贈物

 借り受けた己の寝室へ籠り、扉を閉め切る。寝台に身体を投げ出せば、忌まわしい記憶が次々に浮かぶ。

 明傑に恐ろしい力で掴まれた、手首。碧海に血染めの掌で撫でられた、頬。肌に残った感触が消えない。

 振り払おうと、喜びの記憶をたどる。だが手繰り寄せた思い出は、どれもが明傑か碧海に結びついていた。大切な人々の温かな笑みを、天翔は思い出せなくなっていた。思い出すことを、心のどこかが拒んでいた。

 さらに記憶を遡る。病に倒れる前の、優しかった母。幼い天翔を膝に乗せ、折に触れて都の話など語ってくれた母。いつから母は、己を拒むようになったのか――考えかけて、ひとつの名が浮かんだ。

 呉玄雲。天翔の実の父。

 顔を見たことはない。父は都で天子に仕え、そのまま病を得て亡くなった。

 たいへんに評判の悪い人物だったとは、知っている。銭好みの寵童として、悪名は片田舎の鴻郡へも伝わっていた。一挙一動ごとに帝へ銭をせびり、その銭で買った錦繍で身を飾り、紅を引いて帝を誘い、取り入ってはまた銭をせびり――そうして国を傾けたと。

 そして、成人した天翔を見た誰もが言う。父に似ていると。玄雲が蘇ったと見紛うほどに、そっくりだと。

 ならばこれは、罰、なのだろうか。


(――憎い。あの男が憎い。おまえの父が憎い)


 何度となく、病床の母から聞かされた。

 父を憎む者は、母に限らないだろう。集まった父の怨みが、子である天翔のもとへ禍いをもたらしているのか。

 わからない。

 だが天翔が父に似さえしなければ、状況はここまで混乱せずともすんだ……のかもしれない。


 ――憎い。あの男が憎い。自分の父が憎い。


 枕に顔を埋めながら、天翔はいつしか胸の内で、母と同じ言葉を繰り返していた。



 ◆



 忌まわしい記憶が拭えないとはいえ、将も軍師も、自分の任務を投げ出すわけにはいかない。ひとしきり自室で休んだ後、天翔は今後の方針を碧海と打ち合わせた。

 現在、明傑と天翔の軍は、黄蓮河を挟んでにらみ合っている。だが遅れてきた諸侯が都へ進軍しつつあり、一両日中に到着する軍勢すべてと連合できれば、明傑に対抗できるだけの兵力は確保できそうだった。


「必要な根回しは行っています。到着次第、合流して進軍し……明傑殿から都を取り戻します」

「橋はどうする」


 険しい顔で天翔が問えば、白虹が横から口を挟んできた。


「僕が仙術でなんとかするよ。みんなが渡り切るまでは、どうにか持たせてみせるから」

「そうか」


 一言だけを返し、天翔は黙り込んだ。

 それきり会話が続かない。常であれば活発に飛び交うはずの議論が、始まらない。他人を拒む空気を、今の天翔は色濃くまとっていた。


「何もないなら、俺は部屋へ戻る。用があるなら呼んでくれ」


 碧海へ背を向けたまま、天翔は吐き捨てた。

 用がないなら決して呼ぶな――そう、後ろ姿が語っていた。



 ◆



 自室で休みつつ、天翔は自軍の装備品に関する報告を確かめていた。鴻郡を出る時に用意してきた軍資は、既に尽きかけている。道中の城市で補給を続けたために、物資についてはいくらかの余裕があったが、新たな物品を買うための資金が不足している。

 銭の調達について、碧海と相談すべきか――天翔が考えかけた時、部屋に伝令がやってきた。天翔に目通りを願う者がいる、とのことだった。明傑または諸侯の使者かとも思ったが、穏やかな老婆だという。

 不審に思いつつ、黒頭巾を着けて会ってみれば、確かに立ち居振る舞いの上品な老婦人であった。上質な綿の着物をまとい、なにやら大きな包みを携えている。老婦人は地に着くほど深々と頭を下げた。


