前夜

「もう、みんな気付いてると思うんだけど。『木』の統治は衰え始めてる……政治は乱れ、天地の気は正しく流れず、あちこちで五行の均衡が狂い始めてる」


 潜めた声で、白虹は語る。碧海ももはや反論せず、白虹の言葉に聞き入っていた。


「欲望の赴くままに奪われて、踏みにじられて、焼かれて死んでいったたくさんの魂は、強い『木』の力でこれまで抑え込まれてた。けれど封じる力が弱まったから、いま表に出てきたんだよ」

「とすれば白虹殿。奴らの狙いは、なんなのでしょうか」

「さあね、僕は彼らじゃないからわからない。でも、もし、僕が同じ立場だったりしたら――」


 どこか悲しげに、白虹は天を仰いだ。


「――同じ目に遭わせたいと、思うかもしれないね。『土』が滅ぼされたのと同じように、『木』も滅ぼしてやりたいと」

「だとすれば彼らの心情、理解できなくはありません……が」


 天翔の胸中に、わずかな、しかし確かな怒りが湧く。


「彼らの復讐に、我が亜父はなんら関係ないはず。なぜ、亜父が奴らに囚われねば――」

「『木』の帝に忠義を尽くす臣下。それだけで十分だろうね。欲に狂った忠臣が都を滅ぼすなんて、彼らにとっては愉快な喜劇だと思うよ。そして」


 白虹の表情が、急に険しくなった。


「もし策もなしに、僕らが明傑さんを討ったとしたら……他の誰かが次の依代にされる。宰相を討った明傑さんが、次に憑かれたみたいにね。厲鬼れいきは、剣や槍で滅ぼせはしないから」

「では、どうすればよいのです」

「そこで、大哥おにーさんにお願いなんだけど――」


 急に白虹は、物をねだる幼子の表情になった。


「麒麟、呼んで?」

「呼べるのですか、あれは?」


 当惑しつつ、天翔は答えた。

 先日見た白き麒麟。白虹はあれのことを言っているのだろう。だが天翔も、かの聖獣がなぜ現れたのかわからない。命を下せと言われた覚えはあるが、あの夜以来、同じ声は聞こえていない。麒麟自身がどこへ行ってしまったのかも、わからない。


大哥おにーさん、麒麟とお話してたじゃない」

「話しかけられたから応えただけで……呼んだ覚えはありませんが」

「呼べないの?」

「呼べません」

「えー」


 白虹は、見せつけるように頭を抱え、うめいた。


「麒麟にお願いするつもりだったのにー。全部穏便に片付けて、って」

「聖獣を便利な道具扱いするのは、呼べたとしても無礼が過ぎると思いますが。あなたの道術で、なんとかならないのですか」

「碧海さんひどーい。僕でも、なんとかできないことはないんだけどさ――」


 そこで急に、白虹は真剣な顔になった。眉間に皺を寄せ、天翔を見つめる。


「――大哥おにーさんが、たぶん泣くよ」

「どういうことだ」

「僕の力じゃ、厲鬼の首魁を滅ぼすには足りない。依代から引き剥がせるかどうかさえ、ちょっと怪しい。せいぜい封じるくらいしか」

「つまり?」

「麒麟がいなくて僕だけだったら、勝てる手段はひとつしかない。厲鬼の首魁を依代に封じて、抜け出せなくしたうえで……依代もろとも討つ」


 理解した瞬間、天翔の全身から血の気が引いた。


「亜父ごと、殺すしかない……と?」


 白虹は何も言わず、ただ頷いた。

 激昂した天翔が、叫ぶ。


「白虹殿、何か手はないのですか! 亜父を救いつつ、厲鬼どもだけを滅ぼせる手段が――」

「だから、麒麟呼んでってお願いしたんだけど、ね」


 ゆるやかに白虹は首を振った。


「悪いけどたぶん、僕の力だけじゃどうにもならない。できるかぎりのことをやりつつ、どこからかあの麒麟が、助けに来てくれるのを願うしかないね。……ただ、近くに気配は感じるんだけど、どこにいるのかは僕にもわからない」

「くっ……」


 天翔は歯噛みした。うなだれ、肩を落とす。

 白虹も碧海も無言であった。かける言葉を、見つけられないでいるようだった。



 ◆



 一日が過ぎた。

 友軍の諸侯とあわただしく連絡を取りながら、天翔は白き麒麟の行方について情報を集めさせた。だがあの夜以降、都および近郊で麒麟を見たとの証言は得られなかった。

 また、麒麟を呼び寄せる手段についても有力な情報はなかった。殺生を嫌う心優しい聖獣で、太平の世に現れることがある――という、通り一遍の知識が集まっただけであった。太平の世とは言い難い現在に、なぜ麒麟が現れたのか、教えを請うた学者たちにもわからないとのことだった。


 日が沈み、夜となった。

 日中の用事を終え、夜着に着替えた天翔は、寝室の窓辺で灯りも点けず座っていた。疲れた身体に眠気が来ない。窓から差す月の光が、沈む己の心をさらに冷やしていくようで、痛々しかった。


