黄龍

 翌朝。

 夜明け前の黄蓮河おうれんがを前に、動員可能なすべての兵力が揃っていた。呉天翔率いるこう郡の手勢、約一千。加えて同盟諸侯の軍勢が、すべて合わせて二万近く。数では劉明傑を上回っている。問題は兵個々人の力であった。厲鬼れいきによって欲望を引き出された敵兵たちは、人間の限界を超えた未知の力を発揮する可能性がある。自軍の兵たちが、邪気に囚われる危険もあった。

 だがそれでも、行かねばならない。

 日数が経てば、それだけ都の状況は悪化する。加えて友軍全体に、後続の諸侯が到着する前に戦果を挙げ、己が立場を優位にしたいとの考えも広がっている。同盟の全体が同じ方向でまとまっているのは、個々の利害を巧みに調整した碧海の手腕でもあった。まとまりが乱れ始めないうちに、すべてを終わらせておきたい。


「それじゃあ、いっくよー! みんな、進む準備はいいかな?」


 白虹居士が、くだけた口調で叫ぶ。楽しげな声が、場の緊張を少しばかり解いた。

 今日は白虹も、いつもの襤褸ではなく、清潔感と威厳のある黒の道服を身に着けていた。あまりに粗末な身なりでは自軍の名誉に関わる、との碧海の判断だったが、もともと白虹に備わった気品が装いによって引き出され、高貴な家の子息めいた雰囲気を生み出していた。

 白虹は水面を前になにごとかを唱えると、河へ向けて手をかざした。朝日にきらめく水が、見る間に輝きを増し、都の大通りほどの幅がある光の橋ができあがる。

 居並ぶ軍勢から、感じ入った風の溜息があがる。その様を、鎧兜姿の天翔と碧海は肩を並べて見守っていた。

 白虹に促され、碧海は緊張した面持ちで数度頷く。


「では、行ってきます。お互い、無事に戻りましょう」


 碧海が天翔の手を取った。

 手袋越しに、かすかな温もりが伝わる。


「ああ。おまえも、な」


 天翔は、碧海の手を握り返した。

 それ以上の何も、今は必要ないように、天翔には思えた。



 ◆



 都の東門を前に、戦闘が始まった。

 碧海率いるこう郡の軍勢が、友軍と共に、都を守る劉明傑の手勢を攻め立てている。彼らを残し、天翔と白虹は北門側へと駆けた。目指す古廟は都の北西にある。敵の注意が東門に向けば、他方面の警護は手薄になるだろう、との読みもあった。

 城壁を遠目に見ながら走っていると、不意に白虹は立ち止まった。


「このへんでいいかな。大哥おにーさん、しっかり掴まっててね」


 白虹は天翔の身体を抱え上げ、大きく跳ねた。

 城壁の上へ飛び上がると、いつかの夜のごとく、白虹は凄まじい速さで駆けはじめた。屋根伝いに跳んでいけば、目指す古廟はほどなく見えてきた。

 屋根は、青龍殿と同じく青緑色に塗られていた。近づけば、吐き気を催しそうな気配があった。臭いはないはずであるのに、鼻から吸い込む息が酷く汚れているように天翔は感じた。


大哥おにーさん、大丈夫?」

「……なんとか」


 地を踏む足が、かすかによろめく。だが気を取り直し、白虹と天翔は廟内へと突入した。



 ◆



 廟の周りに衛兵はいなかった。古びた木の扉を押し開けると、暗い堂内に光が差した。浮かび上がった光景に、天翔は少なからず戸惑った。

 廟は本来、祖先の霊を祀るためのもの。当然、中には祭壇や装飾があるはずだ。だが、目の前の空間にそれらしき物はない。何かが壊されたような残骸だけが転がっていた。青緑色に塗られた壁面は、退色の様子にむらがある。長年置かれていた物が取り去られたような跡だった。


大哥おにーさん、これ!」


 白虹が床の一点を示す。不自然に盛り上がった板を外すと、階下への梯子が見つかった。先は闇の中に消えており、とてつもない邪気を含んだ風が、絶え間なく吹き上がってくる。


