終章 香樹
琵琶
数日の後。
天翔は、侍女たちに着衣を整えさせた。赤い錦の着物であった。軍資金に換えるよう託された、父の遺品のひとつに、天翔は自ら袖を通した。同じく遺品である金の帯を締め、琵琶を携える。
この姿がどのような反応を引き出すか、予想はできない。だが多少なりとも、かの人に活力を――生への希望をもたらすことができるなら。そう、天翔は願った。
目指す部屋の前に立つと、中から話し声が聞こえた。碧海が既に来ていた。
「……あなたのお力は、まだまだ必要です。私からもお願いします。これからも、天翔の力になっていただきたく」
碧海の励ましに、弱々しい声が答える。
「既に何度も、繰り返しておるように……わからんのだよ。私はどのように、あの子に相対すればよいのか」
明傑の声であった。
厲鬼と共に滅びたと思われた身体は、かろうじて一命を取り留めていた。生死の境から生還した明傑に与えられたのは、長期謹慎の勅令であった。外出禁止と公務停止を命ずる内容は、実質的に長期療養の指示であった。地位や名誉に傷がつかなかったことに、ひとまず天翔は安堵した。残る気がかりは、深い傷を負った身体と、それ以上に心の内であった。
「亜父と慕ってくる子に……私はよからぬ情を抱き、獣のごとく襲った。もはや元のように、父と子であることはできん。この掌が……肌の手触りを、覚えてしまった以上は、な。だからこそ、ああするしかなかったのだが、な」
「……明傑殿」
碧海が、数度咳払いをした。
「いまの私の心情、どのようなものと考えておられますかな」
「どのような、とは」
「彼は私の『主』ですよ……主に劣情を抱き襲った、などという告白を、看過できるとお思いですか」
しばしの沈黙の後、碧海はさらに続けた。
「まこと気が狂いそうです。あいつが素顔を晒せば、道行く連中が皆振り返る。いらぬ情を抱く者も現れる。たかる羽虫を払うのに、かねてから苦労しておりましたが……まったく、こんなところに大きな毒虫がいたとは」
かぼそい、しかし少しばかり力のある笑い声が、あがった。
「かぐわしい木には、毒虫も寄っていくものよ。近づけば、葉を食い荒らしてしまうと……わかっておるのにな」
「お気持ちはわかりますよ、痛いほどに……彼の一番近くにいる、最も大きな毒虫としては」
ふたりの笑い声が、重なって響く。
琵琶を手にしたまま、天翔は動けずにいた。亜父と碧海が親しげに語らっているのは嬉しい。だが、共に天翔にとって、かけがえない大切な存在だ。なぜ彼らは、自らを毒虫などと呼んでいるのだろう。
「大丈夫ですよ明傑殿。さらけ出してしまえば楽なものです、思いのほか。彼の器は、我らが思うよりも大きい……毒虫どものつまらぬ迷いなど、まるごと受け容れてくれますよ。あとは、己が毒虫であると自覚していればよいだけです」
「寝台に引きずり込んでも、問題ないと言うか?」
「そうなれば、今度こそ私が心臓を貫いて差し上げますので」
またも、ふたりが笑った。だがどこか、互いの声に剣呑な響きがある。そろそろ出ていく頃合かと、天翔は判断した。
琵琶を抱いて部屋に入れば、寝台の明傑と脇に座る碧海が、共に天翔を見て息を呑んだ。
「……その、なりは」
「父の遺品です。多少なりとも、亜父を元気づけたいと願いまして」
呆気にとられるふたりの前で、天翔は椅子に腰を下ろし、琵琶を弾き始めた。
琵琶はかつて、病床の母のために練習したことがあった。だが下手だとなじられた。以来何年も琵琶には触れてこなかったから、上達はしていないはずだ。
案の定、音が外れる。冷汗を流しながらの歌は、自分で自分の腕前はわからない、だが上手くはないだろう。それでも明傑と碧海は、真剣な面持ちで天翔を見つめ、演奏に聞き入る態度を見せてくれていた。
永遠に近い、長い時間のように感じた。
最後の一音を弾き終えた。観客のふたりから、ほとんど同時に拍手があがった。
「いかがでした、でしょうか」
「下手だな」
明傑の即答に、鼻白む。返す言葉を出せずにいると、亜父と慕った相手は愉快げに高く笑った。大きな身体を揺らしつつ、目尻には涙を光らせていた。
「だが、懸命に弾く様子は可愛らしかったぞ。そうしておると嫌でも解るな。おまえは、玄雲殿とは違うのだとな」
「面目ございません」
「褒めておるのよ。……ようやく、思い知ったように思う。おまえは、おまえであって……玄雲殿ではないのだとな」
やさしい慈父の表情で、明傑は囁くようにつぶやいた。
「ほんとうに、おまえは……立派に、育ったな」
満足げに笑う明傑の横で、苦虫を噛み潰した表情の碧海が、引きつった笑いを浮かべていた。
なぜか、天翔にも笑いがこみあげてきた。頬を染め、天翔はわずかにうつむいた。
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