「眠れませんか」


 いつのまにか、背後に碧海がいた。碧海は空の椅子を引き寄せ、天翔の隣に腰を下ろした。微笑みかけてくる碧海を、天翔は力の入らない瞳でぼんやりと見た。


「眠れずとも、横にはなっておきなさい。明日に障りますよ」


 肩を叩かれても、返す言葉が見つからない。無言でいると、碧海は微笑んだまま軽い溜息をついてみせた。


「不安ですか」

「俺自身については、不安はない。白虹殿が共に来てくれるのだからな」

「そうですか。……私は不安ですがね。あなたの身を、あの怪しげな道士に預けねばならないことが」


 碧海は乾いた笑い声をあげた。

 明朝、天翔率いる軍勢は都に攻め入る。作戦の手筈は、既に友軍にも伝達済であった。

 日の出と同時に、白虹が仙術を使って黄蓮河おうれんがに橋を架ける。渡河した軍勢は、都の大通りを進軍し青龍殿へ向かう。最終目標は都全体の制圧。こちらが本隊であり、率いるのは碧海だ。

 一方で、天翔と白虹には別の使命があった。

 ここ数日、劉明傑は宮中から姿を消していた。間諜たちが探った結果、彼は都の北西外れにある古いびょうへ向かったと分かっている。二百年前、現在の都が造られた当時からあるとされる廟は、龍脈が集まる中心に建っていると噂されている。明傑と厲鬼はそこに籠ったまま、出てこないらしい。

 共に古廟へ向かい、厲鬼の首魁を滅ぼす――それが天翔と白虹の役割であった。古廟は狭く、また白虹の力にも限りがある。人数は絞った方がいい、との白虹の判断だった。


「大丈夫だ、白虹殿は信頼できる御方。働きには何の不安もない。……俺さえ、己が役目を果たせたならな」


 話すにつれて、声色が弱々しくなる。碧海が、強く天翔の背を叩いた。


「仮にも総大将が、そう弱気でどうするのです」

「……俺は、自信がない」


 額に手を当て、天翔はうつむいた。


「その時が来て、その必要に迫られたとして……わからない。俺は、あの怨霊を滅ぼせるのか。亜父を、もろともに討つことができるのか」

「まだ、そうと決まったわけではないでしょう」


 笑ってみせる碧海を、天翔はぎろりとにらみつけた。


「おまえらしくもない。軍師は、常に最悪の事態を考え備えておくものではないのか」

「人が相手であれば、確かにそのとおりですがね。なにしろ人知を超えた怨霊です、考えたところで意味もないでしょう」

「本当に、いつものおまえらしくもないな」

「たまには、こういう局面もあります。あらゆる可能性を想定しつつも、向う見ずに動かねばならない時が」


 碧海はちらりと窓の外を見遣った。浮かぶ月は宮中で見た時よりも太り、満月に近い十三夜の姿だ。


「それに、いちど奴らに憑かれた身として言いますがね。少なくとも私は、あのような醜態を晒したまま生き続けたくはありません……いっそ討たれた方が、男子としての名誉は守られます。明傑殿も同じ心情でしょう」

「わかっている。理屈では……わかっている、が」


 口ごもる天翔の肩を、碧海はそっと抱き寄せた。

 掌から伝わる体温が、ひどくあたたかく感じる。


「天翔……覚えていますか。私が、厲鬼に憑かれた時のこと」


 意図が読めず沈黙していると、碧海は、そのまま穏やかな声で語り続けた。


「あなたは、あまりに酷い恰好で戻ってきた。帯を取られ、髪を乱し……そして私は、邪霊に憑かれた明傑殿に捕まり、首を絞め上げられた。そうして、欲に囚われた」


 天翔の脳裏にも徐々に、先の光景が蘇ってくる。宵闇の中で狂気に囚われた、ふたりの対峙する姿が。


「あの時、私は悟りました。あなたこそが、私の内なる欲なのだと。あなたを守り、傍らに置き、共に在ることこそが、私の我欲なのだと、ね」


 不意に、肩に重みが乗った。碧海の頭が、もたれかかってきていた。


「正直に言います、天翔。私は今、気が狂いそうですよ。あの、邪霊に憑かれた物欲しげな目に、一時といえどあなたを晒すのが耐えられません。そのような輩に、あなたの心が囚われていることが我慢なりません」


 肩に乗った頭が、擦りつけるように動く。


「可能であれば逃げたい。あなたと共に逃げたい。将の責も郡丞ぐんじょうの任も、なにもかもかなぐり捨てて、地の果てまで逃げたい。奴の目の届かないところまで……そうしなければ、三日の内にも狂ってしまいそうですよ。あまりに腹立たしく、憎らしく、妬ましいがゆえに」


 肩を抱く手に、力が籠る。


「ですので太守殿。迷いを覚えた時は、思い出してくださいね。あなたの側では常に、狂いかけた軍師が見張っているのだと。邪霊を滅ぼして戻らないかぎり、その者は本当に狂ってしまうのだと」

「亜父の命と、おまえの正気か……天秤にかけるもの同士が、あまりに重いな」

「私としても、できればそうならないことを願っていますが」


 碧海の声から、いくぶん力が抜けた。


「相手は人ならざる怪異……予想外のことは起こるでしょうが、予想外の助力もあるかもしれません。それこそ、麒麟がどこからか助けにやってくるような」


 肩の上の重みが消えた。碧海は椅子から立ち上がり、どこか清々しい顔で窓の外を見た。青白い月光に照らされた横顔が、端正だと天翔は思った。日頃誉めそやされる己が姿とは、異なるかたちの美だと思った。


「今宵は休みなさい、天翔。寝付けずとも横になれば、いくらか疲れは取れるでしょう」


 無言で天翔は立ち上がった。

 互いに強く手を握り合い、解き、別れた。

 寝台に横たわれば、掌には碧海の温もりが残っている。

 眠れそうな気がした。

 この熱を覚えているかぎり、己は大丈夫だ――そんな気さえ、した。

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