3章 混迷

厲鬼

 はだけられた服の裾が、風を含んではためく。いつのまにか解けていた髪が、乱れ散る。

 すさまじい勢いで、白虹が駆けていた。自分自身より背の高い天翔を抱えているとは、信じがたいほどの速さだった。

 役所の広場を抜けたところで、白虹は高く跳んだ。宮殿の屋根に飛び上がり、そこでようやく一息をついた。縛られたままだった天翔の手首を解いてやりつつ、白虹はゆるやかに首を振った。


「気をつけてって言ったでしょ、大哥おにーさん。人の身じゃ、わからなかったのかもしれないけど」

「……いったい……何が……」


 風に晒されたためか、身の内の熱気が少しばかり抜けた。口が、かろうじて動くようになっていた。

 眼下では、青龍殿のきらびやかな屋根の群れが、月光に淡く浮かび上がっている。青い瓦の間を縫うように、衛兵の持つ松明の火が行き交うのも見えた。


厲鬼れいき。恨みを抱いて死んでいった人々の怨霊だよ。しばらく前から、そいつらが目覚め始めた……この龍蓮りゅうれんの都で」

「……しばらく、前……?」


 白虹は、青龍殿の奥を見遣りながら頷いた。朝昼は政務の場となる正殿は、今は静まり返っている。


「おそらく、最初に憑かれたのは前の宰相だった。厲鬼は、人の隠された欲を引きずり出す……前の宰相が、もともとどんな人だったのかは知らない。けれど奴らに憑かれて、己が欲の虜にさせられて、その後は知っての通りさ」

「しかし……奴、は……亜父が、討った……」

「そうだね。だからあの人が――明傑さんが、次に憑かれた」


 白虹は、溜息をつきつつ首を振った。


「取り憑かれた人間を殺しても、厲鬼は滅びない。肉体から解き放たれて、どこへともなく消えてしまう。だから、都でずっと行方を追ってたんだけど……考えてみれば、真っ先に疑うべきだったんだよね。宿主が討たれた時、いちばん手近にいた人間を」

「……亜父、は……徳ある、御方」


 思うように動かない口で、天翔は懸命に言葉を紡いだ。


「卑しい……怨霊ごときに、敗れるような……方では――」

「でも実際、乗っ取られてたよ?」


 天翔の脳裏に、怒りの熱が湧く。しかし思考は回らず、思うように言葉にならない。


「さっき見たかぎりじゃ、完全に憑かれてしまってた。影さえ歪んで、人の形をしていなかった……ああなったらもう、人の理性は残っていないかもしれない。欲望のままに暴れ回る、獣に等しい存在になりはててしまっている」

「そん、な……ことは」


 天翔の脳裏に、さきほど見た明傑のありさまが蘇る。飢えたようにぎらつく目、舌なめずりをしながら近づいてくる歪んだ笑み――あれはすべて、忌まわしい怨霊の仕業だというのか。

 遠く、衛兵たちのざわめきが聞こえる。眼下で動く松明の光が、数を増してきた。


「早めに帰った方が良さそうだ……あんまり動かないでね、大哥おにーさん。喋ったら舌噛むよ」


 返事を待たず、白虹は天翔の身体を抱え上げた。そして再び、すさまじい速さで青龍殿の屋根を駆け始めた。



 ◆



 屋根伝いに青龍殿を駆け抜け、白虹は宮殿の外壁にたどり着いた。

 壁の向こう、宵闇に沈む市街の中で、まばらに火の手が上がっていた。龍蓮の街が燃えていた。


「遅かった、かもしれない」

「どういう……ことだ」


 険しい顔で、白虹は遠い炎を睨み据えた。何かを探っているようにも、見える。


「総大将が厲鬼に憑かれた、ってことは……側にいる人たちも、何もなしではいられない。おそらくは麾下の将も、悪くすると兵卒に至るまで、奴の邪気に毒されているかもしれない」


 白虹は意を決したように、唇を結んだ。道服の裾を裂き、天翔に渡す。


「口に当てておいて、大哥おにーさん。なるべく火の回ってない所を抜けていくけど、煙は吸わないようにね」


 天翔が鼻と口を覆ったのを確かめ、再び白虹は駆け出した。

 物が焦げる臭いが、布越しでもわかるほどに漂ってくる。

 眼下に目を遣れば、大通りは明傑配下の兵士たちで埋まっていた。街道沿いの商店へ徒党を組んで押し入り、物品を運び出している。将官たちも止めようとしない。むしろ率先して扉を打ち壊し、時には部隊長たちと財貨の奪い合いさえしている。幾人か若い娘が捕らえられているのも見えた。

 天翔は唇を噛んだ。

 敬愛してやまない亜父。大恩ある高徳の名士。

 それが、なぜ、このようなことになってしまったのか。

 このような所業、決してあの御方が許すはずはないのに。

 白虹は無言のまま、屋根伝いに都を駆ける。大通りから遠ざかると、明傑の兵士たちは次第にまばらになっていく。

 視界の向こうに、都の大門――天翔の自陣のありかが見えた。陣へ戻れば、碧海が待っているはずだ。

 回らない頭で、天翔は状況を整理しようと試みた。

 すべての事態を、碧海へどのように伝えればよいのか。

 白虹の言うことは本当なのか。

 本当になにもかも、穢れた怨霊の仕業なのか。

 考えるうちに白虹は、大門をひらりと飛び越えた。着地すれば目の前で、不寝番の兵ふたりが目を丸くした。共に鴻郡のしるし――すなわち自軍の証を身に着けている。言い知れない安心感が、天翔の胸の内に湧いた。


「着いたよ、大哥おにーさん

「太守! これはいったい」


 兵士の一人が本陣へと走る。番兵たちの当惑の視線に囲まれながら、白虹は苦笑いを浮かべた。


「太守は、劉明傑殿に招かれ青龍殿におられたはず。いったいいかなる経緯でこのような――」

「あー、説明すると長いんで。できれば直接、碧海さんに説明したいんだけど」


 白虹が視線を泳がすうちに、碧海が兵士に連れられ現れた。駆け寄ってきた碧海は、天翔の姿を認めて血相を変えた。


「……天翔!? 何が……何があったのです!」


 その時ようやく、天翔は己の姿を自覚した。

 帯を取られた着物も、いつのまにか解けていた髪も、都を駆けるうちに激しく乱れていた。はだけられた着物、崩れ放題の髪。どれだけ見苦しい恰好なのか、自分自身では確かめられない。だが青ざめた碧海が震えるほどに、酷い恰好なのだろうとは想像ができた。

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