イミテーションと真実 1

 客もなく、何事もない二日間が過ぎた。

 三日目の今日は、店の定休日。カーテンが閉まったままの静かな店内では、類がソファに寝転がって本を読んでいる。

 懐中時計の分解清掃作業は順調に進んでいた。このままいけば予定よりも早く仕上げることができそうだ。

 預かったままのジュエリーボックスはといえば、今も作業台の引き出しの中に収まっている。

「ツカサさん、俺、そろそろ買い物に行ってくるよ」

 類が本を閉じて起きあがった。

 時計の針は夕方の四時を回っていた。

「僕も行くよ」

 ちょうど作業に区切りがついたところだ。

 ツカサは椅子から立ち上がると、作業用のエプロンを脱いで椅子にかけた。

 外に出ると風は冷たく、空はほのかに夕焼けの色が混じり始めていた。ちょうど下校の時間なのか、制服を着た学生の姿をよく見かける。

「あそこのクレープ屋、相変わらず人気だね」

 商店街には、ツカサが子供の頃から変わっていない小さなクレープ屋があった。注文を受けてから焼くクレープは評判で、遠方からわざわざ食べに来る客もいるほどだ。

「いつも並んでるよね、あの店」

「おいしいのかな」

「ツカサさん、食べたことないの? こんなに近いのに」

「あるけどずいぶん前のことだから、あんまり覚えてないな」

 話しながらクレープ屋の行列を見ていると、並んでいた客の一人と目が合った。

 女子高生だった。彼女の顔を、ツカサは知っている。

 豊田美佐子の娘の日菜子だ。

 日菜子は隣にいた友達になにかを話したあと、列を離れてこちらへ駆け寄ってきた。

「あなた、あの時計屋の店長でしょ! 絶対そう!」

「そ、そうですけど」

 勢いに押されてツカサが頷いた。

「まだ鍵が開いてないってどういうこと? もう一週間も経つのに」

「え」

 きょとんとしたツカサを、日菜子は不機嫌をあらわにして見上げた。

「あなたがお母さんに言ったんでしょ? まだ鍵が開いてないから箱は返せなって」

 そんなことは一言も言っていないし、箱の鍵はとっくに開いている。

 本当のことを話すべきか、ツカサは迷った。

 美佐子が箱を取りに来られないのは、たぶん隆一が箱を狙っているからだ。その理由をごまかすために、彼女は日菜子に嘘をついたのではないだろうか。

「開けられないなら返して」

 強気な態度で、日菜子が手を差し出してくる。

「えーっと、どっちにしてもお母さんがいないと渡すことはできないから」

「あのとき私が持ってたんだから、私のだってことくらいわかるでしょ」

「あの箱は、君の?」

「私がおじいちゃんにもらったの。もういいから返してよ。キャンセルしたいって言ってるの」

 返そうにも美佐子にはしばらく預かっていてほしいと言われているので、彼女の許可なしには渡すことはできない。

本当のことを伝えるべきだろうか。

だがそれも勝手に話してはいけない気がして、ツカサはどうしたらいいのかわからなくなる。

「箱の鍵ならとっくに開いてるよ」

 類があっさりと言った。

「ちょ、類……」

「開いてるって、じゃあお母さんに嘘の連絡をしたってこと?」

 日菜子が、今度は類のほうへ睨むような目を向ける。

「嘘なんか言ってないよ。ツカサさんは鍵は開きましたってちゃんと連絡したよ。君たちから箱を預かった翌日にね」

「類っ」

 止めるように呼んだツカサに、類がめずらしく真面目な顔を向けた。

「だって嘘つく必要ないでしょ」

「美佐子さんに事情があることは、君だってわかってるはずなのに」

「わかってるよ。けど俺は、あんたがあの店を守るために頑張ってるってことのほうがもっとよく知ってる。だから店の信用を落とすようなことはしちゃだめだ」

 ツカサは言い返せなかった。

 客のことを一番に考えようとしたことが間違っているとは思わない。だが、彼が言っていることももっともだった。

 ツカサは、あらためて日菜子に向き直った。

「鍵が開いたことはお母さんに電話で伝えたよ。でも、今は取りに行けそうにないから預かっていてほしいって言われたんだ」

「……じゃあお母さんは、鍵が開いたことを知ってるんですね」

「うん」

「ジュエリーボックスは店にあるってことですよね」

「ちゃんと預かってるよ」

「壊れてないですよね」

「大丈夫。預かったときのままだよ」

 日菜子はほっと肩の力を抜いて、言った。

「隆一おじさんのせいね」

「理由は聞いていないけど」

「でもたぶん、そう。だってそれしかない。隆一おじさんもあの箱を狙ってるから……店長さん、箱の中って何か入ってました?」

「指輪が入っていたよ」

「それだけ?」

「うん」

「ほんとに?」

「他にはなかったよ」

 日菜子は少し複雑な顔で、笑った。

「そっか。でも、よかったのかも。鍵が見つかったりしたらめんどくさいことになりそうだから」

「ちょっと日菜子っ」

 呼ばれて日菜子が振り返ると、彼女の友達がクレープ二つと紙袋を持って立っていた。

「全部私に任せて行かないでよ。はい、いつもと同じのにしちゃったからね」

 友達が、日菜子にクレープを一つ手渡した。

「ごめんごめん」

「あとこれも」

 友達が紙袋も差し出してくる。

「うん、ありがと」

「あとでお金ちょうだいね」

「もちろん」

 紙袋を受け取って学生カバンに入れた日菜子に、ツカサがたずねた。

