお願いします”
「このーっ、クソガキにクソ親父がっ!!」
雄たけびを上げると蹴破りかけた扉にスマホを投げつける。
11
浮気をした。
と言っても、美容院のことだ。
「いらっしゃいませ。今日はどうされますか」
鏡に映るイケメンに聞かれ少し緊張する。
「少し伸ばしたいので毛先をそろえる程度で、あと、毛染めお願いしてもいいですか」
「かしこまりました」
笑顔が素敵だ。
本当はいつものリエちゃんのお店に行こうと思ったが、なぜか、髪を染めることに抵抗があった。私の“秘密”をいつものお店には知られたくない、そんな感じだった。
「失礼いたします」
髪を触られ、ぞくっとする。
男性に髪を触られることなど、いったいいつ以来だろうか。
「カラーリングされたんですか?」
「ええ。お芝居をやってまして、役で赤く染めて、自分で市販の商品で黒に戻そうとしたんですけど、うまくいかなくて」
また、同じ嘘をつく。
「そうなんですか。ところで、お芝居ってどんなのされてるんですか?」
「まぁ、普通のやつです。前衛的とかそんなんでは全然ないんです」
「いえ、実は私も芝居をやっているんです。
良かったらチケット置かせてもらいますから言ってください」
「あ、ありがとうございます」
イケメンとの逢瀬が終わった。
市販の商品の五倍のお金がかかったが、そんなことは比べ物にならないくらい楽しい時間を過ごせた。リエちゃんには悪いが、鞍替えしようかと真剣に考える。
スタッフの方に見送られ、近くの駅に向かう。
自宅に帰ってもせんべろの「こらっ、差せっ、よしっ、逃げろっ、そのままやそのままやっ」の声を扉越しに聞くのが鬱陶しかったので、どこかへ行こうかと考える。
見たい映画などない、お腹もすいていない、急に声をかけて付き合ってくれる友達、もちろん、彼氏などいない、の、ないないずくし。
肩に掛けたトートバッグに、昨夜“産卵”して六個になった球体の重みを感じ、目的地が決まる。
一時間ほど電車に揺られ、ホームに降り立つと、潮の香りに包まれる。
小学校の遠足で来て以来だろうか。
駅を出てすぐのところにあったコンビニで缶ビールを買い海岸に立つ。
さすがに泳いでいる人やサーフィンをしている人はいなかった。遠くで釣竿を振っている人が数人いるだけだった。
しかし、夏の海ももちろんいいが、冬の海もなかなかおつなものだった。
嫌が上でもおセンチな気分になる。
鼓膜の奥から、サザンやユーミンのメロディが次々と湧いてくる。
小さく砕けた貝殻にコーティングされた砂浜に鎮座する流木を見つけると腰を下ろし、缶ビールのプルトップを引く。
少し冷たさを感じたが美味しかった。
もう一口、喉に流し、砂浜の上に置くと、トートバッグから布袋を取り出し、中から六個の球体を一つ一つそーっと拾い上げ、周りに並べる。
そして、少し手を伸ばし、それらの横でゆっくりと砂を掻く。海亀が産卵のために後ろ足で掻くように。
やがて、浅いくぼみができると、砂浜に置いた缶ビールを手に取り、空いた方の手で球体を一つ一つそこへ入れていく。
冬の海風が肌を打つ。
くぼみに収まった球体は番号の書かれたゼッケンを胸に貼り「いってきます」と敬礼する。
そして、軽くなった缶ビールを砂浜に戻し、掻いた砂を両手で球体の上にかけていき、ゼッケンの数字が見えなくなりかけた時、スマホが震えた。
「今どこなん?」
母だった。
「うん、ちょっと、ウィンドショッピングしてんねん」
「そうなん。
お父さんが珍しく競馬で勝ったからご飯でも行かへんかって」
「ええよ」
「それより、あんた、大丈夫なん?」
昨夜のことを案じていているのだろう。
「大丈夫よ。父さん大騒ぎしてたけど、来週、忘年会あるから、その余興で使うビンゴゲームの球を作っててん。心配せんでもニワトリみたいに一人で部屋で卵なんか産んでへんから」
「そうなんや、それやったらええんやけど。で、なんか食べたいもんある?」
「なんでもええよ」
「お父さん、二度漬け禁止のんやなくて、順番に出てくる、ええ方の串カツ食べに行こう言うてんねんけど」
「それでええよ」
待ち合わせ場所と時間を決めて電話を切る。
「心配してくれてありがとう」と母に言いそびれる。
ゼッケンまで埋まりそうになった窪みの中の球体を一つずつ取り出し、砂を払い、布袋に戻し、トートバッグに収める。
流木から腰を上げると、空になった缶ビールを手に取り、砂浜を後にする。
駅の手前の“みんなの砂浜、みんなできれいに”と書かれた看板の下に据え付けられたリサイクルボックスに空になった缶ビールを放り入れる。
そして、肩に掛けたトートバッグに手を入れる。
最初に指が触れた布袋をスルーして、紙袋を探し当て取り出す。
「ここでええねんな」と一人ごちると“燃えるゴミ”のボックスに放り入れる。
紙袋の中には、母には心配を掛けてはいけないと、トイレのコーナーラックから少しずつ抜き取った生理用品が収められていた。
12
「俺も長い間サラリーマンやってるけど、クリスマスイブの日に忘年会やるのは初めてやわ」
赤ら顔の部長が、同じくタコのようになった西原君に言った。
「何言ってんですか、部長、クリスマスって言ったって、みんながみんな彼女とデートしたり、家族で七面鳥食べてるわけじゃないですから。それに、クリスマスはイブと本チャンの二日あるわけですから、そんなのどっちかでやればいいんですよ」
「まぁ、そう言うたらそうやねんけどなぁ・・」
部長は少し納得いかない表情でゲソ天をつまむ。
「それにこの忘年会シーズンにしては団体客が少ないですから、料理や飲み物が出てくるのが遅いといったクレームはありませんし、とにかくあの騒がしさが無く静かにゆっくりと呑める。おまけにクリスマス特典で、締めのおそばが無料で提供される。いいことづくしですよ」
今日のこの日に忘年会をやると聞いた時は、本当に空気を読まない子だなと思ったが、部長との会話を聞いていると、なるほどとうなずくことができた。まんざらバカではないらしい。
「山本さんもそうですよね。彼氏とのデートは明日ですよね」
「うるさいわっ」と目の前の紙おしぼりを投げつける。
「西原君、今のはセクハラっ、アウトーっ」
隣の仲村さんが楽しそうに言う。
横から見るとすこしお腹が膨らんできたようだ。
「ほんまにしゃあない子やなぁ。で、仲村さんは何呑んでんのん、て、まさかお酒は呑まれへんし・・」
「そうなんです。本当は呑みたいんですけど、さすがに・・」と言って仲村さんは自分のお腹をそっとなでた。
完全にお母さんの顔になっていた。
「つわりとかは大丈夫なん?」
「はい。今のところは大丈夫でごはんも美味しく食べれてます」
「そう、良かったね。そしたらこれ食べぇ。もうみんな酔っぱらってるから箸伸ばせへんと思うし、残ったらもったいないやんか」と言って、目の前の山と盛られた天ぷらの皿を指差した。
「はい、いただきます」と言うと、仲村さんは海老の天ぷらをつまみ、天つゆに浸すと口に運んだ。
「美味しいーっ、理花さんも食べてくださいよ」
「うん、食べる食べる」と言って仲村さんと同じく海老を食す。
「あっ、美味しいっ」と言ってハイボールで追いかける。
