春の香り 〜男体山・女体山・二ッ箭山・月山〜

早里 懐

第1話

少し耳が遠くなった気がしてかかりつけの病院で診てもらった。


医者にどこが悪いのか聞かれたため、自分の屁の音が聞こえないほど耳が遠くなったと答えた。


すると医者は静かに頷き処方箋を出した。


念のためその薬は耳を良くする薬なのかを医者に尋ねた。


すると医者は真剣な面持ちでこう答えた。


屁の音を大きくする薬だと…。





念のために断っておくが、この話は私の体験談ではない。


昔、子供達がまだ幼い頃に読み聞かせた落語絵本の中にあった小咄だ。


私はこの話を子供達に読み聞かせながら思った。


根本的な問題解決になっていないと。


真剣な面持ちで屁の話しに聞き入る息子たちの顔を見て、私は息子たちに対して臭い物に蓋をしてはいけない。


臭い物は処分しないといけないんだ。


と、私の熱い思いを伝えた…。


約10年前の出来事だ。




今日は息子の部活動の送迎ついでに二ッ箭山に登ることにした。


コースについては迎えの時間があるため短時間で回れる周回コースにした。


スタート時刻が遅いこともあり駐車場には沢山の車が止まっていた。


登山の準備を整えいざ出発。



今日はとても暖かい。


天気も良い。

まさしく登山日和だ。


歩き出すとすぐに汗が滲んできた。


本格的な登山シーズンの到来を感じた。



いつものように御滝に挨拶をして沢コースから登った。


今日も御滝の水量はとても少なかった。


最近まとまった雨が降っていないためと推察する。


梅雨時期になれば迫力のある御滝を拝むことができるだろう。


そんなことを考えながら、私はお〇らの音が響き渡りそうな静かな山行を楽しんだ。


〆張場からは尾根コースを登る。


そこそこの坂ではあるが急登というほどではない。


その後は30mの鎖場を登った。

とても長い鎖場だが足場がしっかりしているため、3点支持を怠らなければ安全に登ることができる。


鎖場を登り切り男体山の麓に辿り着いた。


今日は時間がないため男体山の鎖登りはせずに女体山に登った。


今は桜の時季である。

しかし、女体山山頂には桜に負けじとばかりにアカヤシオがとても綺麗に咲いていた。

顔を近づけるとアカヤシオのほのかな香りがした。


しばらくアカヤシオと景色を楽しんだのちに、二ッ箭山山頂を経由して月山を通り下山した。


駐車場に着くと私の計画通り息子を迎えに行くのにちょうど良い時刻だった。


部活動の練習場まで行き、息子を車に乗せて帰路に着いた。


土曜日の夕方ということもあり、道路は混雑していた。


私は何気なくカーラジオをつけた。


その時だ。

この世のものとは思えない香りが鼻を突いた。


私の鼻の中に残っていたアカヤシオの香りが一瞬で置換された。


育ち盛りの子供がいる方はご存じの靴下から醸し出されるあの香り…。

いや。あの臭いと言った方が良いだろう。


そう。

通称「部活を頑張っている証拠の臭い」である。


私はチラッと後部座席に目をくれた。

案の定、息子は靴を脱いでくつろいでいた。


私は息子に対して靴下を捨ててくれとは言えずに靴を履いてくれと懇願した。


靴を履かせることで靴下から放出される「部活を頑張っている証拠の臭い」を封じ込むことを試みたのだ。




ある程度の人生経験を積むと根本的な問題解決がいかに困難であるかを思い知らされる。


靴下から放出される臭いに対してもそうだ。


その結果、やはり人間は臭い物に蓋をするという行為に及ぶのだ。


息子が靴を履いたことを確認した私は車のウインドウを少しばかり開けた。


春の風が車の中に吹き込んできた。

私はすぐさまその爽やかな春の風を胸いっぱいに吸い込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

春の香り 〜男体山・女体山・二ッ箭山・月山〜 早里 懐 @hayasato

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