真情

 天翔が自室へ戻ってみれば、いつのまにか白虹がいた。あどけない笑みを浮かべながら、白虹は青磁の急須を掲げてみせた。


大哥おにーさん、疲れてる? 菊花茶を淹れてきたけど、飲む?」


 断る理由もなく、おざなり気味に頷く。白虹は嬉しそうに、湯気の立つ茶を注いでくれた。爽やかな菊花の香りが辺りを満たす。

 茶杯から一息に飲み干し、温まった息を吐く。すかさず注がれた二杯目に、天翔は手をつけない。白虹が苦笑いした。


「温かいお茶でも、憂いが流れないんだね。これは相当重症かな」


 笑いかけてくる白虹に、答える気も起きない。

 なにもかもが信じられなかった。

 敬愛していた亜父、信頼していた碧海、軽蔑していた実父――すべてが覆った。

 心はうつろうもの、人は偽るもの。書物で学んではいた。けれどそれらが何を意味するのか、本当にはどういうことであるのか――自分は何も知らなかったのだと、天翔は思う。この痛みをいかにして癒せばよいのか、癒せぬにしてもどう抱えていけばいいのか、天翔にはわからなかった。

 そして自分自身さえも、天翔は信じられずにいた。自分だけがなぜ厲鬼れいきの邪気に冒されなかったのか、理由はわからない。白き麒麟の守護かもしれない。だが、もし、己が厲鬼の呪いに囚われ「真実の姿」を引きずり出されたとしたら――己がどのような存在になりはててしまうのか、皆目見当がつかなかった。


「ねえ、受け取らないの? お父さんの遺品」


 白虹が、軽い調子で問いかけてくる。


「受け取るつもりでは、います。だが……私が受け取ってしまっても本当によいのか、わかりません」

「親のものを子が受け継ぐのは、当然だと思うけど」

「あれは、もとはといえば天子の財……すなわち天下万民の税。我が物としても、許されるのかどうか――」

「それ、言い訳だよね?」


 天翔が、言葉に詰まった。

 白虹が、苦笑いして続ける。


「本当の理由、当ててあげようか。大哥おにーさんはお父さんのことが嫌い。だから、嫌いな人から物をもらいたくない。当たってるよね?」

「……父は、悪しき人物でした。呪わしい人物でした」


 天翔は肩を落とし、溜息をついた。


「悪人を嫌い遠ざかろうとするのは、人として当然のこと」

「本当かな? お父さんが悪い人だって、どうしてわかるのかな?」


 白虹は、おどけた風に小さな笑い声を立てた。


「人の本当の心なんて、わからないものだよ。それは大哥おにーさんも、よーく思い知ったばっかりでしょう?」


 天翔は、びくりと肩を震わせた。心の臓を針で突かれた、気がした。


「……しかし。であれば、私は何をもって、人の善と悪を判断すればよいのですか」


 潜めた声で問いかければ、白虹もまた、少しばかり声を落とした。


「人の身にはわからないね。祖廟そびょうのご先祖様や、天上の神や仙人、黄泉に住まう魂たちであれば、知っているかもしれないけれど……でもね、ひとつだけ言えることがある」


 白虹の小さな手が、そっと天翔の胸に当てられた。

 触れられた掌から、心音が伝わり聞こえてくるように、思える。


「心は、綺麗なばかりじゃないけれど……でも、汚いのが本物だとも限らない」


 天翔は、はっと眼を見開いた。


「汚いものは、いつだって隠れているけどね。隠れたものを隠したまま、ずっとがんばって蓋をしたまま、天寿をまっとうして土に還るとしたら……その汚いのが『本物』だなんて、誰が言えるだろうか」


 白虹の言葉は、穏やかだった。

 声色こそ少年ではあった。だが言の葉の調子は、親が子に説き聞かせるような、やわらかな慈愛に満ちていた。


「ねえ大哥おにーさん。明傑さんってどんな人だった。碧海さんって……どんな人だった」


 穏やかに問う白虹に、天翔は言葉を返せなかった。

 白虹の言うことはもっともなのだろう。人の心など見通せない。ならば、見えないものなど気にかける意味はないのだろう。

 問いに答えようと、天翔は考えを巡らせた。明傑と手紙を交わした年月を、碧海と語らった日々を、呼び起こそうと試みた。しかし、思い起こされるすべての記憶は、痛みを伴っていた。怒りとも悲しみともつかぬ何かが、ちくりちくりと胸を刺した。


「白虹殿。……やはり私は、あなたのようにはなれません」


 天翔はゆっくりと頭を振りながら、自嘲の笑いを浮かべた。


「あなたが何者か、私は知らない。おそらく神仙の類なのでありましょう。長い時を生きる仙人であれば、世の真理を悟りきることもできましょうが……あいにく私は、齢三十にも満たぬ若造。己の乱れる心を、どうすることもできません」


 天翔は、はは、と小さな笑い声をあげた。


「口惜しい。悲しい。彼らの心を、知らなかった己が……十数年も手紙を取り交わしながら、五年もの間を側で暮らしながら、何も知らなかったことが。知らされていなかったことが。嘘を、つかれていたことが」

「だからね。それはきっと、嘘なんかじゃない」

「わかっています。ですが、わかっていても許せない。……己に、すべてを容れる器がなかったことが!」


 天翔の内なる痛みが、次第に形をとっていく。

 それは確かに、裏切られた悲しみではあった。しかし奥底には、異なる心が眠っていた。


 ――どうして、隠していたんですか。

 ――どうしてこれまで、本当のあなたを見せてくれなかったんですか。

 ――俺は、あなたのことを知りたい。すべてを知って、受け容れたい。


「ほんとうの心など、誰にもわからないとしても。それでも俺は、ほんとうの亜父が……ほんとうの碧海が、知りたかった。すべてを知ったうえで、子でありたかった。友でありたかった」


 知らず、涙が流れていた。


「いや……知っていると思っていた。やさしい亜父を、頼れる碧海を……知っていると思い込んでいた。俺は口惜しい。何も知らなかった己が、口惜しい」

「……大哥おにーさん


 囁くように、白虹が話しかけてくる。


「怒ってるの、自分に対してなんだ。明傑さんや碧海さんには、怒ってないんだ」

「腹は立っている。ほんとうの心持ちを、明かしてくれなかったことに……だがそれ以上に、気付かなかった自分が腹立たしい」

「……じゃあ、今からでも気付いてみたい? 本当の気持ち、伝えてほしいと思ってる?」

「許されるなら、な。だが――」


 天翔の言葉を遮り、白虹が唐突に大声を張り上げた。


「だってさ! 入ってきなよ、碧海さーん!!」


 部屋の扉が、急に開いた。

 天翔は弾かれたように身を起こし、呆気にとられた視線を向ける。

 そこには思い詰めた表情の碧海が、唇を固く引き結んで立っていた。

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