幕間2

布石

 こう郡に人あり。伝え聞いたとき、周碧海は半信半疑であった。鴻郡は北の片田舎だ。ひとかどの人物がいるとは信じ難かった。

 素質ある者はいるかもしれない。だが天性の才は、磨かねば輝くことはない。師も書も揃わぬであろう辺境の地で、その者はどのように学んだというのか。

 望みは薄いと思いながらも、碧海は鴻郡を訪ねてみることにした。近頃の宮中では小人物ばかりが用いられ、天下は乱れている。だが碧海の父は、立て直す機会はいつか来るだろうと日頃から語っていた。その時に備え、帝室を立て直す優秀な人材を、ひとりでも多く見い出しておかねばならない。

 共に天子をたすけ、世を支える才人を、碧海は父と共に求め続けていた。

 周碧海、二十二歳の秋であった。



 ◆



 想定外だった。訪ねた相手が、あの呉玄雲の息子だとは。

 悪名高かった寵童の息子は、なるほど確かに美しい顔立ちをしていた。だが男色の嗜好のない碧海にとって、男の姿形など、さして興味を惹くものでもなかった。都からの客人に目を輝かせる様子は、素直で可愛らしいとも思えたが、それ以上の関心は湧かなかった。

 屋敷は、北方の片田舎にしては洗練された造りだった。壁や柱は新しく見える。おそらくは呉玄雲が、帝からむしり取った財貨で建てたのだろうと、碧海は想像した。


「私は周碧海。国家の柱となるべき人物を、広く求めております」


 挨拶をすれば、相手――呉天翔という青年は、深々と頭を下げてきた。

 手始めに、どのような書物を読んだか訊ねれば、天翔は首を傾げた。本もろくに読んでいないのか、と内心で侮りかけた碧海へ、天翔は言った。


「この場で挙げきれる程度の読書で、国は背負えるものなのでしょうか」


 書庫を確かめて良いかと問えば、快諾された。真新しい棚に並んだ書名に、碧海は舌を巻いた。

 基本の経書や聖賢の言行録は、当然のようにひととおり揃っている。加えて兵法書、文章術、弁論術、政治論、法律論、詩賦、天文や易学に至るまで、各分野の基本と応用が幅広く揃っていた。都でも広くは出回っていない、最新の書物さえ数冊混じっていた。


「すべて劉明傑殿が選書し、贈ってくださったものです。かの御方には、幼き頃より大いなる恩義を受けております」


 意外な名に碧海は驚いた。宮中で将軍職を歴任し、名士として知られた人物が、寵童の息子と関わっていたとは。

 いずれにせよ、本は持っているだけでは意味がない。

 目についた書物の内容について、いくつか質問を投げかけてみれば、天翔からはすらすらと答えが返ってきた。知識量については申し分がなさそうだ。


「実に多くの書を、読んでおられるご様子。が、学びて思わざれば則ちくらし……書の知識を使いこなせる者こそが、真の知者」


 碧海は天翔を連れて庭へ出ると、小さな砂の山を作った。山の上に茶の小石を、山のふもとに灰色の小石を並べる。


「あなたも御存知の通り、陣は高い所に敷くほど有利。灰色が自軍、茶が敵と考えたとき、あなたならどのように不利を覆しますか」


 天翔はまたも首を傾げた。だが、考え込んでいる風ではない。


「灰色側は不利、とおっしゃいましたが。本当でしょうか」

「兵書にも記されているでしょう。高い所から低い所を攻めれば有利、と」

「書物には、確かにそのように書かれていますが――」


 言いつつ天翔は、灰色の石で砂山の四方を囲んだ。


「――この小山、包囲するのは簡単のように思われます。補給を断ってしまえば、簡単に勝てるように思うのですが?」


 見事だ。

 碧海は拍手をした。書物の上では不利――あえて繰り返した碧海の言葉に、天翔は引きずられなかった。自ら考え、自ら正解を見抜いた。知識を使いこなす素質を、この男は持っている。

 事実この例は、古い戦の記録を引いたものだ。兵書の内容をそのまま鵜呑みにした将が、山上に陣を敷いて包囲され、兵糧攻めに遭って大敗した。広く知られた事例ではなく、だからこそ試問の種としてみたのだが、天翔の才能は、少なくともその将よりは上だと思われた。

 ここまでは合格だ。知識とその運用について、この男が才能の芽を持っているのは確からしい。


 ――ならば確かめたい。すべての装飾を剥いだ、彼の本当の姿を。


 碧海は、最後の試験を行うことを決めた。



 ◆



 長考の末、天翔が黒の碁石を取った。震える指先で盤に置けば、間髪入れず碧海が白の石を打つ。

 残り少ない黒が、またも減った。盤はすっかり白に染まり、勝敗は、碁を知らない者が見たとしても明らかだった。


「投了しますか」


 うつむく天翔に、碧海は冷徹な声で問いかけた。答えは返ってこない。

 最後の試験「囲碁勝負」は、既に碧海が六勝していた。すべて圧倒的大差で決着がついており、天翔は一つも勝てていない。


 ――実戦の才を確かめます。私から一勝でも取れれば、才ありと認め都へ推挙いたしましょう。


 碧海は、そんな嘘を伝えていた。

 実際には、天翔が勝てる可能性など万に一つもない。碧海は都でも知られた碁の名手であり、ごく基本の定石しか知らない天翔が太刀打ちできる相手ではなかった。

 つまりこれは、「折る」ための試問だ。

 決して勝てない戦いを、どこまで続けられるか。心の強さを、碧海は確かめようとしていた。

 ある意味で、将としては最も重要な素質であった。戦場に在っては、少しの負けで挫ける者など無用どころか有害だ。ことに数千数万の命を、そして主の名誉を預かる者は、簡単に折れてはならない。背負ったすべてを支えきるだけの精神力が、一軍を率いる者には求められる。