「持ち帰りもできるんだね」

「私のじゃないですよ。これはお母さんの分。箱のこと、どうするかお母さんに聞いときますね」

 日菜子は笑って手を振ると、類とツカサに背を向けた。友達とクレープを食べながら歩いていく彼女のうしろ姿に、類がぽつりと呟いた。

「あの子は母親のことが好きなんだね」

 返事は求められていない気がした。

 だからツカサは何も答えないままで、歩き出した彼のあとについていく。二人が向かうスーパーは、同じ商店街にある地元では有名なチェーン店だ。

「ツカサさん、夕飯何がいい?」

「まだ決まってないんだ。めずらしいね」

「鍋にしようかなって思ってたんだけど、たまにはリクエスト聞くのもいいかなって」

「いいと思うよ、鍋。今年初だよね」

「ほんと? じゃあ頑張って美味しいの作ろっかな」

「市販のつゆで煮込むんじゃなくて?」

「そんなのつまんないじゃん」

 いつも通りに話す類と、いつもと変わらない会話をしながら、ツカサは先ほどの言葉が頭を離れずにいた。


 あの子“は”母親のことが好きなんだね。


 類がいつも首にかけているロケットペンダントは、彼の母親が残したものだ。

 シングルマザーだった彼の母親は、彼が高校へ入学したと同時にいなくなった。

恋人と暮らすためにアパートを出て行ったんじゃないか。そう彼は言っていたが、はっきりしたことは今もわかっていない。

 夕飯の買い物を終えてスーパーを出たところで、一人の女性に声をかけられた。

「あら類くん」

「ああ、こんにちは立花さん」

 類がよく立ち話をしているという、噂好きな女性だ。

「今日は店長さんと一緒なのね。時計店、定休日だものね」

 彼女は一度も来店したことがないはずなのに、よく知っている。

「そういえば聞いたわよ。昨日の夜、あなたたちのお店で騒ぎがあったって。大丈夫だったの?」

「え? ああ、そうですね」

「もう大変だったよ。酔っ払いにからまれちゃって」

 曖昧に濁したツカサの代わりに、類がごく自然な調子で嘘を言った。

「あらそうだったの。あのあたり、飲み屋さんが多いものねえ」

 さすがに騒ぎの詳細までは知らないらしい。

 立花がごまかされてくれたことに、ツカサはほっとした。

「そこの加藤精肉店さんも、酔っ払いにガラスを割られたって言って怒っていたわ。ひと月くらい前だけど」

「そりゃ災難だったね」

「お向かいの店の防犯カメラで犯人がわかったんだけどね。精肉店のご主人、うちもカメラをつけるって言ってたわ」

 彼女は本当によく知っている。

 ハヤミ時計店のことも噂されたりしているのだろうかと、ツカサは少し気になった。

「そういえばさ、立花さんは豊田鉄工って知ってる?」

「ええ、知っているわよ。最近告発されたんでしょう? 横領で」

 立花が声を小さくして言った。

「やっと跡継ぎ問題も終わって、落ち着いていたところだったのにねえ」

「跡継ぎ問題?」

 類がたずねると、立花は得意げに話し始めた。

「今の社長さんとそのお兄さんで、どっちが跡を継ぐのかって揉めたのよ。まあ先代の社長さんは、最初から今の社長さんを跡継ぎにするつもりだったみたいだけど」

「お兄さんも社長になりたがってたんだね」

「そりゃあねえ。でもほら、ギャンブル癖があるらしいじゃない。仕事はそれなりにできたみたいだけど」

「お兄さんって、今も豊田鉄工で?」

「弟さんが社長になったときに辞めちゃったらしいわよ」

「へえ。じゃあ今は?」

「どうかしらねえ。働いては辞めてを繰り返しているみたいだから」

 もう一つ、類には聞きたいことがあった。

「ねえ、豊田鉄工の社長さんってお姉さんもいるでしょ?」

「美佐子さんね。たしか豊田鉄工で事務をやっているのよね。経理もやっていたなら、横領のこと疑われそうよねえ」

「警察から事情は聞かれるだろうね」

「類くんは、美佐子さんが犯人だと思っているの?」

「いやあ、俺にはよくわかんなくて。立花さんは?」

「私はねえ」

 たしかに話が長い。口を挟む隙がなくて、ツカサはただ二人の会話を聞いていた。

 それからさらに十分ほど話した頃。

「ごめん立花さん。そろそろ買ったもの冷蔵庫に入れないといけないから」

類がそう言って話を切り上げて、立花さんとは別れた。

「気になっていたんだね、豊田鉄工の件」

 商店街を歩きながら、類はうーんと悩んだ。

「豊田鉄工っていうか、さっきの子がさ。一人にならないといいなと思って」

 日菜子は、シングルマザーの美佐子と二人暮らしだ。

 万が一、美佐子が横領事件の犯人で逮捕されたりしたら、彼女は一人になってしまう。

「類は、美佐子さんだと思う?」

 つい、ツカサも立花と同じ質問をしてしまった。

「わかんないけど、立花さんが言ってたとおりなら疑われるのは間違いないだろうね」

「経理をやってるって?」

「やってるかもしれない、だけどね」

 たしかに、もし美佐子が経理担当なら警察から事情を聞かれるのは間違いないだろう。だが、経理なんて一番怪しまれる仕事をしている人が横領などするだろうか。

「ツカサさん、急いでいい? 生ものがちょっと心配」

 類が急いで歩きはじめたので、ツカサも店へと戻る足を速めた。


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