「仲村さん、どんどん食べや」
「はい、ありがとうございます。ところで山本さん、あの件、うまくいっていますか」
「そやねん、一回だけ会ってんけど、ちょっとなんて言うか、贅沢言える立場やないんやけど、断ってん」
「そうなんですか」と言いながら仲村さんはかぼちゃの天ぷらに箸を伸ばす。
「その後はぱったり。なんの“いいね”もけえへんわ」
「何か条件を変えたりすればいいんじゃないですか」
対象年齢を下げたことは言わなかった。
「そうやんねぇ、ちょっと考えてみるわ」
締めのおそばをみんなで食して忘年会はお開きとなった。
店を出ると、真っ赤なお鼻のトナカイ部長のそりに乗って、男性社員はクリスマスイブの夜の街に消えていった。
仲村さんと二人で駅までの道を歩く。
「産休はいつから取るのん?」
「三月からです。色々ご迷惑をおかけしますけど・・」
「そんなんかまへんよ、気にせんといて。子供ちゃんはどっちかわかってんのん?」
「いえ、まだなんです」
「希望はどっちなん?」
「できたら女の子が欲しいなぁと思ってるんです」
「そう。私も結婚すらできるかどうかわからへんけど、もしできたら、女の子が欲しいと思ってんねん」
「そうなんですか、女の子の方が絶対に可愛いですよね」
駅に着き、乗る線の違う仲村さんと別れる。
改札をくぐろうと思ったが、まだ時間が早いのと、二日前からやって来た“寒波”に珍しく寒さを感じ、体を温めたかったので、駅を離れ呑み屋を探す。
少し歩くと“おでん”という黒い文字が浮かぶ赤ちょうちんをぶら下げている店があった。
網暖簾の向こうを覗くと“クリスマス感”がなかったので入店する。
カウンターの席に腰を下ろすと、初老の店主がすぐにおしぼりとお通しを出してくれた。
「おでんの盛り合わせと熱燗いただけますか」と店主に告げる。
サンタの赤い帽子をかぶった人や、クリスマスのBGMが存在していないことにほっとする。
すぐにおでんの盛り合わせと熱燗が供される。
せんべろもいつもこんな感じの店で呑んでいるのかなと思っているとスマホが震えた。
マッチングアプリの“いいね”が届いた知らせだった。
開くと、また、あの野郎だった。
“一度お会いできませんか”の文字の後に日時と待ち合わせ場所が記されていた。
そして“明日のクリスマスの夜に”という言葉が追伸の形で添えられ、最後にサンタさんの絵文字で結ばれていた。
「なんなん?」と言葉を垂らすとお銚子のお酒を曇ったコップに移し、喉に流し込む。
そして、おでんのこんにゃくに辛子をつけて三角形の角をかじった時、またスマホが震えた。
電話の着信だった。
「読んでくれました?」
野郎だった。
後ろからトナカイ部長のジングルベルが聞こえる。
「山本さん、僕はマジですからにぇ」
呂律が回っていない。
「同僚として見にゃいでくださいね、一人の男として見てくだしゃい」
「はいはい、わかったから、もう切るでぇ」
「プロフィールにもきゃいてますけど、僕、年上の女性が好きなんでしゅよ、明日、絶対に来てくだちゃいね」
「ええかげんにしときっ!」と言う前に電話は切れた。
13
クリスマスで土曜日ということもあって、手をからめ、見つめ合っている若いカップルが数組、車内に存在する。
中には我慢できず、人目もはばからず、とろけあっているカップルもいた。
西原君のプロフィールに改めてゆっくりと目を通す。
確かに“年上の女性が好きです”と書かれている。
しかし、生年月日の和暦は“平成”だ。
何とも言えない複雑な気持ちになっていると地下鉄が待ち合わせ場所の最寄り駅に到着する。
歩を進める足元はグレーのローヒールのパンプス。
いつものスニーカーを履いてこようと思ったが、とりあえず、今日はクリスマス、それも一人の男性と会う、ということで選択した。
待ち合わせ場所に着くと、西原君はまだ来ていなかった。
彼が指定した時間までにはまだ十分ほどあったが、やっぱり、酔っぱらった上での行為だろう。
周りには誰かを待っている人がたくさんいる。みんなすごく幸せそうな表情をしている。私には待ってくれている誰かがいるのだろうか。
約束の時間になる。
西原君は現れない。スマホも震えない。
あと少し待って来なかったら映画でも見て帰ろうと思って、十五分ほどたったが、何の変化もなかったので、場所を離れようと思ったが、とりあえず西原君のスマホにコールする。
しかし出てくる気配は全くなかった。
やっぱりな、と立ち去ろうとした時「山本さんっ!」という声が遠くから聞こえた。
髪はぼさぼさ、白のYシャツはよれよれ、スーツは皺だらけ、といった格好の西原君が駆けてきた。
「すいません、スマホ失くしちゃって」
「そうなんや。電話しても出えへんから・・で、どこで失くしたん?」
「それがわかんないんですよ」と言った西原君の顔は、昨夜かなり呑んだのか、ぶくぶくにむくんでいて、おまけに少し酒臭かった。
「駅の落とし物係とかに電話したん?」
「いえ、昨日、結局、日付が変わっちゃってタクシーで帰ったんですよ。それで、レシートに書いてあったところに電話して、乗った車を探してもらったんですけど、そのような落し物はなかったと」
「そうなんや。他に思いつくとこはないの?」
「マンションのエントランスからエレベーターの中、廊下も探したんです。タクシーを降りた辺りも見に行きました。だけど、ないんです」
「そうなんや・・あっ、あとはご機嫌に呑んでたお店は?」
「さっき電話したんですけど、まだ開店までは早いのか誰も出なくって。後で行くんでつきあってもらえますか」
「ええよ。もう、そこになかったら諦めなしゃあないんちゃう」
「そうですよねぇ・・あっ、今日のお店、予約してあるんで、もうあまり時間がないから少し急ぎ足でお願いします」
予約?
不穏な空気を感じながら西原君に必死についていく。
やがて目的地に到着する。
店内に入ると、少し薄暗く、周りは若い人のカップルばっかりだった。
店員がやって来た。すごいイケメン。
「当店をご利用いただきまして誠にありがとうございます。本日は“クリスマスディナーコース”をご用意させて頂いております」
クリスマス・・ディナー・・何年ぶりに聞いた言葉だ。
すぐにシャンパンが用意される。
隣の二十代のカップルと目が合う。
自分たち二人は周りからいったいどう見られているのだろうか。
久しぶりに再会した年の離れた姉弟、変な宗教を勧誘するおばさんと、勧誘される若い男・・・。
「山本さん、メリークリスマス」
メリークリスマスって・・とりあえずグラスを重ねる。
また、隣の二十代と目が合う。
何、普段着で来てんのよ、ここはスタバちゃうで、今日は何の日かわかってんのん?
そんな顔を二人ともしていた。
料理が次々と運ばれてくる。呑みものは赤ワインに変わった。
久しぶりのフォークとナイフに手こずる。
「山本さん、この店、食べログの評価が4.5もあるんですよ。予約取るの大変なんですから」
西原君の顔は赤ワインより赤かった。
「よう予約取れたね」
「三か月前でぎりぎりでした」
三か月前?
「もうこの頃には絶対に彼女ができていると思っていたので」
なんや敗戦処理やん!!
