夜の訪問者 4
時計店の店長だった祖父の部屋は、今も二階に残されている。
片づけないでほしいと類には伝えてあるので、足の踏み場もないほどに物であふれた状態も当時のままだ。
ここにはベランダへ出られる唯一の窓がある。
座るスペースも満足にないほどの狭いベランダだ。だから類は、ベランダへとつながる窓を大きく開けて部屋の床に座り込み、伸ばした足だけをベランダのほうへと投げ出している。
部屋は夜の空気ですっかり冷え切っていた。
「よ、お疲れさん」
帰ってきたツカサに気づいた類が、座ったままで振り返った。この寒い中だというのに、彼は相変わらず長袖シャツ一枚だ。
ツカサは、彼の隣に座った。
「寒くないの?」
「平気平気。これ飲んでるから」
類はにっと笑って、ビールの缶を持ち上げた。
「夕飯できてるけど食べる?」
「ありがとう。君は?」
「俺もこれから」
「空腹のときのアルコールって良くないんじゃなかった?」
「大丈夫。一本だけだから」
類は楽しそうに缶ビールを口に運んだが、あまりお酒が得意ではないツカサにはその楽しさがよくわからない。
「指輪のこと、豊田美佐子って人に電話するの?」
「明日しようと思ってるけど、仕事してるみたいだったからお昼頃じゃないと出ないかな」
「それさ、電話するのちょっと待ったら?」
突然、類がそう提案した。
「芝崎さんが言ってたでしょ。豊田美佐子の弟の会社が、昨日から捜査されてるって」
「言ってたね」
「ジュエリーボックスが持ち込まれたのも昨日だよね」
「それは、美佐子さんが横領に関わっているんじゃないかってこと?」
「そういうわけじゃないけどさ。ただちょっと、タイミングが良すぎるんじゃないかなって」
引っかかっているのはツカサも同じだった。
「美佐子さんのことは、僕もちょっと芝崎さんに聞いたよ。豊田鉄工に事務員として勤めていて、女手一つで娘さんを育てているって」
「豊田鉄工の事務員ね」
考えるように、類が口元に手を当てた。
「航平さん、美佐子さんは遺産を探しているんじゃないかって言ってたよね」
うん、と類が頷いた。
「お金に余裕がないからかな。一人で子供を育てるって大変だろうし」
「かもね」
「だけど、もし美佐子さんが会社のお金を横領していたなら、遺産なんて探す必要ないんじゃないのかな」
「なんで?」
「生活していて足りない分は、横領したお金でまかなってたってことだろうから、それ以上はいらないんじゃないかなって」
「それはわかんないでしょ。お金なんていくらあったって困らないんだし、もらえるもんはもらっときたいんじゃない?」
「そうかな」
「ツカサさんはお金に興味がなさすぎるんだよ。たまに心配になるくらい」
「困ってないからだよ」
祖父と暮らしていたときも、現在も、ツカサは今のところお金で不自由したことはない。
裕福なわけではないが、二人でそれなりに生活していけるくらいのたくわえはある。
「俺がこの家のお金持ち逃げしたらどうすんの?」
類には、全ての家事を任せている。家計の管理をしているのも彼だ。
その気になれば、お金を持ち逃げすることくらい簡単にできるだろう。
「考えたことなかったよ」
「出会って半年の人間を信じすぎでしょ」
「そうかな。でももし持ち逃げされたとしても、別に怒らないと思う」
「いやいや、そこは怒ってよ」
類が呆れ混じりに笑う。
だがツカサは、本心を言っただけだった。
祖父が亡くなってからの二年間。ツカサはこの部屋を見ることすらできなかった。
こうして祖父の部屋に入って夜空を見上げられるようになったのも、昔を思い出して懐かしいと笑えるようになったのも、彼と暮らすようになってからだ。
もし今も一人で暮らしていたなら、祖父との記憶は、思い出すのもつらく心が痛むものであり続けていたかもしれない。
だからお金くらいでは怒る気にならないくらい、彼には感謝している。
およそ満天とはいえない星空だった。ぽつりぽつりと光る星は、目で追えば数えることができそうだ。
どこからか微かに漂ってくる煙草の匂いが鼻をついた。居酒屋が並ぶ商店街でたまに感じるこの匂いは、ツカサにとっては懐かしいものだった。
よく外へ出て煙草を吸っていた祖父が、部屋に戻ってきたときの服の匂いを思い出す。
「今日の夕飯は?」
「筑前煮ときのこの炊き込みご飯でしょ。だし巻き卵ときんぴらごぼうと、ぶりの照り焼きに味噌汁」
「盛りだくさんだね」
「暇だったからね。あ、だし巻き卵は明太子入りだよ」
類は缶に残っていたビールをあおった。
「さて、あっためて準備するかな」
空になった缶を持って、類が立ち上がった。
「僕も行くよ」
ツカサも立ち上がると、ベランダにつながる窓を閉めて部屋を出て行った。
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