退魔

「正気にお戻りください、亜父!」


 届かないと知りつつ、天翔は吼えた。


「私の知る亜父は、このような非道を行う御方ではありません。都を乱し、民を虐げ、聖獣を苦しめるような所業、決して――」


 返ってきたのは大声での嘲笑だった。愉快げに笑いつつ、明傑は口角を引き上げた。


「おまえはこの男の、何を知っている?」


 明傑の両手から、鈍い光が飛ぶ。

 白虹が光の壁を作る。邪悪の光が、弾き返される。


「まこと、依代としては理想的だったぞ。『青』の帝は、この男の大切な者を弄び、棄て、惨めな死に追いやった……この男もまた、『青』の犠牲者のひとり」


 矢継ぎ早に、瘴気の光が繰り出される。

 白虹の防壁に、揺らぎの気配はない。だが防戦に徹していれば、反撃の機会も生まれない。


「おまえは惑わされておったのよ。この者の、忠臣の仮面にな」


 明傑は得意げに語る。

 耳を貸さないようにしつつ、天翔は反撃の機会を伺った。霊力が同程度の力でぶつかり合っているなら、剣で均衡を崩せないだろうか――佩剣の柄に手をかけ、腰を落とす。

 だが次の瞬間、天翔の腰はふわりと宙に浮いた。

 そのまま地に叩きつけられた。何者かに押さえ込まれた。


大哥おにーさん……ぐ、ぁ!」


 白虹の叫びに、短い悲鳴が混じる。

 見れば白虹も、地に倒れていた。黒い道服の周りに、邪霊が濃くまといついている。

 邪霊どもに、背後から不意を打たれたのだ――理解した頃には、既に天翔の手足は、人を超えた力で地に押さえ付けられていた。身動きが取れぬほどの、圧だった。

 黄龍に憑いていた邪霊たちが動き、後ろから奇襲をかけてきたのだと、天翔はようやく気付いた。だが、今となっては、もはやどうすることもできない。

 愉しげな低い笑いが、聞こえる。


「さあ、劉明傑よ。積年の想いを遂げる時が、来たぞ」


 亜父と慕った存在が、ゆっくりと歩み寄ってくる。


「まこと、親子とはいえよく似たものよ……かの者が黄泉から舞い戻ってきたようにしか、見えぬなあ」


 高らかに笑いながら、明傑が身の上に屈み込んでくる。

 邪霊に絡みつかれた四肢は、動かない。

 ふと、天翔の脳裏に蘇る声があった。


(迷いを覚えた時は、思い出してくださいね。あなたの側では常に、狂いかけた軍師が見張っているのだと)


 胸中に声が響けば、姿もまた脳裏に描き出される。浮かんだ師友の表情は、おそるべき憤怒に歪んでいた。怨霊に憑かれた顔ではない。彼は、彼自身の心で、怒りに狂っていた。


 ――許しません。決して許しません。


 鬼神の面のごとく吊り上がった目が、口元が、震える肩が、なにもかもが、語っている。


 ――あなたは私を殺す気ですか。狂い死にさせる気ですか。


 すまない、碧海。俺の力では、どうにもできそうにない。

 内心で語りかければ、幻の碧海は、力の限りに天翔の頬を打った。

 幻のはずの掌が、顔に熱い痛みを残す。

 碧海の、悲鳴に近い怒鳴り声が、飛ぶ。


 ――私相手では、決して折れないくせに。戦いなさい。手足が動かないなら、頭でも口でも何でも使って!


