至天
現れた姿に、天翔は絶句した。これまでの白虹との会話、すべて聞かれていたというのか。
狼狽する天翔へ、碧海がゆっくりと近づいてくる。顔が、たがいに真っ赤であった。
「碧海。聞いていたのか、すべて」
「すまなかった、な。白虹殿に、茶に誘われて……来てみれば、入れる状況ではなかった」
これは白虹の差し金なのか。碧海がやってきたのは、計算のうちだったのか――振り向けば白虹は、開き直った笑顔で頭を掻いていた。
「菊花茶でも飲みながら、仲直りのお話をしてもらおうかと思ってた。けど、この調子なら大丈夫そうだね!」
「まったく大丈夫ではありません……だが、取りなしには感謝いたします白虹殿。私から声をかけても、取り合ってはもらえなかったでしょうからな」
「ふーん」
白虹の笑みに、皮肉の色が差す。
「碧海さん感謝してるの? 僕に?」
「はい。心から」
「じゃあ、もう斬りつけてきたりしない?」
「決して。あの時はどうかしていたのです。これからは尊崇と敬意をもって――」
碧海が、いくぶん大仰に頭を下げる。白虹はにやりと笑うと、不意に天翔へ抱きついた。
「
少年道士は天翔の胸に顔を埋め、子猫じみた仕草で頬を擦りつける。
「でも僕、やっぱり碧海さんより
態度の唐突な変化にうろたえつつ、天翔は白虹の背を撫でてやった。
ふと見れば、碧海が眉根を吊り上げ、こめかみを震わせている。口元だけは穏やかな笑みを作れているが、目が殺気に満ちている。
白虹が、頬擦りしながら低い声で言った。
「……ねえ碧海さん。ほんとのほんとに、僕のこと斬らずにいられる?」
いくぶん皮肉めいた問いに、碧海は無言だった。白虹は高く笑い、天翔からするりと離れた。
「自分に嘘はつかない方がいいよ。自分で発した言葉が、自分の心を覆い隠すことは、すごくよくあるから」
碧海が苦い顔をする。震える肩を、白虹は冗談めかして数度叩いた。
「じゃあ僕はこのへんで。ふたりきりで菊花茶でも飲みながら、お話していって……嘘は、なしでね」
ひらひらと手を振り、白虹が部屋を出ていく。
あとには天翔と碧海と、爽やかに香る菊花茶と、部屋を包む重い沈黙とだけが残された。
◆
間が持たず、天翔は菊花茶の急須を手にした。
「飲むか」
「ああ」
それきり会話が続かない。
茶杯ふたつを静かに満たせば、さきほどよりは弱めに香りが立つ。無言で碧海の方へ押しやれば、一口で飲み干された。また、沈黙が落ちる。
何も言えないまま、時間だけが経つ。
間が持たなくなり、天翔は己の茶杯を手に取った。すっかりぬるくなった茶を、自分の口へ流し込めば、碧海がようやく口を開いた。
「茶は、美味しかったですね」
「そうか。淹れたのは白虹殿だ」
「……そうですか」
双方、またも黙り込む。
碧海は、茶の話題を呼び水に使うつもりだったのだ――天翔はようやく気付いたが、既に会話の糸は切れている。
落ち込みつつも、どこか不思議であった。お互い、なぜここまでぎこちないのだろう。五年もの間、側にいつづけた相手だというのに。
――いつも、俺たちはどんな風に話をしていただろうか。
天翔は懸命に思い返す。
郡太守と郡丞として、領地の経営を話し合った。
共に書物を読み、解釈を語り合った。
碁も時折打った。五年も経つのに、まだ碧海に一度も勝ててはいないが。
そこまで考え、思い出した。最初に出会った時、ふたりは碁を打った。あの時は死力を尽くし、持てる知恵のすべてを使い切った。少なくとも天翔の側では。
「……碁だけは、ずっと敵わんな」
口に出してみれば、碧海は力の抜けた息を吐いた。
「いきなり何を言い出すのです」
「最初に会った時のことを思い出した。どうだ、あれから少しは上手くなったか、俺は」
ふふ、と声を上げ、碧海は笑った。
「さあね」
「嘘はなしだと、白虹殿が言っていただろう。正直に言え」
詰め寄れば、碧海はどこか呆れたように目尻を下げた。
「政事、軍略、その他の学問……他のなにもかもが成長目覚ましい。ですが、碁だけは弱いままですね」
「やはり、か」
少しばかり落胆する。肩を落とせば、碧海は愉快げに大口を開けて笑った。
「人間、多少は弱点もあった方が可愛いものですよ。下手な碁も、それはそれで可愛らしい」
「碧海大先生の名詩のようなものか」
「やめてください、その話は」
顔を見合わせて、大いに笑う。
そうだな。こんなふうに穏やかに、茶なり酒なりを酌み交わすのが俺たちの常だった。
いつまでも、死が俺たちを分かつまで、ずっとこのままなのだと――いや、黄泉でも再び巡り会い、ふたたび膝突き合わせて語り合うのだと、心中のどこかで信じていた。
けれど、それは己の側だけだったのかもしれない。
本題をいまこそ切り出さねば、と、天翔は感じた。
急須から菊花茶を注げば、最後の一杯だった。少しばかり花のかすが入った茶を、一息に飲み干し、天翔は口を開いた。
「……おまえは、これで満足か。碧海」
口を開きかけた碧海へ、更にたたみかける。
「念を押すぞ、嘘はなしだ。こうして茶を飲み語らうだけで、おまえは満足なのか」
