邪笑
「だ、めです……行ってはなりません、天翔!」
震える身を起こしながら、碧海が叫ぶ。
ふたたび、明傑の手から鈍い光が飛んだ。碧海の身体が、またも地に叩きつけられた。
「ぐ、ぅ……!」
「貴様には訊いておらん。睦み合う父と子に、水を差すでないわ……のう、天翔」
明傑は、形ばかり優しげな笑みを作った。しかし、飢えた獣のごとき双眸と組み合わされば、ただ空恐ろしい。
「続きをしようではないか。積もる思いを、夜通し語り合おうぞ……一夜といわず、幾夜でも」
「いけません天翔!」
絶叫する碧海を、明傑は一瞥した。そして不意に、彼の身体を掴み上げた。
「そうだな。まずは、この男から」
明傑の手が、碧海の首にかかった。押し潰されたような声が、碧海の喉から漏れる。
「小煩く鳴く細首、捻り潰しとうてたまらんわ。だが天翔よ、おまえが誠心から願うなら、解放してやらんでもない」
碧海が何かを言おうとしている。だが、絞め上げられて言葉にならない。
「来い、天翔。愛しい亜父のものとなれ。友の命を惜しむのならば、な」
明傑が、これ見よがしに舌なめずりをする。
宮中での経緯が身の内に蘇り、背筋に悪寒が走った。縛られた手首、息に混じる酒の臭い――だが己が行かねば、碧海と一千の兵は、正気を失った明傑に捻り潰されるだろう。
渇ききった喉に、唾をひとつ飲み込む。己はどうすればよいのか――考えかけた瞬間、鋭い叫びが上がった。
「っ! き、貴様……!!」
声は明傑であった。脇腹が斬られ、血が滴っている。
碧海は解放されていた。手には抜き身の佩剣が握られている。刀身が赤黒く濡れている。
「許さん。決して……許さん」
碧海の声は、聞いたことがないほどに低く、威圧の色を濃く帯びていた。
「貴様ごときの
くっくっと笑いながら、碧海は肩越しに天翔を振り向いた。
茶色の双眸に、あきらかな狂気の色が宿っている。口調までもが変わっている。
「行くなよ天翔。おまえは私のものだ。おまえが屈してよいのは私だけだ。おまえを意のままにしてよいのは、私だけだ」
獣じみた息を漏らしながら、碧海はまくし立てる。
血に濡れた手が、天翔の頬へと伸ばされてくる。
「おまえを見てよいのは私だけだ。天翔、その顔は、有象無象の卑しい目に晒すなよ。私だけに見せろ。私だけを見ていろ」
頬を、撫で回される。生温い感触が、べっとりと頬に残る。
碧海は、いまや完全に狂気に囚われていた。ぎらつく瞳、歪んだ笑み、興奮の色を含んだ荒い息――背後で膝をつく明傑と、おそろしいまでに同じ表情だった。
「だめだ。碧海さんまで、
傍らでうめく白虹が、不意に鋭い叫び声をあげた。
道服の袖が大きく裂け、血が流れている。碧海が、血染めの剣を掲げた。
「許さん。決して許さん……邪な心をもって呉天翔を見る者は、誰一人として許さん。怪しげな術と飯とで、取り入ろうとするおまえもな」
「……碧海、さん」
腕を押さえてうずくまりつつ、白虹はうめいた。
呆然とする天翔の耳に、ふたつの哄笑が響いてくる。明傑と碧海が、共にすさまじい形相で笑いつつ、対峙している。
ふたりは、鏡で映したように同じ表情であった。息ができないほどの濃い瘴気が、周囲を圧して放散されていた。
「身のほどを知らぬ小僧よ。一千の兵と共に、我らが剣の錆となりたいようだな」
「その邪な目、もはや亜父と呼ばれるには値しない。呉天翔は私だけのものだ。師友として、軍師としてな」
天翔の身の内に、薬酒はいまだ残っていた。四肢が重い。頭の芯にも痺れが残っている。働かない思考の中、それでも、脳裏に蘇ってくるものがあった。