「で、なんで私なん? 女友達とかようさんおるんちゃうの?」
「いえ、まだ、こっちでのテリトリーの確立ができていないんです」
なんじゃ、テリトリーの確立って・・。
「で、おそらく、イブも本チャンも何の予定もないであろう私に声を掛けたと」
「いえ、そういう意味じゃないんですけど」
そういう意味しかないやろ。
「せやけど、この店、結構高いんちゃうん?私の分は払うから」
「いえ、僕が誘ったんで・・」
ワインの色が赤から白に変わり、やたら美味しいプチケーキを食し、最後のカプチーノが出てきた時、座っていた西原君の目が立ち上がった。
「昨日の電話の件、結構マジなんですよ。僕本当に年上の女性が好きなんですよ」
隣の二十代のカップルがまたこっちを見たが、赤と白のワインが「なんやこらっ、文句あんのんかっ」という表情を向けさせた。
「年上いうったって、二つや三つくらい上ならええで、私ら一回り違うんやから」
「やっぱりダメですか・・だけどマッチングアプリには二十五歳からってなっていたじゃないですか」
「あれは何て言うか、西原君が前に言うたように間口を拡げただけなの。イメージとしては二十九、せいぜい二十八まで」
「そうなんですか」と言った西原君は連日の深呑みも重なってたのか、また、ぐったりとした表情に戻った。
かたくなに支払いを拒んだ西原君と店を出る。
「ご馳走様、悪いね」
「いえ」
元気がなかった。こんな西原君を見るのは初めてだった。いつも自信満々に見えるが、言葉は悪いが、ひょっとしたら“虚勢”かもしれない。
「店どこにあるか覚えてんのん?」
「ええ、なんとなく」
十分も歩かないうちに西原君が立ち止まった。
「ほんまにこのお店?」
どう見ても小汚い喫茶店、スナックにはいくら安く見積もっても見えなかった。
「いらっしゃい」
店内に足を踏み入れると、女性の、それもかなりのだみ声で迎えられる。
「あっ、昨日のお兄ちゃんやんか」
七十は優に超えているだろうママが西原君を見て言った。
完全に喉が焼けている声と、外れかけのパーマネントが妙にマッチしていた。
「すいません、昨日、こちらでスマホの落とし物とかなかったですか?」と西原君が聞く。
「落とし物ちゃうやんか。お兄ちゃんが『俺はスマホになんか支配されへん。仕事上しゃあないから使ってるだけや、本来こんなもんに頼る必要なんかないねん』言うて置いていったんやんか」
西原君の目が点になる。
「ほらっ」と言ってママがカウンターの向こうからスマホを西原君に差し出した。
「あーっ、あったあった、すいません、お母さん、ありがとうございますっ」
西原君は少し元気を取り戻した。
「俺は支配されへんてえらそうなこと言うても、これなかったらなんもでけへんねやろ。
なっ、お姉さん」
「そ、そうですよね・・と言っている私たちもそうなんですけどね・・」
「折角来てくれはってんから少し呑んでいって。
昨日、部長さんが入れてくれたボトルがまだ残ってるから、席代だけでいいんで」
さすがにクリスマスとはいえ土曜日の夜だけあってサラリーマン風の客は一組もいないというか、カウンターの隅で、おそらく常連なのだろう、ママと同じ齢くらいの白髪のおじさんがサンタの赤い帽子をちょこんと頭に乗せ、黙ってグラスを舐めていた。
なぜか、せんべろを思い出す。
「失礼やけどお姉さんは本当のこのお兄ちゃんのお姉さん?」とママが聞く。
「いえ、会社の同僚なんです。仕事でたまたま一緒だったんで」
「一人でよう行かんからついてきてって言われたんでしょ。このお兄ちゃん、結構、甘えたと思うから」
西原君を見ると、一心不乱にスマホの画面をタップしている。完全に“支配”されている。
一つだけあるボックス席に通され、セルフで水割りを作っている間も西原君はずっとスマホと格闘していた。
「先によばれるよ」とグラスを持ち上げると西原君は我に返り「あっ、すいません」と言って慌てて目の前のグラスを持つ。
「改めてメリークリスマス、スマホ見つかってよかったね」とグラスを重ねる。
「すいません、迷惑かけちゃって」
「そんなんええよ。私も久しぶりにクリスマスに肩から浸かってええ気分やから」
ママが乾きものを持ってきてくれた。
「良かったら、なんか歌ってや。今日はもうお客もけえへんと思うから、貸し切りやし、遠慮せんといてや」
アタリメが水割りと合う。
「西原君、折角やからなんか歌ったら」
「いえ、なんかそんな気分じゃなくって」と言った彼はぐいっと水割りをあおった。そして「山本さん、実は・・」と言って、また座り始めた目をこっちに向けた。
「どしたん?」
「僕、母親がいないんですよ。小さい時に病気で亡くなって。面影もほとんどないんですよ。家の仏壇にある遺影を見ても、自分の母親ってこんな顔してたんだぁ・・ていう感じで」
「そうなんや」と言ってアタリメをマヨネーズにくぐらせる。
「だからどうなのか、すごく年上の女性に魅かれるんです。自覚は無いんですけど、本来なら母親から受けるべきだった愛情を今になって他人に求めているのかなぁと思って・・」
アタリメを水割りで追いかける。
「そこのお二人さん、ちょっと、歌わしてもろてええかなぁ」
突然、カウンターのおじさんが聞いてきた。
「あっ、どうぞどうぞ」と返す。
すると、おじさんはママに「あれ入れて」と言った。
演歌のイントロが流れてくるのを待っていると、昨日、西原君の電話の向こうから聞こえてきたトナカイ部長のジングルベルのイントロが流れ始めた。
お決まりやな、こんなおじさんでもクリスマスの夜はこれを歌うんやと思っていたら、度肝を抜かれた。
「ジングルベルッ」
完璧な英語の“ジングルベル”だった。
トナカイ部長の“ジングルベル”とは全くの別物、次元が違った。
おじさんは間奏の間に「あんたらも歌いなはれ、深刻な顔しとらんと、今日はクリスマスでっせ」と言うと、ママがタンバリンとマスカラを持ってきた。
「さっ、歌いましょ」
おじさんは歌詞を日本語に変えてくれた。
「ジングルベルっ・・ジングルベルっ・・鈴が~鳴る~」
ママも入って四人での合唱となる。
続いて、真っ赤なお鼻のトナカイさんに移る。
おじさんは続けて日本語の歌詞で歌ってくれる。それでも、日本人が歌う“真っ赤なお鼻”とは全く違っていた。このおじさんはいったい何者なのだろう。
西原君もタンバリンを叩きながら楽しそうに歌っている。
「暗いよっ僕の人生は~ピッカピッカの山本さんが必要なのっさ~
いつも泣いてた~ 西原君は~ 今宵こそはと~ 意気込みまっしった~」
「ハハっ、アホかっ」
手を叩いて大笑いしながら、何気なく壁に掛けてある時計を見ると、終電の時間が近づいていた。
「西原君」
タンバリンを親の仇とばかりに叩いている彼の肘を小突く。
「そろそろ終電やから、この歌終わったら帰るけど、西原君はどうする?」
「僕は朝まで歌って帰ります」