「呉玄雲様の、御子息であらせられますか」


 少しばかり嫌な気分になりつつ頷けば、老婦人は目を細めて何度も頷いた。そして、携えてきた包みを開いた。


「かつて私は……玄雲様の元で、侍女を務めておりました」


 中にあったのは、輝くばかりの錦繍であった。鮮やかな紅の布地に、細やかな金糸の鳳凰が刺繍され、窓からの陽光を受けて燃えるようにきらめいている。

 かさついた指が、華やかな布をめくる。現れた袋からは、大小さまざまなぎょくの飾り物が出てきた。繊細な彫刻が施された宝飾品の数々は、売ればどれだけの高値が付くだろうか。


「すべて、玄雲様が遺された物でございます。銭に換えて暮らしの足しにせよと、亡くなられる少し前、身の回りの品を私にくださったのですが……手放すに忍びなく、今日に至ってしまいました。できればこちら、御子息にお役立ていただきたく」


 老婦人は一筋、涙をこぼした。

 目の前の華やかな品々に、天翔の目は奪われた。職人たちが持てる技の粋を凝らした、美の数々。だが天翔の胸には、感嘆と共に疑念も湧いていた。


「これで、全部でしょうか」


 天翔は、老婦人に訊ねた。

 伝え聞く噂が真実であれば、玄雲の遺品がこれだけとは考えにくかった。限りなく銭をむしり取り、端から浪費していたという父は、もっと多くの品を持っていたのではないか。

 だが、老婦人の答えは予想外だった。


「全部です。御自分が身に着けるお召し物と飾り物……それらの他に、玄雲様は何も持っておられませんでした」

「それは、まことですか」


 天翔が問えば、老婦人は涙を流しつつ頷いた。


「玄雲様が求めたお召し物は、天子様の目を楽しませるためのもの。あの方は、ご自分のためには一切、銭をお使いになりませんでした。宮中にいらした際のお部屋も、まったく物がなく寒々しい様子でございましたよ」

「ですが……皆、言っています。我が父は銭狂いであったと。ことあるごとに、天子様から銭をせびり取っていたと――」


 老婦人はどこか寂しげに、首を振った。


「玄雲様は確かに、なにかにつけて銭を求めておられましたが……ほとんどすべてを郷里に送っておられました。北方の貧しい土地を、多少なりとも豊かにしようと」

「……いま、なんと?」


 信じられない言葉が、聞こえたように思った。

 知らない。聞いていない。鴻郡は今も昔も、何もない片田舎だ。見渡すかぎり麦穂ばかりがそよぐ辺境だ。


「鴻郡はかつて、作物も育たない荒れた土地でした。玄雲様が銭を送り、水路や耕地を整えさせて、今では麦や青菜が穫れるようになったと聞いております」


 ……そんな。まさか。


「また、一部の銭は劉明傑様に託されました。御子息のために、よき師や書物を選んでほしいと」


 どういうことなのか。

 亜父が自分の面倒を見てくれたのは、父の依頼だったというのか。父と亜父との間に、いかなる話が交わされていたのか。いや、その前に、父はいかなる人物であったのか――

 激しく目を瞬かせる天翔へ向けて、老婦人は一房の佩玉はいぎょくを差し出した。細かな蔓草文様が刻まれた、小ぶりなすももほどの翡翠玉に、細かな水晶粒と赤い紐の房とが下がっている。


「玄雲様が特に好まれた物です。形見としてお持ちになるにせよ、軍の資金となされるにせよ、どうか大切にお使いくださいませ」

「……だがこれも、民から奪った銭で購ったものだ。それは変わりないのだろう」


 ぎょっとした風に、老婦人が天翔を見た。

 軍資金は、いま天翔が最も欲する物のひとつだ。だが、差し出された財貨をただ受け取ることも、天翔にはためらわれた。


「御子息様?」

「汚れた銭を集める者として、父は長く悪評を集めてきた……御婦人、あなたの言葉を疑うわけではない。が、鵜呑みにすることもできん」


 一度は受け取った佩玉を、包みに戻しつつ天翔は立ち上がった。


「すまないが、しばし考えさせてほしい。我らは、この贈り物を受けるべきか否か」


 老婦人を留め置いたまま、天翔は自室へ戻った。胸中は、激しく混乱していた。

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