幕間4
遺志
劉明傑が彼を――呉玄雲を初めて見たのは、青龍殿の庭園であった。
本来の行き先は龍徳殿、すなわち帝の宴会場のはずだった。広大な青龍殿の奥、天子の住まう内廷の一角にあり、外の国からの使者や、功のあった臣下をもてなすために使われる。本来なら内廷に入れないはずの明傑は、北方の反乱鎮圧の功により、この日に限って祝賀の席に招かれていた。
内廷は広いと聞き、明傑は早めに龍徳殿へ向かった。だが、それでも迷った。見目好く剪定された松や花木、そこかしこに鎮座する奇岩の間をうろうろと歩き回っていると、不意に仙女と逢った。
神々しい白い肌、陽光にきらめく白い髪。白い着物をまとって池のほとりに佇む風情は、一幅の名画に見えた。
「……どなたですか」
声が男のものであることに、明傑は心から驚いた。と同時に、仙女の正体に思い当たった。近頃、帝は白き凶相を持つ寵童に熱を上げているという。この者が、そうなのか。
「劉明傑。征北将軍を拝命しております。此度は反乱鎮圧の功により、宴にお招きいただいておりますが、恥ずかしながら龍徳殿の所在がわからず」
「私は呉玄雲。歌舞音曲をもって帝にお仕えしております。……まだまだ宴までは時間がございますよ。少し、お話をしていきませんか」
帝お気に入りの寵童と、親しげに話などしてよいものだろうか――明傑の警戒心は、しかし、白く艶めく手招きの前に溶け去った。あまりにも美しい微笑みだった。
玄雲は北方での戦いについて、大小様々なことがらを訊ねてきた。此方と彼方の兵力はいかほどだったか、首謀者の動機は何だったのか、どのような兵器が使われたか、戦場での衣食住はどのようなものか。微に入り細を穿つ問いに、明傑は丁寧に答えていった。
語らいながら、龍徳殿へ向かった。他の建物同様に、建物は青緑色に染め抜かれていた。衛兵の目に入らぬよう、物陰でふたりは別れた。
龍徳殿での晩餐は、盛大なものだった。
宴もたけなわとなった頃、上座の帝は右手を上げた。応えて、赤い錦をまとった楽士が入ってきた。琵琶を携えた手は細くしなやかで、髪も肌も輝くように白く、紅を引いた唇は艶やかに光っていた。
装いは違えど、姿はさきほどまで語らっていたのと同じ者――呉玄雲であった。
帝の傍ら、椅子に腰を下ろし、玄雲は琵琶を弾き始めた。粒の揃った音に、やがて、澄んだ歌声が重なってくる。
琵琶と歌の作り出す旋律は、明傑にとって天上の楽と聞こえた。
翌朝、天子は朝議に現れなかった。
珍しいことではなかった。だが明傑は苛立った。宴の席、一同に供された酒は強い種類のものではなかった。とすれば、朝、起きてこられぬのは――
神々しくも艶めいた、白い微笑みが脳裏をちらつく。
己がなぜ、こうも苛立つのか。わからなかった。
わからぬまま、明傑は拳を握り締めた。己が手が、かすかに震えているのがわかった。
◆
数日後、明傑は再び宮中へ呼び出しを受けた。行き先は第二正殿脇の小部屋――皇帝が直に臣下の話を聞く際に使われる、
玄雲との会話の件が知られたのだろうか。怖れながら、青龍の彫られた扉をくぐった。
簾の向こうに天子はいなかった。代わりに白い人影が、やわらかな燈明に照らされていた。
「明傑将軍、ご機嫌麗しゅう。楽士の呉玄雲でございます。……陛下にお許しをいただきました。あなたのお話を、伺いたく」
何のことかわからない。言葉を返せずにいると、玄雲はさらに続けた。
「身構えずともよろしいですよ。ただ、お話をしたいのです。用兵のお話、聖賢の教えのお話、諸子の著作のお話、諸々の学問のお話、辺境のありようのお話……
「……難しゅうございますな。辺境の様子程度ならともかく、学問や用兵術は、どうしても当代の政事に関わりまする」
明傑が渋ると、簾の向こうの玄雲は、わずかに首を傾げた。
「支障のない程度で良いのです。地上のことに障りがあるなら、天の星の動きなどでも」
「……ならば、天文の話でよろしいでしょうか」
星宿の動きは、天下の動向に関わるのだがな――と思いつつ、明傑は折れた。数日前に庭で見た、艶やかな微笑が脳裏から離れていなかった。
簾の向こうで、玄雲は笑ったようであった。直に目にできないのが、ただただ恨めしかった。
以来、しばしば明傑は簾の部屋に呼ばれるようになった。部屋の奥には、いつも玄雲がいた。