「そう。じゃあ、今日はごちそうさま。すごく楽しかったわ」
「僕もです」
“真っ赤なお鼻”が終り、席を立つ。
おじさんが間髪おかず次の歌を今度は英語の歌詞で歌い始める。
「あっ、この歌知ってる」と思わず声が出る。「なんとかっていうアクション映画のエンドロールで流れる曲で、なんとかっていう超有名な歌手の持ち歌やねん」
「ねえちゃん、若いのによう知ってんなぁ」とおじさんが歌うのを止めて言う。「ダイ・ハードっていう映画で、曲は、フランク・シナトラっていう今は無き大スターの名曲や」
言い終えると、おじさんは再び歌い始める。
さびのところで唯一聞き取れる英語の“SNOW”
店内に雪が舞い始め、となかいのそりに乗ったサンタクロースが笑顔で白い髭をなでる。後ろ髪を引かれる思いで店を出る。
駅までの道を急ぐ。
ホームの灯りが見えてきた時、下腹部に痛みを感じる。
ここでか、と思いながら、なんとか駅にたどり着き、トイレに駆け込む。
運よく個室が一つ空いていて、便座に腰を下ろす。
いつもの“陣痛”がやって来た。
うーんと下っ腹に力を入れたが、何かの個体が体から放出された感覚が無かった。
恐る恐る太ももの間から便器内を覗く。
クリスマスの夜に、お月さんがやって来た。
14
年が明けて二回目の土曜日に伸子が元気な男の子を出産した。
翌日、出産祝いを求め久しぶりにデパートへ行き、乳幼児専門のショップで、見ているだけで心が和む気持ちになりながら何にしようかと悩んでいるとき、西原君からショートメールが来た。
“三月で会社を辞めることにしました”
手に取っていた服を棚に戻すと店を出る。
人のいない階段の踊り場を見つけ、西原君にコールするが出てこない。ショートメールで“なんで?”と送るが、返事は返ってこない。
§§§§§§§§§§§§§§§§§§
翌日、社に着くと席に西原君はいなかった。
「西原君は?」とかなり目立ってきたお腹の仲村さんに聞く。
「さっき部長に呼ばれて応接室に入っていきました」
「そうなんや」
「なにか、西原君、会社を辞めるみたいです」
「えっ、なんで?」
「よくわからないんですけど、今朝、会った時に言ってました」
「入ったばっかりやのになぁ・・」
「大阪の水に合わなかったんですかねぇ」
「そういうタイプやないと思うけどねぇ」
始業のチャイムが鳴って暫くしてから西原君が戻ってきた。
コピーを取りに行くふりをして声を掛ける。
「どしたん?」
「いえ、色々考えるとこがありまして・・」
「テリトリーの確立がでけへんかったから?」
「ははっ、よく覚えてますよね。まぁ、それも少しはあります」
「東京に帰るのん?」
「まだどうしようかと迷っているんです。大阪の街もすごく気に入っているんで、もう少しいようかなとも思っているんです」
「そうなんや。まあ、時間あったらまたゆっくり話そうか」
西原君は薄く笑ったが言葉は吐かなかった。
用もないのにコピー機に向かおうとした時「山本さん、ちょっといい?」と部長から声を掛けられ、応接室へと誘導される。
「西原君辞めるって聞いた?」
「はい、さっき仲村さんから」
「留意したんやけど、どうも気持ちは固まってるみたいで」
「そうなんですか。何かあったんですかね」
「忘年会の後も、しょうもないスナックで呑んでたんやけど、大阪の街が気に入りました、ここで骨を埋めます、って冗談で言うてたんやけどなぁ」
その次の日のことはもちろん口に出さなかった。
「で、山本さん、誠に申し訳ないんやけど、仲村さんの“しばしお別れ会”と西原君の“送別会”の合同呑み会の幹事やってくれへんかなぁ」
「わかりました。二人を除いたら、一番の新米ですから。いつ頃がいいですか?」
「西原君が三月に入ったら有給を消化するんで二月の最終週でお願いしますわ」
「わかりました」
「せやけど、今の若い子らは恵まれてるよな。俺らんときは確か入社一年目は、通常の半分しか有休もらえんかって、なおかつ、使うことなんかなかなかでけへんかったもんなぁ」
「そうなんですか」
「今は一年目から通常分もらえて、会社挙げて休め休めやもんなぁ」
「時代ですかねぇ」
「せやけど、入って一年で辞めて、普通やったら申し訳ないっていう気持ちがあって、残ってる有休を全部使い切ろうなんか思わんと思うんやけどなぁ・・それも時代なんかなぁ、行使できる権利はとことん使おう、言うたら怒られるけど、産休もそうやもんなぁ。給料の六割くらいもらえて、残った人にはなんらからの負担を与える。でもその権利は私の権利、使って何が悪いの? そんな時代なんやろなぁ、て言うか、平成不況が長すぎたせいか、言葉悪いけど、今の若い人らちゃっかりしてるもんなぁ」
「そうですかねぇ・・」
「山本さん、今のん誰にも言わんといてな。総務の耳に入ったら何言われるかわからへんから」
「大丈夫です。口は堅いほうですから」
「じゃあ、呑みの件、お願いしときますね」と言って立ち上がろうとした部長が「そうや」と言ってもう一度腰を下ろした。
「悪いけど、西原君の送別の品も買っといてくれます。個人的にはそこまでやる必要はないと思うんやけど、時代やからね」
「わかりました、で、どんなものがいいですかね?」
「山本さんのセンスに任せます。そしたらよろしくお願いしときます」
部長の後から応接室を出る。
席に戻ると西原君の姿はなかった。
行き先表示ボードには“挨拶回り”時間の欄には“終日”と書かれていた。
定時で退社し自宅に着くと、リビングで母が一人で夕食をとっていた。
今夜のメニューはカレー。
「もう食べる?」と母が手を止め聞く。
「うん。お昼カップラーメンしか食べてへんから」と言うと、母は立ち上がってキッチンへ行こうとする。
「自分でやるからええよ」
「かまへんて。疲れてんねんやろ。早う着替えてきぃ」
「すんません」と母には聞こえない声を漏らし、自室に入り、スウェットに着替え、手洗いうがいを終え、テーブルにつくとカレーライスが湯気を立てて待っててくれていた。
「福神漬けいる?」と母が聞く。
「うん」と言うとキッチンからすぐに持ってきてくれる。
「今日はお父さん呑み会でご飯いらんからカレーにしてん」
「今日は呑み会って、毎晩呑んでるやんか。言い方変えただけやん」
「ほんまやなぁ、あんたの言う通りやわ」
家のカレーはいつもながら美味しかった。
「最近どうなん?」と向かいでカレーを食べる母が聞く。
「マッチングアプリのこと?」
「そう。なんか進展あったん?」
「対象年齢下げてん。二十五歳までに」
「二十五ってあんたより十個も下やん。年上やったらまだしも」
「それが一人だけやけど反応あってん」
「嘘っ、で、どうすんのん?会うん?」
「まだ考えてない」
「そうなんかぁ・・十個下かぁ・・」
「芸能人みたいでええやんか」