 明傑の顔が、目の前にある。欲望にぎらつく視線が、じっとりと絡みついてくる。

 固い指がそっと、天翔の頬に触れた。そのまま顔の輪郭を伝い、唇をなぞる。

 とっさに、天翔は動いた。

 口を開き、力の限りに指へと噛みついた。


「……つ、っ!」


 明傑が手を引く。瞳の光が、いくぶん緩んだ。

 正気が戻ったかと、一瞬の望みが生まれる。

 だが、血の滲む指を舐めつつ明傑は呟いた。


「この期に及んで、まだ抗うというか」


 やはり、一瞬の揺らぎでしかなかったのか――

 悟った瞬間、身の内に不思議な落ち着きが生まれた。

 ふと、脳裏に碁盤が浮かんだ。真っ白に染まった、わずかしか黒のない盤面。はじめて碧海と出会った折に、幾度も手酷く負かされた時の記憶であった。

 ああ、そうだな。俺は、決して折れない。

 勝手に笑いがこみあげてきた。これが俺なのだ。碧海が教えてくれた、俺なのだ。


「ええ、抗いますとも。亜父でありながら、知らなかったのですか?」


 天翔は高らかに笑った。己を奮い立たせるための笑いだった。


「この呉天翔、大変に諦めの悪い男なのだと。知らなければ今、教えて差し上げますよ!」

「そうか、ならば改めて教えてやらねば。父には従うものだと、その身に刻みつけ――」


 明傑が言いかけた瞬間であった。

 突如、洞穴に轟音が響き渡った。天井の岩が崩れ落ち、土煙に紛れて何物かが舞い降りてくる。

 最初、それは白い光の塊と見えた。だが目が慣れてみれば、白い鱗であった。

 龍のごとき頭、頭上に伸びた一本の角。豊かになびく白い尾――白の麒麟が、そこにいた。

 白鱗に覆われた胴に、ひとりの男が騎乗していた。男の手には、青緑色の鞘に入った剣と、龍が透かし彫りされた翡翠の円盤が携えられていた。青龍殿の内廷、天子の囚われた部屋で見た、帝室の宝物であった。


「不安が的中しましたね……やはり天翔は、私が見ていなければ」


 男の口から懐かしい声が、いま最も聞きたかった声が、響く。


「碧海!」


 明傑の腕の下で、天翔は叫んだ。同時に、碧海が白の麒麟から降りる。


「明傑殿。そこをどいていただけますか。私の主を、踏んでおりますので」

「おまえの主である前に、この者は我が愛し子。余人の立ち入る筋合いではない」

「そうですか。ならば、天翔――」


 次の言葉が、重なった。

 ひとつは碧海から、ひとつは白の麒麟から。


「あなたこそが、我が『主』。立ち上がり、戦いなさい!」

「汝こそが、我が『主』。立ち上がり、主命を下せ!」


 力が、四肢にみなぎる。

 白き麒麟の霊力なのか、それとも碧海の弁舌の力か。わからない。どちらでもいい。

 すべての力を足に籠め、天翔は膝を振り抜いた。

 脛を打たれ、明傑が一瞬ひるむ。

 隙を突いて、上体を弾き飛ばす。

 よろめいた明傑は、それでも体勢を崩さない。だが逃れるには十分だ。

 転がるように逃れ、立ち上がって碧海に駆け寄る。長年の師友は、いくぶん呆れたように笑うと、携えた剣を天翔へ渡した。


「さ、戦いましょうか。青の天子の名代として」


 抜き放てば、刀身はすべて翡翠だった。

 傍らで、碧海が龍紋の円盤を掲げた。

 邪霊に抑えつけられたままの白虹が、我が意を得たりと言わんばかりに笑む。

 麒麟が一声、高くいなないた。主命を促されているのだと、無言のうちに天翔は悟った。

 ひとつ唾を飲み込み、声を張り上げる。


「聖なる白き麒麟よ。我が友、周碧海よ――」


 天井からの光を受け、透き通って輝く翡翠剣の切っ先を、まっすぐに明傑へと向ける。


「――鴻郡太守、呉天翔の名において命ずる。共に戦い、呪わしき怨霊どもを打ち払うべし!」


 麒麟が吼える。

 碧海が、鬨の声を上げる。

 このような勇ましい声を、彼はあげることができたのか――わずかに驚きつつ、天翔は翡翠剣を手に、群れなす邪霊へ斬り込んだ。



 ◆



 洞穴に満ちていた邪気が、またたく間に薄れていく。

 碧海が龍紋の円盤を掲げれば、淡い光が周りを満たし、邪霊の動きを鈍らせる。弱った霊たちを、天翔は翡翠剣で次々と斬り伏せていった。実体がないはずの霊たちは、青の宝剣で斬ると手応えがあった。円盤も剣も、共に青緑色が美しい「木」の宝器だ。ゆえに「土」の邪気を退ける力があるのだろうと、天翔は想像した。

 やがて、邪霊から解放された白虹も戦線に加わった。三人の人間が戦ううちにも、白き麒麟は霊力の流入口と思しき辺りを駆け回っていた。流れ込む力が清められ、息苦しい邪気が次第に薄れていくのが、人の身の天翔にさえも感じ取れた。

