黄龍
翌朝。
夜明け前の
だがそれでも、行かねばならない。
日数が経てば、それだけ都の状況は悪化する。加えて友軍全体に、後続の諸侯が到着する前に戦果を挙げ、己が立場を優位にしたいとの考えも広がっている。同盟の全体が同じ方向でまとまっているのは、個々の利害を巧みに調整した碧海の手腕でもあった。まとまりが乱れ始めないうちに、すべてを終わらせておきたい。
「それじゃあ、いっくよー! みんな、進む準備はいいかな?」
白虹居士が、くだけた口調で叫ぶ。楽しげな声が、場の緊張を少しばかり解いた。
今日は白虹も、いつもの襤褸ではなく、清潔感と威厳のある黒の道服を身に着けていた。あまりに粗末な身なりでは自軍の名誉に関わる、との碧海の判断だったが、もともと白虹に備わった気品が装いによって引き出され、高貴な家の子息めいた雰囲気を生み出していた。
白虹は水面を前になにごとかを唱えると、河へ向けて手をかざした。朝日にきらめく水が、見る間に輝きを増し、都の大通りほどの幅がある光の橋ができあがる。
居並ぶ軍勢から、感じ入った風の溜息があがる。その様を、鎧兜姿の天翔と碧海は肩を並べて見守っていた。
白虹に促され、碧海は緊張した面持ちで数度頷く。
「では、行ってきます。お互い、無事に戻りましょう」
碧海が天翔の手を取った。
手袋越しに、かすかな温もりが伝わる。
「ああ。おまえも、な」
天翔は、碧海の手を握り返した。
それ以上の何も、今は必要ないように、天翔には思えた。
◆
都の東門を前に、戦闘が始まった。
碧海率いる
城壁を遠目に見ながら走っていると、不意に白虹は立ち止まった。
「このへんでいいかな。
白虹は天翔の身体を抱え上げ、大きく跳ねた。
城壁の上へ飛び上がると、いつかの夜のごとく、白虹は凄まじい速さで駆けはじめた。屋根伝いに跳んでいけば、目指す古廟はほどなく見えてきた。
屋根は、青龍殿と同じく青緑色に塗られていた。近づけば、吐き気を催しそうな気配があった。臭いはないはずであるのに、鼻から吸い込む息が酷く汚れているように天翔は感じた。
「
「……なんとか」
地を踏む足が、かすかによろめく。だが気を取り直し、白虹と天翔は廟内へと突入した。
◆
廟の周りに衛兵はいなかった。古びた木の扉を押し開けると、暗い堂内に光が差した。浮かび上がった光景に、天翔は少なからず戸惑った。
廟は本来、祖先の霊を祀るためのもの。当然、中には祭壇や装飾があるはずだ。だが、目の前の空間にそれらしき物はない。何かが壊されたような残骸だけが転がっていた。青緑色に塗られた壁面は、退色の様子にむらがある。長年置かれていた物が取り去られたような跡だった。
「
白虹が床の一点を示す。不自然に盛り上がった板を外すと、階下への梯子が見つかった。先は闇の中に消えており、とてつもない邪気を含んだ風が、絶え間なく吹き上がってくる。
「僕が先に行く。
梯子の強度を確かめつつ、白虹が降りていく。やや遅れて天翔も続く。
求める者はこの先にいる――口に出さずとも、双方が理解していた。
◆
梯子の先に、広大な空間があった。
青龍殿の第一正殿と同じくらいか、それより広いかもしれない。ほのかな光に照らされた壁は、見渡す限り黄色がかった岩であった。壁も床も凹凸が激しい。空間は人が掘ったものではなく、自然の洞穴を加工したもののように天翔には見えた。都の地下にこのような場所があるとは、噂にも聞いたことがなかった。
空間を照らす灯りは、奥から漏れているようであった。黄色がかった光に誘われるように、白虹と天翔は歩を進めた。だが、やがて光源の正体に気付いた時、ふたりは共に言葉を失った。
黄色い巨大な龍が、禍々しい鉄鎖で岩盤に繋がれていた。
龍の目は閉じられている。今は眠っているようだ。だが人の数倍はある胴体には、天翔の目にも見えるほどの濃い邪霊がまといついている。黄褐色の鱗に艶がないのは、生来の質なのか邪霊の影響なのか、わからない。
龍の前に、人の後ろ姿があった。侵入者の気配に気づいたのか、天翔たちの側をゆっくりと振り返る。
細い目、幾筋か白の混じる髪、豊かなあごひげ。すべて、知っている姿のはずだった。だのにどうして、この場ではすべてが邪悪にしか見えないのか、天翔にはわからなかった。
「誰かと思えば天翔ではないか。この明傑を慕って、ここまで追ってきたか」
「亜父……いや厲鬼ども。ここで何をしている」
うめき混じりの天翔の声に、人は――厲鬼に憑かれた劉明傑は、嘲りの笑いで応えた。
「黄龍を、目覚めさせようとしておるのよ」
「……黄龍?」
天翔も、名だけは書物で読んだことがあった。世をかたちづくる五行には、それぞれの力を統べる「五獣」がいる。すなわち水の玄武、火の朱雀、金の白虎、木の青龍、そして「土の黄龍」。五獣の力は、この世に住まう獣たちの中で最も強い。もしも怒りに触れたなら、天変地異をも引き起こしかねないほどに。
だがもし五獣がこの地にいるとすれば、それは青龍ではないのか。ここは木徳の都であり、上に立つ宮殿も「青龍殿」だ――と考えかけて、天翔は前夜の話を思い出した。ここは元々、土徳の地なのだ。
「すべては、非道の『青』を滅するため。我らから奪い、我らを辱め、我らを滅ぼし、すべての罪を史上から消し去った鬼畜どもを……この世から消し去るため」
「だから、黄龍を起こそうっていうの?」
白虹の声に、切迫した響きがある。
「だめだ。いま黄龍は眠ってる。無理に起こせば間違いなく災いがある。まして、こんな穢れた力を注がれたなら――」
そこまで言って、白虹は息を呑んだ。
「もしかして、おまえたち……わかっててわざと、黄龍を穢そうとしてる?」
黄龍の爪先が、かすかに動いた。場に満ちる瘴気が濃くなっている。
厲鬼が汚した龍脈の霊気を、眠る黄龍は飲み込まされているのだろうと、天翔は想像した。
明傑が、得意げに口角を引き上げた。
「まこと、欲望の力とは強いもの。平凡な人間でさえ、道徳の鎖をひとたび外せば、驚くほどの力で暴れ狂う。それほどの力だ、集めて龍脈に注ぎ込めば、五獣でさえ狂わすことができよう」
「五獣が狂えば、都が壊れるだけじゃ終わらない。五行の巡りが崩れて、なにもかもがめちゃくちゃになる……気候も季節も乱れて、国中でどれだけの人が死ぬのか見当もつかない」
「望むところよ」
明傑は高く笑った。
「非道の『青』に従う者ども、奴らが築き上げた物ども。すべて無に帰してくれようぞ。我らから奪い、殺し、焼き尽くし、史上からも消し去った者どもへの、当然の報いだ……だがな天翔」
不意に、明傑の手から鈍い光が飛んだ。
天翔を狙った一閃を、すんでのところで白虹が弾く。
「亜父として、おまえにだけは情けを与えてやる。さあ天翔よ、受け取るがいい……限りなき父の愛をな!」
明傑は己が唇を一舐めし、大きく手を広げた。両の掌を、鈍く光る瘴気が包む。
黄龍を包む邪霊の気配が、強くなった。
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