碧海はわずかに視線を泳がせた後、急須を手に取った。だが茶が残っていないことに気付くと、諦めた風に深い溜息をついた。
「満足ですよ。できることなら世の終わりまで、こうして、ふたりだけで語らっていたい。……他の誰をも寄せ付けずに」
「他の誰かがいたなら、満足はできないか」
わずかに迷いを見せつつ、碧海は小さく、しかし、はっきりと頷いた。
ああ。やはり、そうなのか。
天翔の傍から、他の者たちすべてを排除したい――その欲は、真実だったのか。
さきほど白虹へ見せていた、おそろしい表情を思い起こしながら、天翔はなおも問うた。
「なぜだ。俺にとって、おまえは無二の師友だ。比すべき者はどこにもいない。おまえも、解っていると思っていた」
「解っています。解っていますが……止まらないのです。不可思議な飢えが」
碧海は、天翔の顔へ手を伸ばした。
掌が、頬に触れた。いつかの夜と同じように、碧海の手指が顔の輪郭を伝う。
「嘘は、ついてはならないのでしたね。ならば、言ってしまいましょう……天翔、私はあなたを我が物としたい」
身体が、わずかに強張る。だが、これは己が聞き出したいと望んだ、答えだ。
唇を固く結び、天翔は碧海を見た。青い瞳と茶の瞳が、正面から向かい合った。互いに、揺らぎの色はまったくない。
「ですが、わからないのですよ。私はどうすれば、あなたを我が物とできるのか」
頬を撫でる手が、止まる。
「初めて会った時、私は悟りました。あなたは
碧海はいちど言葉を切った。継ぐべき言葉を、探しているようにも見えた。
「籠に入る程度の小鳥に、興味はありません。ですがどうすれば、鳳を我が物とできるのか……私には、わかりません」
碧海の声色は、次第に弱くなっていく。だが、明瞭ではあった。
「籠に囚われた鳳は、小鳥と変わらないのではないか。天翔けてこそ、鳳は鳳なのではないか……解っていてなお、私は鳳を捕らえておきたいと願っている。まこと、不可思議な飢えですよ」
自嘲気味に、碧海は溜息をついてみせた。
「正直に言いましょう。私はあなたを、抱こうと思ったことがあります……眠るあなたの傍らで、奪ってしまえば楽になれるのかと、何度も考えました。だが、わかってもいました。それには何の意味もないのだと。あなたの身体など得たところで、この飢えは癒されはしない。かえって鳳の枷となるだけだと」
ふたりは、見つめ合ったまま動かない。息をするのも忘れ、互いの瞳に見入る。
碧海の言葉に、天翔は嫌悪を抱かなかった。代わりに怖れた。この想いに、己はどうすれば応えられるのか。
碧海は常に、天翔を導いてくれた。己が天翔ける鳳であるなら、飛ぶべき先を示してくれたのは、ほかならぬ碧海であった。だから、わからない。己は、ほんとうに碧海が思うような者であるのか。
だが、碧海の側は真実を話した。ならば己も、嘘偽りなくほんとうの心持ちを話さねばならぬだろう。
「碧海。俺は、己を鳳と思っていない。……おまえを、枷と感じたこともない。むしろおまえは、いつも俺の前を飛んでいた。おまえこそが、雛を導く親鳥だと思っていた」
思考を声にすれば、継ぐべき何かは不思議と現れてくる。
ゆえに天翔は、次なる言葉を、ごく自然に発した。
「だから碧海。もしも俺を、おまえだけのものにしたいのであれば……飛んでくれ」
碧海が、わずかに首を傾げた。
天翔は、なおも続ける。
「おまえが導くからこそ、俺は高みへと至れるのだ……だから碧海。俺を天の果てへ連れていけ。誰もたどり着けぬような、遥かな天上へと。ただふたりしか至れぬような、高みであるなら……自然、そこで俺たちは、ただふたりになるだろう」
碧海は目を丸くした。そして数瞬の後、激しく笑いだした。
「空の高みに、閉じ込めろ……ですか。ああ、これは面白い」
愉快げに笑いつつ、碧海は己が額に手を当てた。そして何度も頷いた。
「わかっています。そのようなことはありえないと。ふたり天の果てへ至ったところで、依然あなたは地上を気にかけるのですよ……統べるべき民、率いるべき兵卒、愛おしむ者たちを。そうして私は、余所見をする鳳の横で苛立つのです。ですが――」
碧海は、今度は低く笑い始めた。くっくっと喉の奥を鳴らしながら、凄まじい力の籠った目で天翔を見つめた。
「――わかっています。今はそれしかないのだと。共に天を目指すほかに、道はないのだと」
不意に、碧海の目からふっと力が抜けた。
穏やかさを取り戻した瞳が、ちらりと脇の卓を見遣った。空になった急須と、ふたつの茶杯が静かに佇んでいる。
「淹れますか。私は喉が渇きました。渇いてしかたありません」
「人を呼ぼうか。軍師殿に、手ずから茶を淹れさせるなど――」
「いえ、私がやります。また菊花茶でよいですか」
無言で頷けば、碧海は急須を手に部屋を出ていく。
急激に、全身から力が抜けた。己も喉がひどく渇いていたことに、ようやく天翔は気がついた。
ぐったりと、椅子の上で天を仰ぐ。目に入るものは、ただ天井の古い木目ばかりであった。
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