天子
数刻の後。白虹と天翔は、宮中内廷の庭園にいた。広大な庭園の周りには、青緑色の瓦で葺かれた多数の建物が見える。白虹によれば、特に強い「木」の気配は東側に感じるという。
白虹に抱きかかえられたまま、天翔は所在なく辺りを見回した。宮中には昨夜と同様、白虹の足でやってきた。都の屋根を白昼堂々駆け抜けた人影に、誰も気付かなかったらしいのは不思議で仕方ないが、火事や明傑軍の略奪に怯える中、空など見る余裕のある兵や民はいないのかもしれなかった。
ともあれ、確かに庭園の東側には、兵士の警護が特に厳重な一角があった。白虹は天翔を下ろすと、両手を胸の前に掲げ、光の玉を練り始めた。
「私は、何をすればいいのですかな」
小声で天翔が訊ねれば、潜めた声が返ってくる。
「いてくれるだけでいいよ。『
青龍殿の「木」の気を和らげるために、「金」が強い天翔を連れていく――そう事前に聞かされてはいたものの、何もなくただ居るだけというのも気持ちが悪い。とはいえ、できることがあるわけでもない。天翔は息を潜め、一回り身体が小さい白虹の後をついていった。
春牡丹が咲き乱れる茂みを抜け、小規模な離れの前へ出たところで、衛兵がこちらに気付いた。
「貴様、何奴――」
言いかけた兵へ向け、白虹の光球が飛んだ。直撃した兵が二人、重なるように昏倒する。
足早に、白虹が離れへ滑り込む。天翔も後を追った。
玄関の先は、すぐ扉になっていた。開けた瞬間、思わずうめきが漏れた。
「……なんだ、これは」
とてつもない邪気が、室内を満たしている。口を押さえつつ白虹を見れば、彼もまた眉をひそめていた。
部屋の床と壁一面に、禍々しい黄褐色の文様が描き込まれている。右側の壁際では、幼い少年が黄色の紐で手を縛られ震えていた。昨日、
部屋の最奥には、青緑色の鞘に入った剣と、龍が透かし彫りされた翡翠の円盤、その他の様々な翡翠製の宝物が集められていた。帝室の宝物と思しき品々は、一つ所に寄せ集められ、濁った褐色の結界に囲われている。何者かが、天子を含めた「木」の力を、ここへ隔離し封じ込めているように天翔には思えた。
「天子様!」
天翔が呼びかければ、幼子は反応して顔を上げた。
「来るな」
「我ら、陛下を救いに参りました。今、縄を解いて差し上げます」
「誰かは知らぬが、また朕を苛めに来たのであろう。来るな、触るな、出て行け!」
叫びを無視し、天翔は、天子を縛る縄に手をかけた。
「待って
白虹が言い終わらないうちに、縄はあっさりと解けた。
同時に、すさまじい霊気の塊が、部屋の壁を震わす。
何かが、壁に叩きつけられる音がした。
「ぐ、ぁ……!」
短く、しかし鋭く、白虹がうめく。
「嫌じゃ、嫌じゃ。出ていけ、皆出ていけ……!!」
泣きじゃくる天子の周りに、激しい霊気の渦が巻く。
背後を見れば、壁際に白虹が倒れていた。苦しげな息の下、絞り出すような声が響く。
「……ごめん。
「なんとかとは、どのような!」
「落ち着いて……もらって。僕じゃ……どうにも、ならない」
事前に白虹に聞かされた言葉が、不意に蘇ってきた。「お守り」――すなわち、木の霊気を抑える存在。それが、自分がここにいる意味。
己の白は、帝室にとっての凶相。だが今だけは、それが役に立つ時なのかもしれない。
意を決し、天翔は天子に向き直った。
七歳の幼子は、なおも激しく泣いている。すべての力を声と涙に籠めたかのように、激しく叫ぶ小さな身体を、天翔は包み込むように抱いた。
「もう、大丈夫です」
泣き声は止まない。だが逆巻く霊気の渦は、見る間に圧と勢いとを減じる。
「私は帝の忠実な臣。命に代えても、お守りいたします」
背を優しく撫でさすれば、叫びは次第にすすり泣きへと変わっていく。霊気の渦は、すっかり落ち着いた。
「嘘をつけ。おまえも、すぐに朕を
言葉にはなおも険がある。しかし、声色は明らかに穏やかになった。
背後から白虹の声が飛ぶ。
「心配はご無用。僕らと一緒に来れば、特製のご飯をお作りしますよ」
ご飯、の言葉に、小さな身体がぴくりと震えた。
「食事が、出るのか。腐っていない料理が、食べられるのか」
「はい。とびきりおいしいご飯ですよ。陛下は絶対大好きなはず!」
次の瞬間、天子の声色は一気に華やいだ。
「なら早う連れていけ! 朕は腹が減っておる。美味い食事を、
小さな掌が、天翔の背へしがみついてくる。
天翔と白虹は顔を見合わせ、互いに数度頷き合った。
◆
天子を天翔が抱きかかえ、天翔を白虹が抱きかかえる。常人では無理のある体勢ながら、白虹の速度は行きと変わらなかった。ふたりを抱えたまま、疾風を思わせる速さで青龍殿の、都の屋根を駆け抜けた。
またたく間に帰り着いた天翔と白虹は、兵たちに大歓声で迎えられた。街の宿の、最も良い一室に保護された天子を前に、天翔はあらためて膝をついた。
「陛下をお救いできたこと、臣下としてこれ以上の誉はございませぬ。できればその御恵みを、我が無二の友へも、ほんの少しお分けいただきたく」