「年上やったら別に十個上でもええんやけど・・あっそうや、お父さん真剣に言うてたで。相談所に入るんやったらお金だしたるって」
「うん・・もうちょっと考えさせて。次の誕生日までには結論出すわ」
誕生日までにはあと二カ月余りしかなかった。
カレーを食べ終えると自室に戻る。
箪笥の一番下の引き出しから布袋を取り出す。
“卵”の数を確認する。
増えも減りもせず十個の卵がきちんと収まっている。
クリスマスの夜から“出産”はしていない。
鏡を見て、サイドの髪をかき上げる。イケメンの店で染めてからかなり経つが、根元が赤くなっている髪はわずかしかない。
スマホが突然鳴る。
手に取ると電話の着信だった。
「すいません、色々とご迷惑を掛けちゃって」
西原君だった。
「そんなんええよ」
「それに仲村さんに聞きましたけど、僕らの為に開いて頂ける会の幹事もやって頂けるっていうことで、本当にすいません」
「そんなん、ほんまに気にせんでええって。
それより、お店まだ決めてないんやけど、どっか希望とかある?」
「そうですね、やっぱり、初めて幹事をさせて頂いた時に山本さんにご紹介いただいたあのお店がいいです。すごく良かったんで」
「OK。じゃあそこにしよう。予約取っとくわ」
「お願いします。ところで今何やっているんですか?」
「豪華ディナーを食して部屋でくつろいでいたところ。西原君は?」
「今日一日、部長と、お世話になったお客様を回って、その足で居酒屋へINです」
「じゃあ、また赤鼻のトナカイになってるんや」
「いえ、クリスマスは終わったんで、今日は真っ赤なほっぺたのえべっさんになっています」
「そうか、今日はえべっさんなんや」
「とにかくもう部長が熱すぎて、我慢できずに、トイレに行ってきますと言って逃げてきたんです」
「何とか考え直してくれっていうお願いでしょ?」
「そうなんです。自分の若い時から今までの自叙伝を熱く聞かせて頂きました」
「もう考え直す気はないの?」
「はい。もう決めましたから」
「わかった。じゃあ残りあとわずかやけど、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「席に戻って、また部長の自叙伝の続きを聞いてあげてください。わからんことあったらこれでもかというくらいの大きな声で質問せなあかんよ」
「どうしてですか?」
「えべっさんは耳遠いから」
15
二月に入って一週目の土曜日に伸子の家を訪ねる。
玉のような男の子の誕生に喜ぶ“家族の幸せ”をたっぷりと浴びた。
夕食を食べて行かない、と誘われたが、幹事を任された店の予約を兼ねて食事に行くことを伸子に説明しお誘いを辞した。
「時代やなぁ、せっかく入社したのに。なんかやりたいことでもあるん?」
「さぁ、そのへんはわからへんけど」
「東京に帰んのん?」
「そのへんもようわからへんねん。ただ、大阪の街はすごく気に入ってるとは言うとったけどなぁ」
「せやけど、女の子も産休に入るし、営業マンは一人辞めるわで、結構たいへんなんちゃうん」
「一人派遣の女の人が入ってくるみたいやけど、一から教えなあかんしなぁ、まあ、なんとかやっていくわ」
「今度はゆっくり来て、ご飯でも食べて帰ってな」
「うん、ありがとう、そしたらまたね」と言ってテーブルの椅子から立ち上がると「おばちゃん、バイバイ」と上の二人の女の子に手を振られ、少し複雑な気持ちで伸子ファミリーと別れる。
土曜日の夜とあって店内はカップルや家族連れという、自分には全く縁のないカテゴリーの人たちで混みあっていた。
「へぇー、あの時の若い子やんなぁ」
生ビールを持ってきてくれたマスターが少し驚いた表情で言う。
「そうなんですよ」
「最初来た時に、一心不乱に焼きそばとごはんを食べてはったからすごい印象に残ってるんよ。お兄ちゃん、ここはお酒呑むとこやで、定食屋とちゃうでってね」
「すごくマイペースなんですよ。悪い子じゃないんですけど」
「日にちはいつがいいですか?」
「最終の週の、あっ、ちょうど二十八日が金曜日ですから、そこでお願いできますか」
「かしこまりました」
「料理はいつも通り“お任せ”でお願いします。呑みものは“呑み放題”で」
「承知いたしました」
「今回、彼のリクエストなんです。どこがいいか聞いたらこちらがいいって・・」
「そうですか。彼にとっての大阪はうちの店で始まりうちの店で終わる。居酒屋店主冥利につきますよ」
マスターが戻っていくと生ビールを舐める。
周囲に目をやる。
楽しそうに笑うカップル、子供の口に熱い料理をフーフーして運ぶ母親。伸子の家に続いて幸せのレーザービームを体全体に浴びる。
「私にも幸せになる権利はあんねんけどなぁ・・」と一人ごちると、今日は呑まずにはいられないと腕をまくる。
マスターに「じゃあよろしくお願いします」と言って店を出る。
スマホで時刻を確認し、次の目的の店へ向かう。
御堂筋線に乗って三つ目の駅で降りて地上に出て少し歩き、小さな商店街に入るとその店はあった。
近くの劇場で舞台がはけたのか、次々とお客さんが店に押し寄せてくる。それも大半は若い女の子たちだった。
お目当ての商品の前になんとかたどり着く。
色盲の検査かと思うほど、原色が視界の中を跳ねまわる。
さすがに周りに若い女の子はいない。
迷った挙句、一つの商品を手に取りレジに向かう。
店員がお釣りを渡してくれた時「よかったらご利用ください」と近くの劇場の割引券をくれた。
見ると、ペア券で二名まで利用が可能だった。
自宅に着くと、一日中自室で酒を呑みながら競馬に興じ、酔っぱらっていったん眠りに落ち、その後強烈な喉の渇きで目が覚めて、キッチンに水を飲みに来たであろうせんべろとニアミスした。
「おっ、土曜日の夜のこんな時間に帰って来たっていうことはデートやな」
「当たり前やんか」
「その袋は?まさかもうすぐ誕生日の俺へのプレゼント?」
せんべろの誕生日は自分の一週間後だった。
「地球が自転を止めてもそんなことはあり得へんわ」
「たまには何かくれよ」と言ったせんべろはゲホッと大きなげっぷをした。
「その前に私になんか頂戴よ」
マスターの店で少し呑み過ぎたのか、嫌だったが、せんべろのテンションと近いことを認めてしまった。
「やるやんか。母さんに聞いたやろ。お前がその気になるんやったら相談所の費用、全部出したるよ」
「それはもうちょっと待ってよ。お母さんにも言うたけど次の誕生日までには結論出すから」
「俺は別に急げへんねんで。お前がずっとここにおっても俺はかまへんと思っとる。ただ、お母さんがな・・」
洗面所の扉の向こうから、浴室の扉の開く音が聞こえた。
「うん、わかった、考えとく」と言うと、せんべろは慌てて水道の水をコップに入れ一気に呑み干すと逃げるようにして自室に戻っていった。
16
オーブントースターで焼いた食パンを母から受け取る。
「暖っかい牛乳でええ?」
