4章 誠心
疑念
天翔の軍勢は、都から最も近い
昨夜眠れなかった兵たちは、朝日の中でようやく安眠することができた。一方で、天翔は目の下に薄い隈を作りながら、うなされ続ける碧海の傍に付き添っていた。
碧海は意識がないまま、冷たい脂汗を流していた。意味を成さないうわごとを呟き、時に獣のように唸り、思い出したように手足をばたつかせる。そして時折、はっきりと聞き取れる言葉を口にすることもあった。
「……行くな、天翔……!」
毛布を強く抱きしめつつ、碧海が叫ぶ。力の入った手指が、白い。
身をこわばらせる天翔の前で、震える唇から、さらなるうわごとが吐き出されてくる。
「ああ、天翔……何も見るな、何も聞くな……おまえは、私だけの――」
聞かされるたび、背筋が冷える。
血の気が抜ける音が、身の内で響くように思う。
昨夜、怨霊たちから投げかけられた言葉が、痛みとなって蘇る。
(今宵、おまえが見たものこそが真実)
宵闇に浮かぶ、凄まじい血染めの笑みが、目の前でうめく碧海に重なる。
あれが、本当のおまえなのか。俺を我が物としたい、他の者の目に触れさせたくない、その欲こそが本心だというのか。
「
左腕を白布で吊った白虹が、横から声をかけてきた。大きく斬られていたはずの腕は、まだ思うようには動かないそうだが、傷口は既に塞がっている。夜明けに見た時は驚いたものだが、本人曰く「この程度なら仙術でなんとでも。腕自体を落とされちゃったりしたら、ちょっと色々むずかしいけどね」とのことらしい。彼は仙界からやってきた者なのか、と天翔は考えたが、それ以上の追及はやめておいた。人間が関わってよい事情なのかどうか、判断がつきかねたためもあった。
ともあれ、回復しないままの碧海を放っておいて、自分だけが眠ることはできそうになかった。色々な意味で、神経が昂ったまま落ち着かない。
「碧海の容態が安定したら、休むつもりではいましたが。昨夜からずっとこの様子で」
「
「白虹殿のお力で治せないのでしょうか。あの蛟龍のように」
「人間は獣ほど単純にいかないから……あの子の時は、身の内の水を入れ替えてなんとかなったけど、人でそれやると色々壊れちゃうんで。子供返りしたり、男が女になったりはまだ良い方で、最悪命にかかわるよ」
天翔の脳裏に一瞬、子供返りして少女になった碧海が浮かんだ。頭を振って丁重に追い払いつつ、溜息をつく。
「では、治療の手段はないのでしょうか」
「あるにはあるよ。穢れた『土』の霊気さえ、除いてやれればいいんだけど……あいにく僕にその力はなくて。蛟龍の時も、土の穢れを直に消せたなら、そっちの方が早かったんだけどね」
「では、他に御存知ありませんか。土を消す力を持った、どなたかを」
期待はしていなかった。白虹にできないことが、他の誰かにできようなどとは。
だが白虹は、きょとんとした表情で首を傾げつつ、こともなげに言った。
「いるにはいるよ? 青龍殿の一番奥に。もっとも、今は明傑さんに捕まってるだろうから、会いに行くのは――」
「白虹殿!」
理解した瞬間、天翔は叫んでいた。
青龍殿の奥に住まう者――すなわち天子。土を抑える「木」の徳を、人の世で最も強く持つ存在であれば、土の霊気へ対抗できると白虹は言いたいのだろう。
「びっくりした。急に叫んで……どうしたの
「白虹殿。天子様の身柄を、どうにかして我が軍で確保することはできませんか」
言われ、白虹は眉根を寄せた。
「難しいね。皇帝陛下がいるのは青龍殿の内廷だけど、あそこは『木』の霊気でいっぱいだ。ちょっと僕だと動きづらい」
「ですが、天子様が亜父の側にいらっしゃるままでは、我が軍は動けません。御身があちらにあるかぎり、亜父は官軍、我らは賊軍なのです。兵を動かす前に、大義名分を確保せねばなりません」
「いろいろめんどくさいよね。人の世って」
半ば呆れたように手を挙げてみせつつ、白虹は碧海の様子を横目で見た。碧海はなおも目を覚まさないまま、唸り声と共に脂汗を流し続けている。
「でも、僕ひとりだと厳しいね。お守りがあればいいんだけど……『木』を抑えてくれるような、何かが――」
言いかけて、不意に白虹は手をぽんと打った。
「――あった、お守り! それも最強のやつが!!」
白虹が、天翔の正面に回り込んでくる。相変わらず片目は隠したまま、くりくりと丸い右目で見上げてくる。
「
ちょっとそこまで、ご飯を買いに行くだけだから――と言わんばかりの調子で、白虹は朗らかに微笑んだ。
断る理由があろうはずもなかった。青龍殿への潜入を、言い出したのは天翔なのだから。
傍らではなおも碧海が、うわごとを叫び続けている。
「天翔……天翔。私の……私だけの――」
これ以上聞いていては、天翔も正気を失っていきそうな気がした。
これは
一刻も早く、頼れる師友を取り戻したい。必要な助力を惜しむ気は、天翔には毛頭なかった。
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