「僕が先に行く。大哥おにーさん、気をつけてついてきてね」


 梯子の強度を確かめつつ、白虹が降りていく。やや遅れて天翔も続く。

 求める者はこの先にいる――口に出さずとも、双方が理解していた。



 ◆



 梯子の先に、広大な空間があった。

 青龍殿の第一正殿と同じくらいか、それより広いかもしれない。ほのかな光に照らされた壁は、見渡す限り黄色がかった岩であった。壁も床も凹凸が激しい。空間は人が掘ったものではなく、自然の洞穴を加工したもののように天翔には見えた。都の地下にこのような場所があるとは、噂にも聞いたことがなかった。

 空間を照らす灯りは、奥から漏れているようであった。黄色がかった光に誘われるように、白虹と天翔は歩を進めた。だが、やがて光源の正体に気付いた時、ふたりは共に言葉を失った。

 黄色い巨大な龍が、禍々しい鉄鎖で岩盤に繋がれていた。

 龍の目は閉じられている。今は眠っているようだ。だが人の数倍はある胴体には、天翔の目にも見えるほどの濃い邪霊がまといついている。黄褐色の鱗に艶がないのは、生来の質なのか邪霊の影響なのか、わからない。

 龍の前に、人の後ろ姿があった。侵入者の気配に気づいたのか、天翔たちの側をゆっくりと振り返る。

 細い目、幾筋か白の混じる髪、豊かなあごひげ。すべて、知っている姿のはずだった。だのにどうして、この場ではすべてが邪悪にしか見えないのか、天翔にはわからなかった。


「誰かと思えば天翔ではないか。この明傑を慕って、ここまで追ってきたか」

「亜父……いや厲鬼ども。ここで何をしている」


 うめき混じりの天翔の声に、人は――厲鬼に憑かれた劉明傑は、嘲りの笑いで応えた。


「黄龍を、目覚めさせようとしておるのよ」

「……黄龍?」


 天翔も、名だけは書物で読んだことがあった。世をかたちづくる五行には、それぞれの力を統べる「五獣」がいる。すなわち水の玄武、火の朱雀、金の白虎、木の青龍、そして「土の黄龍」。五獣の力は、この世に住まう獣たちの中で最も強い。もしも怒りに触れたなら、天変地異をも引き起こしかねないほどに。

 だがもし五獣がこの地にいるとすれば、それは青龍ではないのか。ここは木徳の都であり、上に立つ宮殿も「青龍殿」だ――と考えかけて、天翔は前夜の話を思い出した。ここは元々、土徳の地なのだ。


「すべては、非道の『青』を滅するため。我らから奪い、我らを辱め、我らを滅ぼし、すべての罪を史上から消し去った鬼畜どもを……この世から消し去るため」

「だから、黄龍を起こそうっていうの?」


 白虹の声に、切迫した響きがある。


「だめだ。いま黄龍は眠ってる。無理に起こせば間違いなく災いがある。まして、こんな穢れた力を注がれたなら――」


 そこまで言って、白虹は息を呑んだ。


「もしかして、おまえたち……わかっててわざと、黄龍を穢そうとしてる?」


 黄龍の爪先が、かすかに動いた。場に満ちる瘴気が濃くなっている。

 厲鬼が汚した龍脈の霊気を、眠る黄龍は飲み込まされているのだろうと、天翔は想像した。

 明傑が、得意げに口角を引き上げた。


「まこと、欲望の力とは強いもの。平凡な人間でさえ、道徳の鎖をひとたび外せば、驚くほどの力で暴れ狂う。それほどの力だ、集めて龍脈に注ぎ込めば、五獣でさえ狂わすことができよう」

「五獣が狂えば、都が壊れるだけじゃ終わらない。五行の巡りが崩れて、なにもかもがめちゃくちゃになる……気候も季節も乱れて、国中でどれだけの人が死ぬのか見当もつかない」

「望むところよ」


 明傑は高く笑った。


「非道の『青』に従う者ども、奴らが築き上げた物ども。すべて無に帰してくれようぞ。我らから奪い、殺し、焼き尽くし、史上からも消し去った者どもへの、当然の報いだ……だがな天翔」


 不意に、明傑の手から鈍い光が飛んだ。

 天翔を狙った一閃を、すんでのところで白虹が弾く。


「亜父として、おまえにだけは情けを与えてやる。さあ天翔よ、受け取るがいい……限りなき父の愛をな!」


 明傑は己が唇を一舐めし、大きく手を広げた。両の掌を、鈍く光る瘴気が包む。

 黄龍を包む邪霊の気配が、強くなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る