「うん」
小学生の時から続く光景が、二月最後の金曜日にも見られた。
「今日は呑み会やからご飯はええねんなぁ」
「うん。ひょっとしたら遅うなるかもしれんから先にお風呂入っといてな」
「どっちみち韓流ドラマ見なあかんから早う入るつもりやから」
朝食を終えると手洗いに行く。
少しお腹が痛いと思ったら、お月さんだった。
クリスマスの夜から、また、皆勤が続いている。
始業のチャイムが鳴ると、西原君は部長に連れられ各部署への最後の挨拶に回る。
仲村さんの姿が見えないなと思っていると課長が席にやって来た。
「山本さん、さっき仲村さんから連絡があって、体調が悪いんで今日は休ませてくださいって」
「そうなんですか、大丈夫なんかなぁ、つわりでもきついんかなぁ」
「で、今日の夜なんやけど、今から一名キャンセルって出来るんかなぁ」
「大丈夫です。マスターに私からお願いしておきますので」
「悪いなぁ、そしたら頼んどきます」
課長と入れ替わりに西原君が戻ってきた。
「もう全部の部署回ってきたん?」
「はい。入社して一年経ちましたけど、結構初めて顔を見る人が多くて」
「自分の仕事と関係ない部署の人とは基本的に接点ないもんね。
あっ、そうや、仲村さん、調子悪いんで今日は欠席やって」
「そうなんですか。そういえば、つわりがきつそうだったなぁ」
なんでお前がわかるんやっ。
「せやから、今日は西原君一人が主人公やから」
「残念だなぁ・・」
「なによ、残念って?」
「いえ、仲村さんにプレゼントを持ってきたんですよ。もう会うことは無いと思うんで、どうしようかなぁと・・・」
「なんか、日持ちのせえへんもんなん?」
「いえ、それは大丈夫です」
「まだこっちにおんのん?」
「いえ、まだ決めてないんです」
「彼女も今日休んだし、色々手続きとかあって会社に出てくる時があると思うから、こっちにまだおるんやったら、その時、連絡してあげるから渡しに来たらええやんか」
「まあ・・そうなんですけど」
「そうや、いったん私が預かっといたろか。それで、もし西原君が会社に来る時間が無くて向こうに帰ることになったら私から仲村さんに渡してあげるわ」
「かまわないですか?」
「うん、全然大丈夫」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
西原君からリボンのついた小箱を受け取ると今日の仕事に取り掛かる。
17
西原君の送別会から一週間が経った。
暦は三月。
西原君がいた席は空いたままで、四月からまた新入社員が来ると課長に聞いた。
仲村さんのリリーフには事前の噂通り派遣社員が来た。
偶然にも同い齢で、女の子の子供さんがいて、この四月から小学校に入るのを機に“社会復帰”をした。
仕事の呑み込みが早く、一週間でほぼ引継ぎは完了した。
と言っても、自分の本来の業務に手を付ける時間が取れず、この一週間はずっと残業で、今日も時計の短針はとっくに七を過ぎていた。
「山本さん、ごめんなさいね、ちょっとお客さんとあるから」と課長が申し訳なさそうに帰って行った。
一息つこうとリフレッシュルームへ行きかけた時、スマホが震えた。
「まだ、仕事中ですか?」
西原君だった。
「うん。一息つこうとしていたところ」
「すいません、色々と迷惑かけちゃって」
「迷惑なんか全然ないよ。私は仲村さんの後任の人に引継ぎしてて、残業してんねんから。西原君が退職したことは私には何の影響もないよ」
「何も影響がないってのも何か寂しいですよ」
「あっ、ごめんごめん、そういう意味で言うたんちゃうから。それより、今、どこ?もう東京へ帰ったん?」
「いえ、まだ大阪にいます」
「そうなんや」
「意外と勤めている時に大阪の街を探索できなかったので、もう少しこっちにいて、いろんな所に行こうと思っているんです。今日も天下茶屋に行って、串カツとたこ焼きを食べて、スマートボールをやってきました」
「毎日ホテル住まい?」
「いえ。そんなにお金は無いですから、毎日漫喫です」
「まだもう少しはこっちにおんのん?」
「来週一杯くらいはいようかと」
「そしたら、仲村さんが水曜日に会社に来るから、西原君も来てプレゼント渡したらええやん。なんやったら三人で昼ご飯でも食べようや」
「ええ、ちょっと考えときます。また、連絡します。
そんなことより、頂いたプレゼントですけど、あれは誰のチョイスなんですか?」
「私やけど、なにか?」
「どういう意味でネクタイなんかくれたんですか?」
「西原君が仲村さんにあげたおしゃぶりと一緒。西原君が早く次の会社見つけて頑張ってる姿を予知して。あと、大阪の街をいつまでも忘れんといて欲しいなと思って、ちょっと派手やけどいかにも大阪らしい色合いを選びました」
「ちょっとどころじゃないですよ。かなりなレベルで派手ですよ」
「そうかなぁ、たくさんある中でも一番地味なん選んだんやけどなぁ」
「なかなか面接につけていくのには勇気がいりますよ」
「ええやん、目立って、面接官の印象に残るやんか」
「それならいいんですけどね、あっ、すいません、一息つくところだったんですよね、また連絡します、あまり無理しないでくださいね」
「ありがとう」と言って西原君との電話を切った。
家に着くと、母がお風呂にも入らず待ってくれていた。
いっぽう、せんべろはもうお風呂を出て、自室で“一人二次会”を開いているとのことだった。
「もう遅いし、消化悪いもんあかんから、湯豆腐作っといたから」
小鍋で湯気を立てている白い豆腐を見ると、なぜかほっとした。
「出来合いかなんか置いといてくれたら自分でチンして食べんのに」
「そんなん、気ぃ使わんでええよ。
私お風呂入るから、全部食べたら、炊飯器にご飯あるから、玉子割って雑炊にして食べよ。玉子くらいは割れるやろ?」
「そこまでは“あかん子”やないよ」
そうかなぁ、と笑うと母は洗面所に入って後ろ手で扉を閉めた。
湯豆腐を食しながら、壁に掛けてある、毎年、生命保険会社からもらう犬のカレンダーに目が止まる。
誕生日の日にちに丸印がついている。母が記したのだろう。
あと三週間。
どうしようかと考えるうちに食欲がどこかへ飛んでいき、豆腐を全てたいらげると雑炊はパスして自室へと入る。
スマホを見るが“いいね”はもちろん来ていない。
履歴を覗き、四十六バツイチへ送った、断りの文字と、それに対して返ってきた文字を目で追い、新たな文字を打つ。
“ご無沙汰しております。お元気ですか。その後如何でしょうか。また一度お会いしませんか”
送信しようとしたが、大きくため息をつき打った文字を一文字一文字消していく。
「お風呂でも入ろか」と一人ごちると、布袋が入っている引き出しの一つ上の段の引き出しを開け、着替えを取り出す。
§§§§§§§§§§§§
火曜日の夜になっても西原君からは連絡がなかった。
“明日どうすんのん?”