「それより食事はまだか。とびきり美味い物を、食わせてくれるのじゃろう?」
天子は苛立った様子で、しきりに足をばたつかせる。足首にも、ちらりと枷の痕のようなものが見えた。おいたわしいことだ――と天翔が考えかけたとき、部屋の入口で声がした。
「お待たせしました! 特製の
湯気をあげる椀を手に、満面の笑みの白虹が入ってきた。強い酢の匂いに、旨味を含んだ豚肉や
大きな腹の虫が聞こえた。天上人の胃も、空けば鳴るものなのだな――と感慨を抱く天翔の前で、天子は飛びつくように匙を取った。そのまま無言で、具だくさんの
「『木』の陛下は、酸味をお好みでしょうから。お味、いかがです?」
目を細めて見守る白虹の前で、天子はあっというまに一椀を平らげた。そして一言だけを告げた。
「もう一杯!」
「おっしゃると思ってました!!」
跳ねるような足取りで、白虹が部屋を出ていく。小柄な後ろ姿を見守りながら、天翔は確かに安堵していた。
これで、碧海も元に戻ってくれる――そう信じながら。
◆
天翔と白虹が、天子を連れて寝室へ戻ってきてもなお、碧海はうなされ続けていた。
意味を成さないうめきを上げ続ける男に、天子は少々おびえた様子だった。だが白虹が、あとでまた
「それで、朕は何をすればよいのじゃ」
「その人の手を、しばらく握っていてください。僕が大丈夫って言うまで、おいしい
「握るだけでよいのか」
白虹が頷くと、天子は言葉通り、汗の浮いた碧海の手を取った。小さな両手が大人の掌を包み込むと、確かに少しずつ、辺りに漂う邪気が薄れていくように感じられる。
碧海の口から漏れる声が、次第に、意味のある言葉となっていく。
「……天翔。顔を……晒すな。天翔、おまえは、私を……私だけを――」
不意に、かの怨霊たちの言葉が、ふたたび天翔の胸中に蘇った。
(今宵、おまえが見たものこそが真実)
碧海はなおも、うわごとに天翔の名を呼び続ける。行くな、おまえは私のものだ――そう繰り返しながら。
漏れる言葉ひとつごとに、胸の底が凍てついてゆく。彼が
白虹の声が、した。
「陛下、そろそろ大丈夫です。いただいた『木』の恩徳に感謝いたします」
「
「もちろん。夜に、たっぷりお作りいたしますよ!」
衛兵に導かれ、天子が部屋に戻っていく。扉が締まったところで、白虹は急に険しい顔になった。
「
心配げに話しかけられ、天翔は返事に迷った。明傑も碧海も信頼できない今、心情を伝えられるのは彼にくらいだ――と思いかけて、天翔は自ら否定した。彼も、どんな意図を隠し持っているかわからない。
とはいえ、碧海の意識がまだ戻らない今、話ができる相手は他にいない。
天翔は、気にかかっていたことがらを、思い切って白虹に訊ねてみた。
「白虹殿。ひとつ伺いたいのですが……
「いろいろ言ってたけど、どれのこと?」
「奴らに憑かれた時の態度こそが、真実の姿であると……そのように、言っていましたが」
「それはないよ。確かに、奴らは心の奥底に秘めた欲望を引きずり出すけれど――」
ああ。やはり、そうなのか。
天翔の中で、絶望が確証に変わっていく。
なおも何か言おうとする白虹を、天翔はぴしりと遮った。
「で、あれば。亜父が私に薬酒を飲ませたのも、碧海が私を独占しようとしたのも。すべて、奥底に秘めた真実の心だったのですね?」
「違う! そうだけど、そうじゃなくて――」
白虹が反論しかけた時、傍らで大きく身じろぎの気配があった。
碧海が、目を覚ましていた。顔を濡らす脂汗を拭いながら、碧海は寝台脇のふたりを見つめた。
「天翔。よかった、無事だったか」
「おまえこそ。ずっと目を覚まさんから、心配したぞ。ところで碧海――」
一瞬のためらいを覚えつつ、天翔は碧海の双眸をまっすぐに見つめた。
そして、問いかけた。
「――おまえは思っているか。俺は、おまえのものだと」
瞬間。
碧海が息を呑んだのが、はっきりとわかった。
正面で見つめ合っていた茶色の目が、かすかに、しかし明確に揺らいだ。
「そんなことは、思っていません」
嘘だ、と天翔は感じ取った。
およそ五年の間、側にいればわかる。これはわかりやすい偽りだ。
彼は軍師だ。計略を用いるときは、巧みに本心を隠すこともできる。だが不意を打たれれば揺らぐこともある。今が、まさにその時であった。
「わかった」
一言だけを言い捨て、天翔は首を横に振った。自分が、碧海へこんな態度をとることがあろうとは、昨日までは思いもしていなかった。
碧海の側も、何かを感じ取ったようにうつむいた。毛布を握った手が、わなないていた。
「
「すまないが、しばらく一人にさせてくれ。誰も部屋へは入るな」
回らぬ頭で、天翔は部屋を出ていった。白虹が何かを叫んでいたが、聞く気にもなれなかった。
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