白麒
「白の、麒麟。なんで……こんなところに……」
斬られた腕を押さえつつ、白虹は目を丸くした。
「
白虹の問いに、天翔は答えられない。
だが、背に触れる鱗は温かかった。触れたところから、心胆が安らかに凪いでいく。さきほどの慈愛に満ちた声は、この獣だったのかもしれないと、天翔は思った。
(主命、確かに
獣が一声、吼えた。
辺り一帯を震わすほどの咆哮。だが耳に痛みがない。むしろ心地良い音と、天翔には感じられた。
見れば、碧海は倒れ伏していた。明傑は膝をつき天を仰ぎながら、己が喉に手を当てている。自身の首を、絞め上げているようにも見えた。
とっさに碧海へ駆け寄った。気を失った身体を抱え上げ、ようやく気がついた。手足が動く。薬酒の毒が抜けている。
背後から、二度目の咆哮が轟いた。
明傑が、圧し潰されたような声をあげた。激しく頭を振り、悶え苦しんでいるように見える。
(我らを、阻まんとするか。白の麒麟よ)
地の底から唸るような、低く冷たい声が響く。
(我らの望みは同じはず。非道の「青」を亡ぼし、その罪業を
(青の麒麟が嘆く声は、我が耳にも届いておる。が――)
慈愛に満ちた獣の声が、怨霊たちの唸りと共に、天翔の中に流れ込んでくる。
(――「青」の亡びは、我が望みにあらず。我はただ、「白」の泰平を望むものなり)
(「白」は「青」に打ち勝つ者。ならば、我らの望みは同じはず)
明傑が苦しみ悶える声が、さらに激しくなった。額には脂汗が浮き、焦点の定まらない目は何も見つめていない。
「やめろ、亜父を離せ! 去れ、怨霊ども……!!」
天翔が叫べば、地の底から響くような嘲笑が返ってきた。
(我は手を貸しておるだけよ。この者の望みを叶えてやるためにな。徳と礼節とに縛られた哀れな魂を、解き放ってやっただけだ)
「……天翔」
不意に、明傑の声がした。目にかすかな光が戻り、縋るように天翔を見つめている。
「逃げよ。逃げられるうちに。聖なる獣が、こやつらを抑えておるうちに……!」
我に返り、周りを確かめる。
碧海は、天翔の手中で気を失ったままだ。白虹は腕に傷を負ったが、命に別状はないように見える。
明傑は苦しみ続けている。そしてどうやら、彼の兵たちも同様であるように見えた。膝をつき震える者、天を仰ぐ者――さまざまに苦しむ兵卒たちに、戦意は感じ取れない。
自軍の状況も素早く確かめる。こちらは撤退の準備こそ整っていないが、苦悶や混乱の気配はないように見える。
天翔は意を決した。
「全軍撤退せよ! 可能なかぎり速やかに、
兵たちが、一斉に動き始めた。
天翔も、碧海を抱いたまま立ち上がった。白の麒麟は微動だにせず、明傑を見据えたままだ。
(行くのか。主よ)
聖獣の声が、頭の中に響く。
主と呼ばれ、少しばかり天翔は気恥ずかしさを覚えた。己より優れた者に「主」とみなされる面映ゆさは、日頃よく知っている。碧海が、そうであったから。
その碧海は、己が手の中で気を失ったままだ。
「白の麒麟よ。この場を、任せてもよいか」
(主命ならば。……厲鬼の首魁は、祓えぬかもしれんが)
人であれ獣であれ、己を主と呼ぶ者を残していくのは心苦しい。だが天翔の迷いを見て取ったかのように、聖獣は声を伴わない言葉を続けた。
(かの者らが、我を傷つけることはできん。主は、人の子らのことだけを気にかけよ)
頷き、踵を返す。
去ろうとした時、足元が揺れた。邪霊たちの哄笑が、地を震わせていた。
轟く笑いの中、嘲りの声が、いやにはっきりと聞こえる。
(覚えておくがよい。我らが呼び覚ますは人の本性。今宵、おまえが見たものこそが真実。くだらぬ理性の鎖から解き放たれた、本当の姿なのだとな……!)
耳を塞ぎたい。
しかし、碧海を抱く両手は自由にならない。それに耳を塞いだとしても、悪霊の声は防げはしないだろう。
振り切ろうと、天翔は急いだ。しかし男一人を抱え、思うように歩は進まない。
「耳を貸しちゃだめだ、
白虹が、あたたかな光で身を包んでくれた。嘲笑う声が、少しばかり遠くなる。
しかし怨霊たちの声は、胸の中に焼き付き離れない。
(今宵、おまえが見たものこそが真実――)
言葉は長く鋭い棘となって、天翔の心を深く抉っていた。
◆
宵闇に紛れ、天翔の手勢約一千は、黄蓮河対岸への撤退を完了した。
黄蓮河に架かる唯一の橋は木製であった。都の防衛のため、敵軍が迫った際には簡単に落とせる造りになっていた。
兵たちに命じ、天翔は橋を落とした。
宵闇を映した黒い流れが、対岸の都と自軍の兵たちを隔てる。
残してきた白の麒麟を思いつつ、天翔は天を仰いだ。月は既に沈んでいた。瞬く星々に、書物で学んだ星宿の図を重ねれば、不意に涙がこぼれた。
いつか手紙で伝えたことがある。亜父と星を見たい、と。
碧海と共に、夜空を眺めたこともある。
亜父は、今どうしているだろうか。碧海は目を覚ますだろうか。
涙を流しつつ、天翔は拳を握り締めた。今は、なにもかもが悔しかった。何もできぬ己自身が、ただ歯痒かった。
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