ショートメールを打つが反応がない。
“仲村さんのプレゼント渡しときましょか”
慌てたかのように電話がかかってくる。
「すいません。それは僕から渡しますので、まだ持っておいて頂けませんか」
「わかった。で、明日は無理やねんな?」
「ええ。行ける日が決まれば、また連絡します。仲村さんにはよろしく言っておいてください」
それだけを言うと西原君は電話を切った。
翌日、仲村さんが出社してきた。
お腹はかなり大きくなり、微笑んでいる姿が幸せにしか見えなかった。
昼食に誘ったが、つわりがまだひどいらしく、派遣の女性もお弁当を持ってきていたので、会社近くの洋食屋に入る。
ナポリタンと紅茶のセットを頼み、スマホをいじっていると、マッチングアプリに“いいね”が飛び込んできた。
まさか四十六バツイチかと思ったが、違った。
“一度お会いできないでしょうか。同僚としてではなく一人の男として。正直に言いますが、私これまで彼女がいたことがありません。遠距離恋愛をしていたというのも嘘です。それにまだ”女性“を知りません。いわゆる”童貞“です。今週の金曜日に会ってください。送別会をやってくださったあのお店で待っています。来てくださらなければダメだったと思って東京に帰ります”
思わずつばを飲み込む。
ナポリタンがテーブルに到着しているのに気が付かなかった。
返信をしようと思ったが、待ち受け画面に戻し、財布とハンカチしか入っていないポシェットに収める。
フォークとスプーンを手に取るが震えてパスタを上手くフォークに巻けない。
何とか半分ほど食べたが、ほとんど味を感じず、店員に謝ってさげてもらい、代わりに出してもらったセットの紅茶も半分も飲まないうちに店を出る。
自宅に戻ると母がリビングで韓国ドラマを見ていた。
「ご飯は?」
「食べるけどあんまりお腹空いてない」
「そしたら、うどんでもつくったろか」
「うん」
「今日はお父さん、部署の送別会で遅うなるから先にお風呂入りや」
「わかった」
台本を棒読みするような返事しかできない。
昼間の衝撃がまだ体から抜けない。
部屋着に着替え、手洗いとうがいを終え、テーブルに着く。
母が湯気を立てた小鍋をテーブルの上に置いてくれる。きつねうどんで玉子まで落としてくれている。
「まだ忙しいん?」
「だいぶましになった。来週からはいつも通り定時で帰ってこれると思うわ。あっ、そうや、金曜日は晩御飯いらんから」
勝手に言葉が出てしまった。
「呑み会?」
「う、うん、久しぶりに同期の子らと」
「そうなんや、お父さんもまた呑み会や言うてたから、スーパーでお鮨でも買ってきて食べよ」
食欲はなかったが、残すと母に心配されると思い、必死の思いでうどんとお揚げとおつゆに溶けた玉子をなんとか完食する。
「お風呂先入ってな、今日は特番で二時間やから」と母に言われ、ごちそうさまと手を合わせて自室に入る。
尻のすわりが悪い。手持無沙汰感がひどすぎる。とにかく誰かに聞いて欲しい。
発狂する寸前でスマホを手に取る。
「あっ、理花、どしたん?こんな時間に、なんかあったん?」
伸子の元気な声に救われる。
「遅い時間にごめんなぁ」
「かまへんよ、息子ちゃんはもう寝たから」
「そう。いや、実はなぁ・・・」
「えーっ!!!!」
西原君と言う固有名詞を混ぜて全てを伸子に話した。
受話器の向こうで息子ちゃんの泣き声が聞こえる。
「ごめんごめん、起こしてもうたやん、また、改めてかけ直すわ」
「ええね、ええねん、赤ちゃんは泣くのが仕事やから、それより、どうすんのよ、これ、ほんまにすごいことやでぇ」
「わからへん。どうしたらええんかわからへんねん。だから伸子に電話してん」
「あんたは彼のことどう思ってんのよ」
「特になんとも。悪い子ではないと思うんやけど、恋愛の感情なんかまったくない」
「お母さんとかには言うたん?」
「彼の名前は出さへんかったけど、やたら年の離れた一人から“いいね”が来たとは言った」
「そしたらなんて?」
「難色示してた。年上やったらまだしもって」
「そら、そう言いはるわなぁ」
「やっぱりやめといたほうがいい?」
「うん。彼には申し訳ないけど、将来、うちの娘が同じケースに遭遇って、まあ、滅多にあることやないとは思うけど、そうなったら、やっぱり私は反対すると思うわ」
「普通、そうやんなぁ」
伸子の後ろからまた息子ちゃんの泣き声が聞こえる。
「わかった、ありがとう、なんか気持ちがすっとしたわ。息子ちゃんに謝っといてな、大好きなママ取ってしまってごめんて」
電話を切ると、ベッドに横になる。
伸子と話をして少し気持ちが楽になった。
冷静に考えると、未来ある青年が、一回りも上の女性、それもいい年こいてまだ男を知らないおばさんにつまらない時間を費やすことは地球規模的に“ムダ”である。
寝ころんだまま、テーブルの上のスマホを取り、マッチングアプリにアクセスし西原君への返信を打つ。
“ほんとうにありがとうございます。すごく嬉しいです。だけど、未来あるあなたにはもっとふさわしい女性がたくさんいると思います。せっかくですが今回は辞退させていただきます”
送信釦をタップする。
すぐに反応があるかと思ったが、スマホはテーブルの上で鎮座したままだった。
時間がどんどんと過ぎていく。
「お風呂どうすんのん?」
母が扉の向こうから声を掛けてくる。韓流ドラマが終わったようだ。
「先入ってぇ」
「わかった。そろそろお父さん帰ってくるから入る用意しときや。どうせまた酔ってかららんでくるで」
「了解っ」
ベッドから体を起こし、箪笥から着替えを取り出し始めた時、スマホが震えた。
来た。
マッチングアプリを見ると“いいね”がきていた。
見ると、四十六バツイチだった。
“お元気にされていますか、また、お会いいただくことは可能でしょうか。お返事いただければ幸いです”
捨てる神あれば拾う神ある、と言う言葉が適しているのかどうか、すぐに返信する。
“ごぶさたしています。いいね、ありがとうございます。また、こちらから連絡させて頂きます”
これでよかったんだ、と無理矢理自分に言い聞かせると、着替えを用意して、自室を出る。
§§§§§§§§§§§§
結局、金曜日のお昼を過ぎても西原君からは何の反応もなかった。
午後からの仕事が一息ついてリフレッシュルームで紙コップに入ったミルクティーを飲んでいると伸子から電話が入る。
「結局どうすんのん?」
電話の向こうからは相変わらず息子ちゃんの泣き声がBGMで聞こえる。
「よう考えたけど、伸子の言う通り、断ったわ」
「お母さんとかには相談したん?」
「してない。しても多分同じ意見やと思うから」
「彼からは?」
「それが音沙汰なしやねん」
「そうなんや。ショックやったんかなぁ」
「さぁ、どうなんやろね」
「ごめんな仕事中に。ちょっと心配になったから」
「わざわざありがとう。息子ちゃんによろしくな」
「うん、ありがとう」
午後からは金曜日とあって電話に追いたくられ、あっという間に終業時間となった。
母には呑み会と言った手前、晩御飯を食べて帰ることにする。
お酒を呑む気持ちにはなれなかったので、会社近くの商業施設のフードコートに腰を下ろす。
自分のような女性の一人客が結構いて、クラブ活動帰りと思われる中学生グループがラーメンを食べながら騒いでいる。
いつもならトートバックにしまっているスマホを今日はテーブルの上に置く。
西原君の衝撃の告白の夜から、どうも食欲がなかったので、腰があって有名なうどんと揚げたてと銘打っているかぼちゃの天ぷらが今晩の献立となる。
やがて、西原君との待ち合わせの時間を迎える。
腰のある麺をすすりながら、ちらちらとスマホを見るが、反応は無い。
うどんとかぼちゃの天ぷらを食べ終えると、紙コップの水を飲み、席を立つ。
そして、商業施設からでるとすぐにスマホを手にする。
「あっ、理花ちゃん、お久しぶり」
「マスター、ご無沙汰しています。相変わらずお忙しいですか」