帝に許された、との言葉が真実であるのか、明傑に確かめる手段はなかった。確かめて嘘と判るのも怖ろしかった。明傑は求められるままに、簾の向こうの白い人影と語らい続けた。
◆
――以来、何年が経ったであろうか。
その日明傑は、都にほど近い城市にて、病に臥せる玄雲を見舞った。
療養とは名ばかりの、実質的な追放であった。病を得、痩せ細り容色を失い、琵琶も弾けなくなった玄雲に、帝は興味を失った。好きな所で野垂れ死ね、とばかりに都を追われた玄雲へ、住む所を手配したのは明傑だった。
しっかりとした造りの、簡素な寝台で玄雲は眠っていた。頬はこけ、肌は吹き出物で荒れていた。息は、苦しげであった。
艶を失い痩せ細った手を、そっと明傑は握り締めた。長く琵琶を弾き続けた手は、
悔しかった。ただ悔しかった。
この美しい人は、帝にすべてを捧げた。身も心も差し出した。だのになぜ、このように粗末に扱われねばならないのか。
私であれば。この人が身を捧げた相手が、私でさえあったなら。決してこのような――
「……明傑さま」
玄雲が目を覚ましていた。肌は荒れ、肉は落ち、それでも骨格だけは変わらぬままに、玄雲は笑った。美しいと、明傑は思った。
「息子の様子は、いかがですか」
かぼそい声で、玄雲が言う。
玄雲には子がいた。帝から下げ渡された寵姫との間に、男児がひとり。
玄雲は、政争渦巻く都から妻子を去らせ、郷里に匿っている。だが彼の故郷、
「さまざまな書物に興味を示している、とのこと。飲み込みも早いようです」
「そう、ですか。……それはよかった」
かすれた声は、嬉しげだった。
「息子には、父のように、なってほしくはありません……学もなく、容色で媚びることしかできなかった、この父のようには」
玄雲が、わずかに身じろぎした。
「明傑さま。あなたさまには、心より感謝しております。このような穢れた身を、気にかけてくださり……深き知識の片鱗を、垣間見せてくださった」
引き上げられた口角に、往時の麗しい笑顔が思い起こされる。明傑の目尻に、涙が滲んだ。
「夢見ていました。男子と生まれたからには、広野に一軍を率い、朝堂に天下国家を語りたいと……明傑さま、あなたは叶えてくださった。私の夢の、ひとかけらを」
微笑む玄雲の目尻から、滴が一筋落ちた。
「あなたさまと、居る時だけ……私は、男でいられた」
玄雲の手が、明傑の手を握り返す。
「息子を……天翔を、お願いします」
涙の色が、声に混じる。
明傑は、玄雲の手を強く握った。
双方、言葉を発さない。辺りを包むのは、かすかなすすり泣きの声だけであった。
◆
宮中の一室で、劉明傑はもがいていた。胸を押さえ、息を荒げ、頭を振り、必死に何者かに抗っている。
河の向こうでは天翔たちが陣を張り、己を討つべく準備を進めていると、明傑は聞いていた。できることなら、討ってくれと願う。だが、できるだろうか。あの子に。
(思い出せ。かつて持っていた、心を)
奇妙にやさしげな、声。
庭園でやわらかく笑む、天上人めいた美しい男の記憶。顔立ちが、髪や肌の艶が、四肢の造作が、なにもかもが、先頃見た息子に――呉天翔に重なる。
(思い出せ。あの頃……天子が朝議に遅れた日、欠席した日、おまえは何を思っていた)
呼び起こされる古い渇望。
あの日々、男としての己の欲は、否応なく前夜の天子と玄雲を胸の中に思い描いた。狂おしい怒りは、想像の中の天子を自分自身に描き変え、帝に成り代わった己は……言葉にできぬ所業を玄雲に働いた。
だがそれは、叶えてはならぬこと。己が身から、漏れ出させてはならぬもの。
(二十年以上、抱き続けた想い。今こそ、実るべき時は来た)
「……やめ、ろ」
苦しげな声を、明傑は絞り出す。
「かの者は……天翔は。守るべき、大切な忘れ形見――」
胸中に湧く、狂おしいまでの欲。押し流されまいと抗う声は、次第に小さくなっていく。
(さあ、遂げてみせよ。長き年月の間、一途に抱き続けてきた想いをな……!)
明傑が一声、叫びをあげた。全身が黒いもやに包まれる。
もがく身体は床に倒れ込み、そのまま、動かなくなった。
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