 文官であっても同じだ。戦場が広野から議堂へ、武器が弓槍から弁舌へ変わるだけのこと。多少の才能があったとしても、心の強さが伴わなければ、国を背負う人材にはなりえない。


 ――さて、どこまで食い下がってくるか。


 見つめる碧海へ向けて、天翔が顔を上げた。視線に心配の色がある。そろそろか、と思い始めた碧海へ、天翔は不安の滲む声色で問いかけてきた。


「何度目まで、お付き合いいただけるのでしょうか」

「何度でも。あなたが、諦めない限りは」


 瞬間、天翔が笑った。不安の色が消え、目に力が戻る。


「では、七戦目投了で。八戦目、お願いいたします」


 天翔は晴れやかな微笑と共に、深々と頭を下げた。

 この男、心の強さにおいても、少しは見込みがあるのかもしれない。


 ――ならば、少し攻め手を変えてみよう。彼の本質を、暴き出すために。


 碁石を入れ物に戻しながら、碧海は薄く笑った。



 ◆



 黒が、押している。

 八戦目にして初めて、天翔が優位に立っていた。盤上には白より黒の石が多く、天翔の青い瞳も楽しげに輝いている。石を置く指にも迷いの色がない。勝ちの可能性を、多少なりとも信じ始めている様子であった。


 ――そろそろ、頃合か。


 碧海が白の石を置く。はじめ、天翔は意図に気付かないようであった。だが二手、三手と局面が進むうち、白皙の容貌には焦りの色が浮かび始めた。

 有利と見せかけたのは、碧海の罠であった。

 得意満面に広がっていく黒の周りで、碧海の白は密やかに網を張っていた。蝶を絡め取る蜘蛛のように、碧海は天翔の動きを封じ、ゆっくりと締め上げていく。


「……っ……!」


 天翔が呻く。わずかな汗が額に光る。何が起こったか、おそらく彼は理解しきれていないだろう。

 少しずつ、しかし確実に、碧海は天翔を追い詰める。抵抗できない黒を、白が侵食し、盤面を己の色に染めていく。

 勝ちを一度ちらつかせ、希望を持たせた後に叩き潰す。力の差を示すには効果的なやり方だ。掴みかけた勝利は幻であり、己はただ相手の掌中で弄ばれていたのだ――と悟った時、なおも戦いの意志を持ち続けられる者は多くない。

 さあ、おまえはどうだ――


「投了しますか、天翔殿」


 八度目の問いを発し、碧海は相手の様子を窺った。

 そして、息を呑んだ。


「いやあ、碧海殿はまことにお強い」


 天翔は笑っていた。

 だが、いままでに見せていた晴れやかな笑みではなかった。手負いの獣じみた恐ろしい眼光が、青の双眸に宿っていた。わずかに上がった口角にも、得体の知れぬ凄味が宿っている。


「一時は、勝てるかと思いましたが……そう、うまくはいきませんね」


 己は弄ばれ、蹂躙されたのだ――そう自覚した瞬間、彼の中で何かが目覚めたのか。

 もともと整った容貌に気迫が加われば、こうも鬼気迫る美が表れるものなのか。

 呆然とする碧海へ、天翔は力強く言い放った。


「九戦目、お願いいたします。碧海殿がお望みなら、ですが」


 碧海は気付いた。己の身の内に、抑えがたい欲があった。

 眼前のこの男を、「折り」たい。

 目の光が消えるまで蹂躙したい。涙を流して許しを請うまで辱めたい。

 引き返すなら今だ――どこからか聞こえる理性の声を、碧海は無視した。


「……では、続けましょうか。あなたの、気が済むまで」


 盤上の石を片付けながら、碧海もまた、おそろしい笑みを浮かべた。



 ◆



 その後、己が天翔と幾度戦ったのか、碧海はさだかに覚えていない。

 碧海の全勝であったことだけは確かだ。だが対局の内容が、ほとんど記憶にない。互いに獣じみた精気を滾らせ、人らしい思考とは別のところで戦っていた……ように思う。

 日没の暗がりが盤面に落ち、二人の手はようやく止まった。空腹と疲労は、極みに達していた。


「……私の負け、ですか」


 天翔は寂しげに笑った。憑き物が落ちたかのような、やつれきった笑みであった。


「そう、ですね。あなたを、直ちに都へ推挙するわけには、まいりませんが――」


 言いながら、碧海は自覚していた。身の内の欲が、治まっていない。

 この男を踏みにじりたい。叶わぬとしても、他の者に踏みにじらせはしない。

 呉天翔を折ってよいのは、俺だけだ。他の誰にも、折らせはしない――渇きにも似た欲望は、疲れの極みにある身の内で、消えることなく燻っていた。


「――ご縁があれば、またお会いしたいものです。呉天翔殿の名、確かに覚えましたよ」


 今の自分が、そんな冷静な言葉を吐けることが、碧海はどこか不思議だった。

 落胆する天翔の瞳にも、獣じみた熱が、かすかに残っているように見えた。



 ◆



 約三か月後。

 周碧海が都での職を辞し、片田舎である鴻郡の郡丞ぐんじょう――郡太守補佐となった、との報せに人々は驚いた。

 呉天翔が、劉明傑の推挙により鴻郡太守に任命された、わずか数日後のことであった。

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