「おかげさまで、なんとかね」
「それは良かったです」
「そんなことより、すごいタイミングで電話くれたね」
「どうかしたんですか?」ととぼける。
「いや、この間送別会して頂いた時の主人公のあの若い男の子、焼きそば定食を前に食べていた男の子、彼が一人で来られているんです」
「そうなんですか?一人でですか?」
「いえ、たぶん、どなたかをお待ちかと。
店の扉が開くたびにそちらを気にされて」
「そうですか。大阪の街が気に入ったと言っていたんでまた遊びに来てるんじゃないですか。
それより、マスター、来週の金曜日なんですけど二人いけますか?」
「大丈夫ですよ。お料理はどうされます?コースのご用意をしておきましょうか?」
「いえ、当日にお願いします。初めて食事をするかたなので好みがわかりませんから」
いちおう四十六バツイチを設定した会話を終えると電話を切る。
西原君が不安そうな表情で一人待つ姿を想像すると急にお酒が呑みたくなった。
反射的にせんべろの携帯番号をコールする。
「おっ、なんや珍しいやんけ」
せんべろの声を聞いた瞬間、そういえば金曜日の夜は呑み会だと母が言っていたことを思い出した。
「あっ、ごめん、電話出れんのん?」
「出れるもなんも一人で呑んでるだけやん」
「今日呑み会ってお母さんから聞いたで」
「呑み会やない言うたらご飯作っててくれるやんか。あれ食べんのしんどいんや。せっかく作ってくれたん残しても悪いし、と言って、もう最近ますます食べれんようになってきたから、酒はまだまだいけんねけどな」
「今からそっちに行っていい?」
「おお、かまへんけど。なんかあったんか?」
「ううん、別に。いつもどんなとこで呑んでのんかなぁと思って」
せんべろから聞いた店の最寄り駅は御堂筋線で三つだったが、もう、肉体的にも精神的にもできるだけ人と触れたくなかったので、地下鉄には乗らず、タクシーに乗る。
ツーメーターで降りて少し歩くと、その店はあった。
たまにテレビのロケ番組で見かける、しなびた昭和の居酒屋、と言った感じのお店のショーウィンドウに“せんべろセット 呑みもの二杯+小鉢三つ ¥1,080”のポップが貼られていた。
店内に入るとせんべろがいた。鰻の寝床のように横に細長いカウンターだけの店には似た様な赤ら顔の親父が横一列に並んで酒を呑んでいた。
女性の入店が珍しいのか、どの親父もこっちにねっとりとした視線を向ける。
「何呑む?」とすでに赤い顔をしたせんべろが聞く。
「とりあえずビール」
「生でええか」
「瓶で」
「大将、大瓶とグラス二つ頂戴」
せんべろがカウンターの中の店員に頼むと秒速で大瓶ビールが出てきた。
曇ったグラスにビールを注いでもらう。
「もう日本酒呑んでんのん?ビール呑む?」
「おう、喉乾いたから一杯だけもらうわ」
せんべろのグラスにビールを注ぐ。生まれて初めてか、ひょっとしたら小さい時にせんべろにせがまれて一度や二度やったかもしれなかったがもちろん記憶にはなかった。
「ご飯食べてきたんか?」
「うん、軽く」
「なんか頼みよ。こういう店やけど以外にあては美味しいから」
こういう店で悪かったな、という顔をした大将にポテサラと板わさを頼む。
「で、なんかあったんか?」とビールのグラスを一気に空けたせんべろが聞いてきた。
「いや、あのなぁ・・」
「相談所の件か?」
「まあ、それに関係あることやねんけど、お父さん、私が、一回り下の男の子と結婚する言うたらどう思う?」
「おい、いきなり直球ど真ん中に投げてくるなぁ、ちょっとは、外角に様子見の球でも投げろや」
大将がポテサラと板わさをカウンターの向こうから差し出してくれる。
「ポテサラはウスターソースが美味しいで」と言ってせんべろが備え付けのプラスチックの容器を傾けてくれる。
「実は迷ってんねん、一回り近い上の人と・・」
「お前、もてもてやんけ」
「知らんやろうけど学生時代なんかけっこう持ててんで」
「そうでっか・・まあ、お前の好きにしたらええやんか。お前が好きやと思った人と結婚したらええと俺は思うよ。年齢とか学歴とか収入なんか関係ないやんか。俺みてみぃ、あんなええ大学出たのにこのざまやからな。母さんはお前のことを心配するから言うだけであって、お前が本当に好きな人と結婚したらええと俺は思う」
「お父さんはなんでお母さんと一緒になったん?」
「単純に母さんのことが好きやったからや。俺はませてたんか、小学生の頃に将来の野望を持ってたんや。綺麗な嫁はんもうて可愛い娘ができて、そして、金持ちになる。最後の夢だけはいまだ叶えられてへんけどな・・・」
確かに母の若いころの写真を見ると、はでさは無かったが確かに“美人”だった。
「以上っ、重たい話はこれで終わりっ、さっ、呑もかっ」
「うん、私もビール空けたら日本酒呑むわ」
「そうしょう、そうしょう」
「今日はここ私もつわ。せんべろ撤廃してにせんべろ、いや、さんぜんべろにしよっ」
毎日、十個の球体が入る布袋を入れて持ち歩いているトートバッグが少し軽くなったような気がした。
§§§§§§§§§§§§
強烈な喉の渇きで目が覚めると、もっと強烈な頭痛が襲ってきた。
部屋を出て台所で水道の水を飲む。
ただの水がこんなに美味しく感じたのは、生まれて初めてだった。
こめかみを抑えながら時計を見ると、あと少しで午前中が終わろうとしていた。
母はおらず買い物にでも行ったのだろう。
洗面所に入ると、洗濯機の上の棚に、自分のバスタオルが置いてあった。
お風呂にも入っていなかったのだ。
三杯目のコップ酒を口に付け、少しふらついた時「もうやめとけ」とせんべろに言われたのは覚えていたが、その後の記憶が全くなかった。
そのせんべろの部屋からは、土曜日恒例の競馬中継がうっすらと聞こえてくる。
さすがに鍛え方が違うのだろう。
お風呂に入ろうと、部屋に戻り、箪笥から下着を取り出そうとした時、テーブルの上のスマホの画面に着信履歴があることに気づく。
西原君からのショートメールだった。
“ふられちゃいましたね。まあ、当然ですよね。ご迷惑をおかけしました。東京へ帰ります。仲村さんへのプレゼントは山本さんにあげます。もともと、山本さんに渡そうと思って用意しました。中身はおしゃぶりです。近い将来ご結婚されて子供さんを授かられて、その相手の設定は僕でしたが、そこは変わります。色々お世話になりました”
慌てて西原君にコールする。
しかし、出ない。
約三分ごとに三回コールするが彼は出てこない。
諦めてお風呂に入ろうとした時、テーブルの上のスマホが自分のように悶え震えた。
「今どこ?」
「新幹線の中です。
昨日呑み過ぎちゃって・・乗った瞬間から熟睡しちゃって、着信に気づかなかったんです」
「そんなんどうでもええよ。これからそっちに行くから」
「え!?」
「東京駅に着いたら連絡するわ」
「え、ええ?」
「西原君、実は私も“処女”やねん」
彼の反応は確かめず電話を切ると、自室を出て浴室に飛び入り、カラスの行水よろしく分速で入浴を完了させる。
髪をドライヤーで乾かせていると母が戻ってきた。
「ちょっと、東京へ行ってくるわ。今日は泊ってくるから」
「はい、気ぃ付けて行ってきいや。相手はもちろん、韓流スターのようなイケメンなんやろなぁ」
せんべろから話を聞いたのだろう。
「あたりまえやんか」
部屋に戻ると大急ぎで支度をする。
酔って部屋の隅に投げ捨てられていたトートバックを拾い上げると一泊分に必要な下着や化粧品を詰めていき、最後に、おしゃぶりが入ったリボンのついた小箱を収める。
そして、灯りを消し、部屋を出ようとした時、ふと思った。
肩に掛けたトートバッグの底にずっと入ったままになっていた布袋の十個の球体を確かめようと・・・。
了
ニワトリ @miura
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます