帰陣

 長く風に吹かれていたためか、身の内の火照りはかなり抜けてきたと感じる。立てそうに思い、地に足をつけてみれば、やはり力は入らない。大きくよろめいたところを、碧海が抱き止めてくれた。


「……すまん。碧海」

「どうしました! 何があったのですか、天翔!!」


 背を撫でる碧海の手が、細かく震えていた。動揺が伝わってくる。落ち着かせようにも何を言えばいいのか、頭が回らない。すると白虹が助けに入ってくれた。


「色々あって、明傑さんがちょっとおかしくなってる。詳しいことは天幕で説明したいんだけど……とりあえずちょっと頭冷やそうか、碧海さん?」


 見上げれば、碧海はすさまじい形相だった。眉間には深い皺が刻まれ、吊り上がった眦はおそろしい眼光を湛えて白虹をにらみつけている。


「明傑殿との間に、何があったというのです」

「……宮中に軟禁されかかってたところを、すんでのところで助け出してきた。大哥おにーさんを人質に、配下の兵力を封じようとしたみたいだね」

「帯がなくなっているのは」

「たぶん、逃がさないためじゃないかな。ひとりで外に出られないように……僕としても苦労したんだよ、ここまで連れて帰ってくるの。感謝してよね」


 上手く話を作ってくれたと、白虹に内心で感謝する。

 碧海は、なおも疑念を抱いている風だった。だが一応は白虹の説明を受け入れ、彼を天翔と共に天幕へ招き入れた。

 天翔に新しい服を着せかけつつ、碧海は白虹に問うた。


「明傑殿配下の軍勢が、数刻前から市街での略奪を始めた、との情報が入っています。この一件と関係があるのですか」

「あるよ、ものすごく。心して聞いてほしいんだけど――」


 白虹は碧海へ、天翔に伝えたのと同じように、厲鬼にまつわる情報を伝えた。険しい表情で聞き入っていた碧海は、聞き終えると低い呻き声を上げ、目を伏せた。


「明傑殿が、その怨霊に憑かれているとなると……事態は非常に厄介ですね。私たちの兵力では、明傑殿および麾下の狼藉を止めることはできません」

「碧海。市中の略奪について、情報を得ていながら動けなかったのは、そのためか」


 天翔の問いに、碧海は大きく頷いた。


「歯痒い限りです。私たちにもっと力があれば、事態を正すこともできるのでしょうが――現状で、彼我の兵力には数倍の差がある。うかつに動けば返り討ちにされるだけ」

「だが、義を見てせざるは勇無きなりとも言う。亜父の『子』として、なによりも人として、目の前の非道を見捨ててはおけん」

「あなたなら、そう言うと思っていました天翔……策は、ないわけではありません」


 天翔が身を乗り出す。碧海は、ひとつ咳払いをして続けた。


「帝の密勅に応じた諸侯が、いまも都へ集まりつつあります。彼らと同盟できれば、数の上では互角に持ち込めるでしょう」

「亜父を、討つつもりか?」

「情勢次第ですよ。まずは一刻も早く、都の破壊を止めねばなりません……まずは兵力で圧をかけ、交渉に持ち込めれば」

「できるのか? 怨霊に憑かれ、欲のままに暴れる相手だぞ?」


 指摘すれば碧海は、軽い呻き声と共に黙り込んだ。

 白虹が口を挟んでくる。


「今はまず、みんなの身の安全を考えて。あの人、たぶん大哥おにーさんのこと追いかけてくるよ。ここにこのまま留まっていたら、大哥おにーさんも碧海さんも危ない。あとのことは、それから考えよう」

「確かに。いったん河向こうへ退きましょうか……天翔も異存はありませんね?」


 痺れの残る頭で、天翔は小さく、しかしはっきりと頷いた。

 都の東側には、小さな河――黄蓮河おうれんがが流れている。小さいとはいえ、人の背丈よりも深さがあり、横切るには橋を渡る必要がある。そのため河は、都を守るほりとしての役割も果たしていた。逆に言えば、河さえ渡れば、都からの攻撃を大幅に防ぎやすくなる。


「……撤退の、準備を。亜父を、救うためにも」


 震えの残る声で天翔が告げると、碧海は深々と頭を下げた。


「総員、起床し隊を整えよ! 全軍、黄蓮河対岸へ撤退する!」


 碧海の命令に、伝令兵が深々と頭を下げた。

 指令はまたたく間に全軍へ伝えられ、松明の灯りが増えはじめる。

 天翔は、碧海に連れられ天幕へと戻った。乱れた身なりを整え、自らも移動の準備を整えようとした時、血相を変えた伝令兵が飛び込んできた。碧海が訊ねる前に、兵は叫んだ。


「我が軍、完全に包囲されております。現状での撤退は不可能……!!」


 青ざめた碧海が、天幕の入口を大きく開く。

 宵闇の中、赤く燃える火が無数に連なっていた。炎の群れは八方を囲み、丸い檻となって天翔たちの軍勢を閉じ込めている。


「……先手を……打たれたか」


 天翔は歯噛みした。宮中で襲われた時、明傑の用意は周到だった。だとすれば、配下の軍勢についても同様であろう。逃がさないための網は、既に張り巡らされていたのだ。

 ならば、どうすべきか。考えを巡らす天翔の耳へ、いま聞こえるはずのない声が響いてきた。


「迎えに来たぞ。天翔よ、可愛い我が子よ」


 背筋に悪寒が走る。

 だが、なぜ。声の主は、さきほどまで宮中にいたはずだ。白虹はすさまじい速さで都を駆け、ここへ戻ってきた。かの御方が、ここにいるはずはない――

 強烈なつむじ風が、舞った。

 兵たちが、弾き飛ばされる。

 吐き気を伴うほどの瘴気が、撒き散らされた。

 一瞬の後に風が治まると、丈高い人影が炎の輪から進み出てきた。豊かなあごひげを蓄えた、懐かしいはずの顔は、いまや獣じみた欲を滾らせ、ぎらついた笑みで天翔たちを見つめている。


「……亜父」

「明傑殿」


 天翔と碧海が、同時にうめく。明傑は、狂気を含んだ声で高く笑った。


「やはりここにおったか……子の考えることなど、亜父にはお見通しよ」

「天翔に御用でしたら、私が伺いましょう。天翔はいま――」


 碧海が言い終わらぬうちに、明傑の手から鈍い光が放たれた。正面から受け、碧海は腰から崩れ落ちる。


「貴様に用はないわ。……のう、天翔」


 まとわりつくような声で、明傑は天翔へ微笑みかけた。


「おまえが連れておる兵は、いかほどか」


 意図が読めず、言葉を返せない。同盟関係にある将軍として、友軍の兵の数くらいは知っているはずではないのか。

 天翔が黙っていると、明傑は愉快げに高く笑った。


「確か一千ほどであったな。……その一千が、いまどのような状況にあるか。理解しておるな?」


 天翔は息を呑んだ。

 明傑の持つ兵力は、天翔よりもはるかに多い。つまり今すぐ潰せると、明傑は言いたいのだ。

 闇に浮かぶ松明の群れが、無言の圧を伴って揺れる。


「態勢の整わぬ少ない兵など、我が号令ひとつでいつでも討てる。逃れられると思わぬことだ」

「亜父。何を……お望みですか」


 震え声で問う天翔へ、明傑はまたも大きな声で笑った。

 一千の命を質に取った目の前の相手は、やはり、己の知る亜父ではない――怖れと怒りが、天翔の胸を満たす。


「なあに簡単なことよ。天翔、我が元へ来い。おまえの身一つと引き換えに、すべての者たちの命を保証しよう」

「……っ……!」


 天翔と、地に倒れたままの碧海が、同時にうめく。

 ねばつく視線で二人を眺め、明傑は満足げな微笑みを浮かべた。

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