少年の日、春の水温む頃、明傑から受け取った手紙が浮かぶ。
(呉天翔へ。鴻郡の雪解けにあわせ、この文を書いている。御母堂は息災か。勉学は順調か。天文に関心があると伝え聞いたゆえ、星宿に関する書物を送る。都の学者が著したものだが、読みこなせるだろうか。難しいようであれば、入門書を数冊見繕うゆえ、知らせるがよい。いつかおまえと、月のない夜に星を眺めつつ、天地の道理について論を戦わせたいものだ。いつか、また会える日を楽しみにしている。劉明傑)
秋の明月の下、碧海と語らった言葉が浮かぶ。
(宝玉のような美しい月ですね。詩の一首でも詠みたいところですが、あいにく私は文才と無縁でして。ええ、私にも苦手なものくらいありますよ。天翔、あなたは詩が好きですか? ……そうですか、好きだけれど
書簡に綴られた、力強くも整った筆跡。
月明かりに浮かぶ、やわらかな微笑。
敬愛する、優しく賢い人々。
……それが、どうして、こんなことになってしまったのか。
痛いほどの邪気の中心で、明傑と碧海は相対している。悪鬼のごとくに笑み、息を荒げながら。
天翔は歯噛みした。本来のふたりは、共に際立った理性と判断力を持ち合わせているはずだ。せめて邪霊を、ひとときなりとも引き剥がせれば――
(何をしている、我が「主」よ)
不意に、どこからか言葉が聞こえた。
(ん、まだ冠は得ておらんのか? 金の王が地上に現れたと、蛟龍が喜んでおったから来てみたが)
はじめ碧海の声と思った。明傑の声にも聞こえた。
(見たところ、まだ青の世ではないか。終わりかけてはおるようだが)
一瞬遅れて気がついた。声色はどちらにも似ていない。だが常のふたりのような、慈愛と威厳に満ちた声であるのは確かだった。目の前で邪霊に冒された、獣じみた者たちの声ではなかった。
(まあよい。金の王よ、汝こそが「主」だ。命を発する者だ。立ち上がり、主命を下せ)
碧海の声だ――と、思った。
澄んだ声色は、男とも女ともつかない。けれど碧海だと思った。少なくとも彼のような誰かだと思った。天翔を「主」と呼び、あたたかな手で背を撫でてくれる、優しく賢い誰かだと思った。
主命を下す、とはどういうことだろうか。自分が命令をすれば、ふたりは元通りになってくれるのだろうか。優しい亜父に、頼りがいのある師友に、戻ってくれるのだろうか。
わからない。わからないが、やってみようとは思った。失敗したところで、今以上に状況が悪くなりはしない。既に最悪の状態なのだから。ならば、賭けてみるべきだ。
天翔は口を開いた。できるかぎり重々しい声を、作りながら。
「……
渾身の力を足に籠め、天翔はゆっくりと立ち上がった。
「両名の身柄を奪いし、呪わしき怨霊どもよ――」
ふらつく身体を起こし、背筋を張る。対峙していたふたりが、同時に天翔を見た。
青い双眸に力を籠め、獣じみた視線を正面から受け止める。
「――鴻郡太守、呉天翔の名において命ずる。
片田舎の太守の名に、どれほどの力があるのかなど知らない。
だが名乗らねばと思った。命令は、己が名において発さねばならないと、魂のどこかで知っていた。
声に、ふたりは反応しない。
だが一瞬の後、陣中に強烈な白光が満ちた。
闇に慣れた目が、眩む。
顔を覆った瞬間、身体が傾いた。倒れた背が、硬い鱗に受け止められた。
「……って、これ……!」
白虹が叫ぶ。
龍のごとき頭、身体を覆う白い鱗。頭上に伸びた一本の角。豊かになびく白い尾。
純白の聖獣が、天翔の背を守るように現れていた。
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