 やがて、敵わないと見て取ったのか、邪霊たちが動きを変えた。

 残った怨霊たちの気配が、急速に明傑の周りに集まり始めた。恰幅の良い身体へ、次々と邪悪な気配が入り込んでいく。


「そこは、貴様らの逃げ場ではない!」


 碧海が、明傑へ龍紋盤を向ける。

 やわらかな輝きが偉丈夫の身を包んだ。だが、怨霊たちが離れる気配はない。むしろ、より深く明傑の身の内へ、邪な者どもを追い込んでしまっているようにも見えた。

 龍紋盤を下げた碧海が、麒麟へ目配せをする。天翔は声を張り上げた。


「麒麟よ! 我が名において命ずる、厲鬼れいきを亜父から引き剥がせ!!」


 麒麟の身体が、白い光を発した。光輝は粒となって舞い散り、明傑の全身を覆う。

 人ならざる、凄まじい叫び声があがった。

 ――これで、すべてが終わる。

 引き剥がされた厲鬼を討つべく、天翔は翡翠剣を構えた。だが光が引いても、明傑の身からは何者も出てこない。そして救われるはずの亜父は、依然、邪悪な笑みを浮かべたまま膝をついていた。

 麒麟が、ゆっくりと首を横に振った。


「ど、どういう、こと……だ?」


 麒麟の力が及ばないなど、ありえるのか。困惑する天翔へ、麒麟はあくまで淡々と告げた。


「あの者自身が、厲鬼たちを捕らえている。言い換えれば、離れることを望んでいない……望んで依代となっている者には、我とて手の出しようがない」


 言葉を失う天翔へ、聞き覚えのある低い声が語りかけてきた。


「麒麟の言う通りよ。……いまやすべての怨霊どもは、我が身の内に在る。私が引き寄せ、捕らえた。一網打尽にするなら今よ」

「亜父!?」


 優しい声であった。表情を憤怒に歪ませつつ、声色だけは嘘のように凪いでいる。


「明傑殿、奴らをお放しください! 私と天翔が、帝室の宝剣をもって――」

「討ち漏らしはいくらか出るであろう。欠片も残さず滅ぼすには、この手段をおいて他にない……それにな」


 瞳に宿る狂気の光が、退いた。慈愛に満ちた父の目で、明傑は天翔を見つめた。


「まこと、苦しい年月であったわ……今なら解る。口にも出せぬ劣情を抱えたまま、おまえの隣で生きられるほど、私は強くはないのだとな」

「亜父!」


 明傑の震える手が、天翔に伸ばされた。翡翠剣を握る右手に、皺のより始めた固い指が触れた。


「奴らに憑かれ、多くの罪も犯した。天翔よ……子供でないなら、わかるであろう。亜父が、いま何を欲しておるか」


 明傑の手が、促すように動く。

 いまいちど、天翔は明傑を見上げた。

 やわらかな笑みであった。穏やかに細められた目は、わずかに潤んでいるように見えた。


「碧海よ。友として……この子を、頼んだぞ」


 はい――と答える碧海の声に、涙の色が混じっている。

 天翔の右手に、もうひとつの手が重ねられた。誰のものか、確かめずともわかった。


「亜父」


 ひとつ、深く、息を吸う。

 言うべきことは、あまりにも多すぎる。

 けれど、最後の言葉は、ひとつしか出てこなかった。


「ありがとう……ございました」


 明傑が頷く。涙が、頬を伝うのが見えた。

 翡翠剣を握る手に、力を籠めて――天翔は一息に、明傑の胸を刺し貫いた。

 人ならざる者の絶叫が、あがる。

 禍々しい悲鳴が重なり響く中、温かい鮮血が天翔の顔を濡らした。


「……よく、やった。天、翔」


 血染めの掌が、天翔の頬に伸ばされる。

 頬を撫でる大きな手が、温かい。幼い頃に数度だけ会った明傑は、こんなふうに大きく温かい手で肩を撫でてくれた――と、不意に思い出した。


「ほんとうに、おまえは……立派に、育った」


 明傑は笑っていた。満ち足りた笑みであった。

 頬を涙が伝っていた。

 邪霊の影は、いまやまったく消え去っていた。


「ああ、やはり……おまえは、赤が似合う、な」


 その言葉は、ここにいない誰かへ向けられているように、天翔は感じた。

 視界が、霞む。自分自身も涙を流しているのだろうか。

 足元に、重い何かが倒れ込む音がした。屈み込み、抱え上げた。動かなくなった明傑は、静かに笑っていた。

 身の内で、何かが砕けた気がした。

 天翔は泣いた。ただひたすらに、泣いた。

 誰かの手が、肩を抱いてくれた。血に濡れた己の手を重ね、なおも天翔は泣いた。

 嘆きの声は黄の岩肌に反響し、いつまでも洞穴の中に響き続けていた。

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